1章 / 雪那I / 菖蒲Ⅵ

 琥珀色の酒をグラスに注ぐ。


 からん、と氷が音を立てる。

 雪那は一息に呷って、グラスを強くテーブルに叩きつけた。ショットグラスではないが、どうも昨晩から飲み続けているせいかタガが外れかかっているようだ。普段なら態度が悪いからと行わないような行為だったが―――だいたい明楽に注意されていたりする―――彼女の前では構わないと思っていた。


「それで、ウチに来たってわけだ。手がかりも無くなって、どうしようも無くなったみたいだな」


 ほんのりと紅潮した頬。

 けらけらと嘲笑うように、雪那は言った。


「お義姉様は心配されてないんですか?明楽くんのこと、大切にされていると思っていたのですが」


 憮然とした態度で和葉が答える。

 酒に酔っただらしない女が彼の姉だと思うと、腹が立って仕方がなかった。普段ならまだしも、今は彼が行方不明という状況なのに、である。それでもなおこんな状態なのだから、出来ることなら今すぐ殺してやりたいくらいだ。


 そんな心境を知ってか知らずか、雪那は酒をグラスに注いで、また飲み干す。

 何度か繰り返した後で、ソファに座る「弟の彼女」を値踏みした。


「……ふん。見れば見るほど、アイツには似合わない女だよ、お前」

「お義姉様が決めることでしょうか」

「そのオネエサマってのも気に入らないな。お前みたいな女は、外面は良くても中身がどす黒いもんだ。出し抜いて、かすめ取って、素知らぬ顔して他人を蹴落とすのが当たり前だと思ってるだろ?そんな奴にアイツはやれないな」

「……随分、酔ってますね」

「酔ってるさ。大切な家族が拉致されたんだ。酒くらい飲んでないとやってられん」


 はは、と自虐的に笑う。

 明楽が家に帰らなくなり、音信不通になってから、雪那はあらゆる手段で彼を探し続けた。

 警察や友人関係はもちろん、仕事で得たコネも使って総動員である。にも関わらず、良い報告は一つも聞くことは出来なかったのだ。荒れるには十分な理由だった。


「有給も使い切ったしな。警察も探偵も、案外使えないもんだ」


 ボトルを傾ける。

 注ごうとしても数滴出るだけ。

 十数本あったボトルも、これで全て空になった。

 元々酒は強いほうだ。帰宅後は必ず飲むし、明楽が止めなければ延々と飲み続けられるタイプである。そのストッパーがいないためか、ストックしてあったボトルの片端から手を付けていた。


 苛立ったように溜息を吐く雪那に、目の前の少女が淡々と語りかけた。


「協力しませんか?」

「は?」

「ウチではそれなりの情報を得ています。攫った犯人も、ある程度の居所の目星も」


 だから何だ、と言いかけて、雪那は口を噤んだ。

 少女の目は真剣そのものだったし、何より雪那を騙すメリットもない。目的は何なのか見極める必要はあるが、彼女の口から出た言葉は突っぱねるには魅力的過ぎた。

 

 言いあぐねて、少し考える。

 美味い話には大抵裏があるものだ。仕事柄、そういったものには鼻が利く。特に和葉がなんのメリットもなしに「協力」などと言う人間じゃないことくらいは承知していた。


「……で、協力したとして、見返りはなんだ。わざわざ言いに来たんだからタダってわけじゃないんだろ」


 考えても仕方がないと、雪那は素直に聞くことにした。

 グラスを置いて、組んでいた足も正す。酩酊しかけている頭が少し鬱陶しかったが、判断力は衰えていなかった。


 向き直る和葉。

 背筋を伸ばして、一呼吸置いてから言った。


「明楽くんを取り戻したら、交際を正式に認めて下さい」


 は、と間の抜けた声が出る。

 予想より斜め上と言うか、構えたハードルの下をくぐられたような感覚。彼女のことは一通り調べていたのだが、こんな欲の無い女だったか、とくらくらする頭を押さた。

 

