1章 / 明楽V / 菖蒲IV
母が家を出てから、父は輪をかけて私を避けるようになった。
仕事ばかりで家庭を顧みなかった父。
月に数回顔を合わせる程度で、話した事はもっと少ない。それは母も同じだったようで、物心つく頃には知らない男達が家に泊まることも多かった。
当時の私は、明らかな不貞に文句を言うつもりもなくて。
どちらかと言えば、母に対しては哀れみのような感情を持っていた。夫に相手にもされず、寂しさを他の男で埋める日々。娘よりも男に逃げた母は、子供ながらに可哀そうな人だと思った。
父も父で、愚かな人だ。
どんな仕事かは知らないが、きっとマトモではないのだろう。身なりこそ高そうなスーツや靴で身を固めてはいるものの、周りを固める人間はロクなもんじゃない。中学校に上がる頃には、彼らがどういう人種なのか理解していた。
そんな壊れた家庭の、決定的な崩壊。
私が中学二年生のときだ。
その日は母は旅行に出かけていた。
一人でのんびりと過ごしていたとき、家に一人の男が訪ねてきた。
これもよくあることだ。
母は手当たり次第に男を誘うのだ。ダブルブッキングなんか日常茶飯事で、勝手に家を入ってくる男もたくさんいた。
その日訪れたのは、幾分か年の若い男だった。私からすればずっと年上だけれど、普段家で寛いでいる男と比べれば顔だって悪くなかった。お兄さん、という感じの人は、初めてだったから。
だからか、いつもなら誰に話しかけられても無視していたのだけれど、その時は不用心にも返事をしてしまった。
自分で言うのもなんだけど、私は歳不相応に美しかった。高校生や大学生に間違えられる事も多かったし、スタイルだって抜きん出ていた。今思えばあの男の視線は私の目ではなく、首より下に向いていたような気もする。
下卑た視線には慣れていた。
教室で、街で、家で。
それがどんな意味を持つかなんて、分かってなかっただけ。
あの日、母のいない家で、私はどうしようもなく迂闊だったのだ。
◇
「明楽さん」
甘く、どこか妖艶さを孕んだ声。
どろりと耳から入り込んでくるそれに、少年は小さく悲鳴を上げた。
「聞こえているかしら?」
うん、と小さく頷く。
目の前の女性が嬉しそうに嗤った。
髪の長い、綺麗な女性だった。切れ長の目はどこか冷たい印象を受けるが、紅潮したその表情には既視感を覚えた。
―――ええと、誰だったっけ。
どうしても思い出せない。
霞がかった頭の中で、誰かが嗤っている。思い出そうとすればするほど、ずきりと頭に痛みが走った。
「……ふふ、いい子ね」
少年の髪を撫でた。
目を瞑って受け入れる。懐かしい気持ちが胸を満たすが、どうして懐かしく思うのかが全く思い出せない。
―――分からない。思い出せない、のに。
その手がとても恐ろしかった。
手つきは優しく、子供をあやすように動いていた。
およそ恐ろしさを感じるものなど見当たらないのだが、何故か体は強張るばかりであった。
「……っ、はぁぁ」
女性の息が荒くなっていく。
熱を持った吐息が頬を撫でる。唇の端からは唾液が零れ、薄く開いたそこから真っ赤な舌が覗いていた。
髪を撫でる手が滑っていく。
耳を擽り、頬を伝って唇に触れる。指先で柔らかさを堪能して、細く汗ばんだ首筋を降った。
少年は黙ったまま、身じろぎ一つしなかった。
抵抗してはいけないのだと教えられていたからだ。抵抗すれば殴られるし、泣けば首を絞められる。少なくとも女性が満足するまでは、人形のように大人しくしていなければならないのだ。
―――どうしてそう思うのだろう。
ずきりと頭が痛む。
痣になった首が軋んだ。腹痛は酷くなる一方で、震える体はびっくりするくらい冷え切っている。吐き気を懸命に抑え込むが、霞んだ頭では何故こんなにも恐ろしいのか分からなかった。
「怖い?」
女性は訊いた。
少年は反射的に首を振った。イエスと言うのは事に、とてつもない恐怖感を覚えたのだ。とっくに感覚のない指で、必死に服の裾を掴んで耐える。厭らしく開いた口蓋が化け物のように見えた。
その様子が、女性の琴線に触れた。
嬉々として言葉を吐いていく。明らかな嫌悪感を隠そうとする少年が、可愛らしくて仕方がなかった。
「ふふ……思い出すのかしら。やっぱりトラウマはそう簡単に拭えないのね」
「……ぁ」
初めて少年が小さく呻いた。
