1章 / 明楽V / 菖蒲IV

 母が家を出てから、父は輪をかけて私を避けるようになった。


 仕事ばかりで家庭を顧みなかった父。

 月に数回顔を合わせる程度で、話した事はもっと少ない。それは母も同じだったようで、物心つく頃には知らない男達が家に泊まることも多かった。


 当時の私は、明らかな不貞に文句を言うつもりもなくて。

 どちらかと言えば、母に対しては哀れみのような感情を持っていた。夫に相手にもされず、寂しさを他の男で埋める日々。娘よりも男に逃げた母は、子供ながらに可哀そうな人だと思った。


 父も父で、愚かな人だ。

 どんな仕事かは知らないが、きっとマトモではないのだろう。身なりこそ高そうなスーツや靴で身を固めてはいるものの、周りを固める人間はロクなもんじゃない。中学校に上がる頃には、彼らがどういう人種なのか理解していた。


 そんな壊れた家庭の、決定的な崩壊。

 私が中学二年生のときだ。


 その日は母は旅行に出かけていた。

 一人でのんびりと過ごしていたとき、家に一人の男が訪ねてきた。


 これもよくあることだ。

 母は手当たり次第に男を誘うのだ。ダブルブッキングなんか日常茶飯事で、勝手に家を入ってくる男もたくさんいた。


 その日訪れたのは、幾分か年の若い男だった。私からすればずっと年上だけれど、普段家で寛いでいる男と比べれば顔だって悪くなかった。お兄さん、という感じの人は、初めてだったから。


 だからか、いつもなら誰に話しかけられても無視していたのだけれど、その時は不用心にも返事をしてしまった。


 自分で言うのもなんだけど、私は歳不相応に美しかった。高校生や大学生に間違えられる事も多かったし、スタイルだって抜きん出ていた。今思えばあの男の視線は私の目ではなく、首より下に向いていたような気もする。


 下卑た視線には慣れていた。

 教室で、街で、家で。

 それがどんな意味を持つかなんて、分かってなかっただけ。


 あの日、母のいない家で、私はどうしようもなく迂闊だったのだ。







 


「明楽さん」


 甘く、どこか妖艶さを孕んだ声。

 どろりと耳から入り込んでくるそれに、少年は小さく悲鳴を上げた。

 

「聞こえているかしら?」


 うん、と小さく頷く。

 目の前の女性が嬉しそうに嗤った。

 髪の長い、綺麗な女性だった。切れ長の目はどこか冷たい印象を受けるが、紅潮したその表情には既視感を覚えた。

 

―――ええと、誰だったっけ。


 どうしても思い出せない。

 霞がかった頭の中で、誰かが嗤っている。思い出そうとすればするほど、ずきりと頭に痛みが走った。

 

「……ふふ、いい子ね」


 少年の髪を撫でた。

 目を瞑って受け入れる。懐かしい気持ちが胸を満たすが、どうして懐かしく思うのかが全く思い出せない。

 

―――分からない。思い出せない、のに。


 その手がとても恐ろしかった。

 手つきは優しく、子供をあやすように動いていた。

 およそ恐ろしさを感じるものなど見当たらないのだが、何故か体は強張るばかりであった。


「……っ、はぁぁ」


 女性の息が荒くなっていく。

 熱を持った吐息が頬を撫でる。唇の端からは唾液が零れ、薄く開いたそこから真っ赤な舌が覗いていた。

 

 髪を撫でる手が滑っていく。

 耳を擽り、頬を伝って唇に触れる。指先で柔らかさを堪能して、細く汗ばんだ首筋を降った。


 少年は黙ったまま、身じろぎ一つしなかった。

 抵抗してはいけないのだと教えられていたからだ。抵抗すれば殴られるし、泣けば首を絞められる。少なくとも女性が満足するまでは、人形のように大人しくしていなければならないのだ。

 

―――どうしてそう思うのだろう。


 ずきりと頭が痛む。

 痣になった首が軋んだ。腹痛は酷くなる一方で、震える体はびっくりするくらい冷え切っている。吐き気を懸命に抑え込むが、霞んだ頭では何故こんなにも恐ろしいのか分からなかった。

 

「怖い?」


 女性は訊いた。

 少年は反射的に首を振った。イエスと言うのは事に、とてつもない恐怖感を覚えたのだ。とっくに感覚のない指で、必死に服の裾を掴んで耐える。厭らしく開いた口蓋が化け物のように見えた。


 その様子が、女性の琴線に触れた。

 嬉々として言葉を吐いていく。明らかな嫌悪感を隠そうとする少年が、可愛らしくて仕方がなかった。


「ふふ……思い出すのかしら。やっぱりトラウマはそう簡単に拭えないのね」

「……ぁ」


 初めて少年が小さく呻いた。

 カタカタとなる歯を食いし縛って、何かを言おうとする。女性はそれを遮った。

 