 思案して、まぁこの程度ならと判断する。

 今はとりあえず飲み込んでおいてもいいだろう。全くもって気に食わないが、今はそれ以外に好転しそうな手段がないのだ。


「……認めるだけでいいんだな」


 改めて確認する。

 和葉は至って真面目な面持ちで答えた。


「はい。私のことが気に入らないのは分かってます。けど、明楽くんとの将来のことを考えれば、お義姉様とは仲良くしていたいんです」

「もっと、こう……金とか、明楽を自分の家に住まわせるとか結婚とかさ。二度と明楽と近づくな、とか言われるかと思ってたんだけどな」

「そう言っても良かったんですけど」


 ちらり、と部屋を見回す。

 写真立てには楽しそうに笑う明楽の写真がいくつもあった。


「……まぁ、明楽くんが悲しむようなことは避けたいですから」

「はっ、どの口がそんなこと。言っちゃ悪いが、私にとってはお前も明楽を攫った奴も同じなんだよ」

「外泊の件ですか?あれは―――」

「うるさい、黙れ」


 和葉をじろりと睨む。

 本当なら同じ部屋にいるだけでも吐き気がするくらい、和葉が嫌いなのである。それでも話を聞いたのは形振り構っていられないからで、目的がはっきりした以上、彼女の下らない話は聞きたくなかった。


「あいつはまだガキで、ついこの間まで動物以下の暮らしをさせられてたんだぞ。私が引き取って保護者である以上、私がアイツを管理する。次私の知らないところで勝手な真似してみろ……二度とアイツには近づかせないからな」

「……」


 明らかな敵意の籠った言葉だった。

 テーブル一つ隔ててはいるが、下手に答えようものなら飛び掛かってきそうな雰囲気すらある。


(溺愛どころじゃありませんね……家族愛ってだけなら良いですけれど)


 彼女の言葉に僅かな違和感を覚えるものの、まだ「弟思いの姉」ではあるような気はする。

 彼の生い立ちを考えればこそ、彼女がここまで過敏になるのも仕方ないのかもしれない。過保護過ぎではないかとは以前から思っていたが、ここまでとは。


「肝に銘じておきます。が―――」


 喧嘩しに来たわけではないが、言われっぱなしは癪なのだ。

 多少反りが合わなくても、きっと協力は得られるだろう。約束を反故にするタイプでもないだろうし、少しくらい言い返しても問題はないはずだ。


「私は明楽くんの恋人です。無理矢理ではなく、彼も望んでその関係になったんです。過保護にするだけが彼のためではありませんよ」


 お義姉様、と付け加える。

 嫌味が過ぎたかと思ったが、少しばかり口が滑ってしまった。それだけ自分も苛立っているのかも、と少し反省。


 年下の少女からの反撃に、雪那の眉がぴくりと跳ねる。

 手に持ったグラスに亀裂が走る。反射的に投げつけようと振りかぶって―――


「―――そうか。あぁ、分かったよ」


 間際に、理性が打ち勝った。

 ゆっくりと腕を下ろして、グラスを置く。お気に入りのロックグラスだったが、これはもう使えそうになかった。


「私も肝に銘じておくよ。アイツが自立できるように、私もいろいろと考えないとな」


 はは、と笑う。

 差し当たっては、馬鹿な女に騙されないよう教えてやらなければ。


「まぁいい。協力してやるよ。弟を助けるまでは、仲良くしてやる」

「はい、ありがとうございます」


 和葉が笑う。

 絵画にすれば映えるだろう笑顔は、初めて見るのであればコロッと騙されてしまいそうになる。明楽もその例外ではなかったのだと思うと、余計に苛立ちが増してきた。


「それでは、詳しいことは明日改めて。お義姉様」

「あぁ、待ってるよ」


 クソ女、と心の中で呟いて、雪那は中指を立ててやった。











 この家にはいくつかのルールがあった。


 予め教えられていたわけではなく、文字通り体に教え込まれる形で知った。

 その上ルールは日によって変わるものもあれば、追加されていくこともある。破れば当然のように罰が与えられ、その度に増えていく傷を見て彼女は嗤うのだった。


「昔、犬を飼っていたのよ」


 広いリビングのソファに座って、菖蒲は楽しそうに語り出した。

 今日は暖かい日だった。窓は開けられないため、常に空調は整えられているものの、窓から差し込む陽光がのせいか暖かく感じる。

 

「ゴールデンレトリバーでね。最初は小さかったけど、すぐに私よりも大きくなったの。可愛くて、暖かくて……本当に大好きだったわ」


 幼少期の中の、数少ない楽しかった思い出だ。

 世話は進んでやった―――というよりは、自分でやらざるを得なかった。母がまだまともだった頃は共に世話をしたことがあったが、ほんの僅かな期間である。

 だからか、彼女はほとんどの時間を犬と過ごしてきた。心を許せる唯一の存在で、人間なんかよりもよほど信頼できる。今でも犬好きなのはそのためだ。


「とてもやんちゃで、イタズラ好きで困ったわ。だから分かるのよ、ペットには躾が必要なんだって」


 唾液で濡れた足先を引いて、そのまま這い蹲る少年の頬に擦り付ける。

 彼が文句の一つもなく受け入れるのは、それがルールだからだ。今は絶賛「お仕置き」中で、菖蒲曰く躾の一環なのだと言う。それに逆らえばどんな目に遭うかは、この一週間で散々学んできた。