カタカタとなる歯を食いし縛って、何かを言おうとする。女性はそれを遮った。
「あぁ、堪らないわ。きっと明楽さんのお母様も、こんな気分だったのでしょうね」
くすくす、と笑う。
月が雲に隠れて、部屋が暗闇に包まれた。少年の体がより一層強く震えだす。
女性はゆっくりとシャツのボタンに手を掛けた。
見せつけるように、一つ一つに時間を掛けた。堪え切れなかたようで、少年の瞳からぼろぼろと涙が溢れてくる。それでも頑なに隠そうとする姿は、女性にとっては火に油を注ぐようなものだった。
「ほら、逃げなくていいのかしら?」
「……」
今度は何も答えなかった。
女性は気分を害することもなく、少年に圧しかかっていく。ぽたりと頬に垂れた唾液が、一層の恐怖を煽った。
―――大丈夫。いつものことだから、我慢すればすぐに終わる。
目を瞑って、ひたすらそう信じる他なかった。
また、気を失うまで乱暴されるのだろう。我慢できずに途中で泣いてしまって、また酷く殴られるかもしれない。溺れる寸前までお風呂に頭を沈められたり、タバコを押し付けられるかも。それでも少年には、我慢するしかなかった。
「心配しなくても、私はお母様とは違うわ。同じようにキミを犯すし、殴ったりもするけれど……ふふ、私はちゃあんと、逃がしたりしないから」
滑った舌が体中を這い回る。
火傷しそうなくらい熱い手が、無遠慮に伸びてくる。
少年は声を出さずに泣いて、菖蒲の唇を受け入れた。
◇
『あら、菖蒲ちゃんの方から連絡してるなんて珍しいわねぇ』
間延びした声。
子ども扱いされているようで、昔から好きになれなかった。
『それで、上手くいったのかしらぁ?』
「それなりに、ね」
『私の言った通りだった?』
「そうね。あの薬は少し強すぎるようだけれど、明楽さんは色々と思い出したんじゃないかしら」
『それは良かったわぁ』
嘘吐け、とは言わなかった。
この女の本心などあって無いようなものなのだ。怒ったところも泣いたところも見たことがない。人間らしい感情が欠落しているらしい。上辺は明るく振舞うが、喜怒哀楽を感じたことがないのだと言っていた。
とは言え、昔からの知り合いである。
利用価値はあるのだから、悪態をつく理由もなかった。
「ちゃんと、私を母親と重ねてたみたい。ぼんやりしているようだったから、念のためあと何回か試すけれど」
『あーんな可愛い子に、酷いことするわよねぇ』
「酷くなんかないわ。最初に傷付けたのは私じゃないもの」
幼い頃に彼が母親から暴行を加えられていたと聞いたときから、それを利用できないかずっと考えていた。
執拗なまでに刷り込まれたトラウマは、一生消えることのない傷である。カウンセリングや通院で緩和されたとはいえ、無くなったわけではないのだ。
「ま、貴女の助言には感謝するわ。お陰で先へ進めたのだし」
完全ではないにしろ、彼の体は過去の日々を覚えていたようだ。
薬と情報で大分散財してしまったが、期待以上の成果をもたらしてくれた。
あと何度か自分と母親を重ねさせることができれば完璧だ。愛でようが傷付けようが逃げ出すことのない、可愛い少年を手にすることができるのだから。
『あんまりやり過ぎちゃだめよぉ?』
「分かってるわよ……私は平気」
『ならいいけどぉ。菖蒲ちゃんもあんまり引き摺ってちゃ―――』
「切るわ。じゃあね」
何か言われる前に、早々に終話ボタンを押す。
あの女はいつも一言余計なのだ。せっかくの良い気分が台無しである。
「言われなくても、分かってるわよ」
苦々しい顔で吐き捨てる。
思い出したくもない過去を持っているのは、何も明楽だけではないのだ。
「……はぁ。最悪、ね」
ベッドで眠る明楽を横目に、菖蒲は夜空を見上げた。
黒く分厚かった雲は消え、空は白み始めていた。
「私は失敗しないわ。私は……」
愚かな母のように。あの男のように、明楽の母親のように。
失敗してはなるものかと、菖蒲は自分に言い聞かせた。口には出さなくても、どす黒い不安が胸の内で渦巻いているのだ。
太陽が昇り始めてようやく、菖蒲はベッドに身を沈めた。
愛しい少年を抱き絞めた。
そうでもしなければ、眠ることなど出来そうになかった。
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