「あぁ、堪らないわ。きっと明楽さんのお母様も、こんな気分だったのでしょうね」


 くすくす、と笑う。

 月が雲に隠れて、部屋が暗闇に包まれた。少年の体がより一層強く震えだす。

 

 女性はゆっくりとシャツのボタンに手を掛けた。

 見せつけるように、一つ一つに時間を掛けた。堪え切れなかたようで、少年の瞳からぼろぼろと涙が溢れてくる。それでも頑なに隠そうとする姿は、女性にとっては火に油を注ぐようなものだった。

 

「ほら、逃げなくていいのかしら?」

「……」


 今度は何も答えなかった。

 女性は気分を害することもなく、少年に圧しかかっていく。ぽたりと頬に垂れた唾液が、一層の恐怖を煽った。

 

―――大丈夫。いつものことだから、我慢すればすぐに終わる。


 目を瞑って、ひたすらそう信じる他なかった。

 また、気を失うまで乱暴されるのだろう。我慢できずに途中で泣いてしまって、また酷く殴られるかもしれない。溺れる寸前までお風呂に頭を沈められたり、タバコを押し付けられるかも。それでも少年には、我慢するしかなかった。

 

「心配しなくても、私はお母様とは違うわ。同じようにキミを犯すし、殴ったりもするけれど……ふふ、私はちゃあんと、逃がしたりしないから」


 滑った舌が体中を這い回る。

 火傷しそうなくらい熱い手が、無遠慮に伸びてくる。

 少年は声を出さずに泣いて、菖蒲の唇を受け入れた。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

『あら、菖蒲ちゃんの方から連絡してるなんて珍しいわねぇ』


 間延びした声。

 子ども扱いされているようで、昔から好きになれなかった。

 

『それで、上手くいったのかしらぁ?』

「それなりに、ね」

『私の言った通りだった?』

「そうね。あの薬は少し強すぎるようだけれど、明楽さんは色々と思い出したんじゃないかしら」

『それは良かったわぁ』


 嘘吐け、とは言わなかった。

 この女の本心などあって無いようなものなのだ。怒ったところも泣いたところも見たことがない。人間らしい感情が欠落しているらしい。上辺は明るく振舞うが、喜怒哀楽を感じたことがないのだと言っていた。


 とは言え、昔からの知り合いである。

 利用価値はあるのだから、悪態をつく理由もなかった。


「ちゃんと、私を母親と重ねてたみたい。ぼんやりしているようだったから、念のためあと何回か試すけれど」

『あーんな可愛い子に、酷いことするわよねぇ』

「酷くなんかないわ。最初に傷付けたのは私じゃないもの」


 幼い頃に彼が母親から暴行を加えられていたと聞いたときから、それを利用できないかずっと考えていた。


 執拗なまでに刷り込まれたトラウマは、一生消えることのない傷である。カウンセリングや通院で緩和されたとはいえ、無くなったわけではないのだ。


「ま、貴女の助言には感謝するわ。お陰で先へ進めたのだし」


 完全ではないにしろ、彼の体は過去の日々を覚えていたようだ。


 薬と情報で大分散財してしまったが、期待以上の成果をもたらしてくれた。

 あと何度か自分と母親を重ねさせることができれば完璧だ。愛でようが傷付けようが逃げ出すことのない、可愛い少年を手にすることができるのだから。


『あんまりやり過ぎちゃだめよぉ?』

「分かってるわよ……私は平気」

『ならいいけどぉ。菖蒲ちゃんもあんまり引き摺ってちゃ―――』

「切るわ。じゃあね」


 何か言われる前に、早々に終話ボタンを押す。

 あの女はいつも一言余計なのだ。せっかくの良い気分が台無しである。


「言われなくても、分かってるわよ」


 苦々しい顔で吐き捨てる。

 思い出したくもない過去を持っているのは、何も明楽だけではないのだ。

 

「……はぁ。最悪、ね」


 ベッドで眠る明楽を横目に、菖蒲は夜空を見上げた。

 黒く分厚かった雲は消え、空は白み始めていた。


「私は失敗しないわ。私は……」


 愚かな母のように。あの男のように、明楽の母親のように。

 失敗してはなるものかと、菖蒲は自分に言い聞かせた。口には出さなくても、どす黒い不安が胸の内で渦巻いているのだ。


 太陽が昇り始めてようやく、菖蒲はベッドに身を沈めた。


 愛しい少年を抱き絞めた。

 そうでもしなければ、眠ることなど出来そうになかった。



 

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