「ふふ、素敵な恰好ね」


 菖蒲は満足そうに嗤った。

 手に持つリードは少年の首にかかったチョーカーに繋がっている。ペット用ではなく、彼のために作った特注品だ。同じように頭に付けられた犬耳カチューシャも同様である。流石に変態過ぎたか、と頭を過ったが、今さらそんな羞恥心も必要ないと用意したものだった。


 ぐい、とリードを引く。

 苦しそうに少年が呻いた。自然な反応でも、菖蒲は許せなかった。


「こーら、ダメでしょう?ワンちゃんが喋っちゃ」

「すみませ……っ、ぁ」

「ほらまた」


 咄嗟に零れた言葉に、明楽は首を振った。

 喋るつもりは本当になかった。二日前から「今からワンちゃんになろうか」と言われて以来、喋ることは禁止されていたのだ。許されたのは「わん」か「くーん」だけで、食事も座り方も、トイレすら犬のように行わなければならなかった。


 流石に初めは恥ずかしすぎて、抵抗したこともある。

 結果、犬の真似をしていたほうが遥かにマシだ、と思い知るハメになった。


「今日は軽いお仕置きだけで済ませてあげようと思ったのに。馬鹿なワンちゃんね」


 明楽は涙を浮かべて、必死に足にすり寄った。

 体を言いようのない恐怖が蝕んでいく。つい数日前に行われた「お仕置き」が、頭の中をフラッシュバックする。ただひたすらに嫌だ、と心の中で叫んだ。


「ほら、大人しくして……ッ、と」

「う、ぁあっ」


 菖蒲は嗤ったまま、明楽の頭を蹴り飛ばした。

 彼女にとってはごく自然な行為だ。頭を撫でるのも、蹴り飛ばすのも同じことである。どちらも変わらない愛情表現で、痛みが伴うか否かは問題ではなかった。


「こういうのはね、言葉じゃダメなのよ。体罰は良くないって言うけれど、私は反対。言って分からないなら、体で教えてあげなきゃ。それも愛でしょう?」


 ソファから立ち上がる。

 ゆっくりと少年の頭を踏みしめる。徐々に体重をかけていくと、足の裏に生々しい感触が広がっていった。

 横を向いた少年のこめかみから頬、聞こえない程度の悲鳴を上げる唇まで、丁寧に踏みつけてやる。苦しいのか悔しいのか、それとも怖いのか。流れる涙を見て、菖蒲は嬉しそうに自分の体を抱き締めた。


「ふふ、ふふふっ……可愛い私の明楽さん。あぁ、今は私のワンちゃんだったわね。ちゃぁんと躾て、いい子にしてあげるから」


 テーブルに放り出されていたポーチを手に取る。

 中から小さなピルケースと、小型の注射器を取り出した。それぞれ両手に持って、見せびらかすように小さく振った。


 明楽に視線を向ける。

 足の下で震えている子犬。毎日のように躾をして、今では従順になった最愛の人。

 昼も夜もなく可愛がってあげているせいか、彼の体には生傷が絶えない。それにすら興奮してしまうのだから、困った性癖だと自分でも思っていた。


「さて明楽さん、今日はどっちがいいかしら。お薬飲んで痛い方がいい?それとも、お注射しておかしくなるまで気持ちいいほうがいい?好きなほう選んでいいわよ」


 明楽の震えが一層強くなる。

 どちらも使ったことはあるが、効果は文字通り彼の体に刻み込まれている。

 毒性はなく、依存性はタバコ程でもない。菖蒲が時間をかけて調合したオリジナルの「お薬」だ。


「……ぁ、いやです。それは、それだけはもう……っ!」


 明楽の脳裏に記憶が蘇る。

 自分が自分でなくなるような、あの感覚。

 神経が剥き出しになって、火花が散るのだ。衣擦れさえ痛いくらいに。

 最後は何も考えられなくなってしまう、あの天国のような地獄はもう嫌だった。


「はい、時間切れ。今日は可愛がってあげたいし、こっちにしましょうか」


 注射針からカバーを外す。

 シリンジを指先で弾いて、空気を抜いた。


「さ、消毒しましょうね。あきらさん」


 逃げたくても体が動かない。

 嗤って腕を取る菖蒲に、明楽は泣きながら頷くしかなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る