菖蒲Ⅲ
「ご苦労様。もういいわ」
私がそう言うと、使用人たちは無言で頭を下げて出て行った。
実家から離れた今でも私の命令には忠実な、便利な使用人たちだ。言えば何でもしてくれるし、こんな法に触れるようなことだって厭わない。まぁ、人の事は言えないが。
何時間も車で移動して、やっと目的地へ辿り着いた。
足がつかないよう何度も乗り換えなければならないのは面倒だったが、その甲斐はあったというものだ。ようやく私と彼の、新天地での生活が始まるのだから。
用意した部屋はそれなりに豪華だった。
リビングは三十畳程と広く、寝室はその半分くらいの広さがある。あっちは色々玩具やらなんやらでスペースは取られてしまってはいるが、その分リビングは簡素にした。大きなテレビとソファはお気に入りのメーカーのものだし、窓から海が一望できるのは最高の一言だ。
「さて、と」
ともあれ、荷解きは明日でいい。
明日から学校へ行く必要もなくなる。金の心配だってない。心ゆくまでここで幸せに暮らせばいいのだ。
私は緩む頬を抑えずに、彼の待つ寝室へと向かった。
◇
今夜は満月だった。
電気をつけなくても部屋は明るく、銀色の光が横たわる少年を照らしている。
まるで絵画のようなその光景に、菖蒲は一瞬見惚れてしまった。
ゆっくりとドアを閉め、ベッドのそばへ。
少年は反応するように身を起こした。まだ薬が残っているのか、酷く怠そうにしていた。それでも必死になって何か言いたそうにしている様は、健気な子犬みたいだ。
「あきらさん」
はい、と小さく返事をする。
眠らされて拉致されてるのに、律儀な少年だと思う。後ろ手で縛られようが文句の一つも言わない。それとも単にまだ頭が働いてないのかもしれないが、どちらにせよ呑気なことだ。
「何故ここにいるのか、わかるかしら」
「……いえ」
「でしょうね」
菖蒲はベッドに腰掛けた。
明楽はほんの少しだけ身を離した。普段とは違う雰囲気を察したのだ。
「明楽さんには、これからはここで暮らして貰います」
「……すみません。出来ません」
「お願いしてる訳じゃないのよ。これは決定してるコトだし、拒否権なんてないの」
「どうして、ですか」
「どうして?……そうね、どうしてかしら」
理由は色々ある。
口元を歪めて、少年の方を見た。
俯き気味で今にも泣き出しそうである。きっと自分のことが怖くて仕方ないのだろう。
それはそうか、と内心でくつくつと笑った。
信頼していた先輩にいきなり攫われたのだ。それでも何も感じないと言うなら、それは人としてどうかしてる。
だからどうした、とは思うが。
構わず、菖蒲は用意していた言葉を口にした。
「強いて言うなら、貴方を助けてあげるため、って言うが一番かしら」
「……?」
案の定、きょとんとした表情を見せた。
それがまた可笑しくてたまらない。くすくすと笑う自分を、彼は理解できないでいた。
「貴方は、本当にあの子が好きなの?」
「和葉さんのことですか?もちろんです。じゃなきゃ、付き合ったりなんか……」
「それ。本当に好きなのかしら」
明楽が眉を顰めた。
ムッとしたのかもしれない。彼にしては珍しく感情が表に出ているようだ。
「ほとんど話した事もなくて、もともと彼女の事が好きってわけでもない。なのに、告白されたから好きになった?貴方にしては、おかしな話ね」
「それはっ……確かに、話した事はあんまりなかったですけど」
「悪いけど、明楽さんの事は調べさせてもらったの。随分ハードな生活を送ってたのね」
苦しそうに歪む表情に、菖蒲は口元を歪めた。
彼にとって隠し通したい過去なのは明白だった。が、そんなトラウマ級の傷口を今から抉らなくてはならない。それもまた、菖蒲からしてみれば愛情表現の一つではあった。
「両親の離婚。母親に引き取られて、性的虐待を受けてたそうね?」
「……っ」
「ふふっ。貴方のそんな顔、久しぶりに見るわ」
恐怖や苦痛がぐちゃぐちゃに入り混じったような顔だ。
普段はニコニコしているか、困ったように笑うのが常である彼だが、やはりこの話はタブーらしい。そうでなくては、と菖蒲の気持ちが昂った。
「保護されるまで何年も嬲られて……あぁ、いいのよ。しっかり思い出してくれないと。母親にどんな風に犯されたの?まだ小さかった貴方をどうやって辱めたの?その内容だけは、調べても調べても分からなかったのよ」
「……ッ、ちが、ぼくは……!」
「違う?何が?犯されてないって?嘘よ。現に、貴女は女性と触れ合うのが怖いんでしょう?」
「……ひ、ぁ」
無遠慮に伸ばされた手が明楽の頬を撫でる。
触れた瞬間、少年は体を大きく跳ねさせた。目からは大粒の涙がぼろぼろと零れ始めて、ベッドが軋むくらいに体が恐怖で震えている。逃げようと足掻いてみても、縛られた上に鉛のように重い体ではどうしようもなかった。
「どれだけカウンセリングを重ねたって、心の刻み込まれた傷は消えなかったんでしょう?上辺だけは平静を装えても、こうして触れられたら……ふふ、懐かしい?」
「や、やだ……やめッ」
「やめない。やめるわけないじゃない」
怯えて丸まる姿は子供そのものだった。
歯がカチカチと鳴る。指先で肌を撫ぜる度、唇の隙間から声が漏れ出ている。時折うわ言のように「ごめんなさい」と謝るのは、母親にこうして触れられた時に言っていた口癖だろうか。
―――あぁ、たまらない。
これがこの少年の本質だ。
彼が普段見せる姿なんかクソ食らえだ。あんなのは取り繕っただけの仮面で、こうして泣いて怯える姿こそ本物の彼自身なのだ。
嬲られて舐られて、被虐のためだけにいるような可愛らしい少年。それでも逃げ出せなくて、どれだけ恐ろしくても従うしか術を知らない少年。
だから欲しかった。
彼ならきっと、自分の欲望を受け止めてくれるだろうから。
手を頬から首筋へ滑らせた。
上着はすでに没収済だ。ワイシャツのボタンを一つ一つゆっくり外していくと、薄明かりの中でも分かる程の真っ白な肌が露出した。じんわりと汗ばんだ肌が薄く月明かりに反射していて、痛いくらいに心臓が跳ねていくのが分かった。
今すぐ飛びついて、満足するまで嬲ってあげたい。
でも、我慢だ。今はまだ、その時じゃない。
狂ったように怯えた彼に向って、菖蒲は囁きかけた。
「こんなに女が怖いのに、話した事もなかったあの子の事が好き?」
「……はぁっ、はぁッ」
「嘘吐き。告白されて、断るのが怖かっただけのくせに。人を拒絶したら、今度は貴方が拒絶されてしまうものね?」
違う、と言いたいのか、明楽は首を何度も振った。
過呼吸気味の荒い息が部屋に響いた。
「昨日だって、あの子の家に泊まったんでしょう?どうだった?心の底から望んで、あの子と結ばれたのかしら」
「……ッ!」
くすくす、と笑う。
バカにしている訳ではなかった。考えていることが手に取るように分かるのが面白かった。
「そんなハズないわよね。きっと寸前で泣き出して、それでも震えながら我慢してたんじゃない?今みたいに」
ワイシャツの襟に手を掛けて、力づくで一気に開く。
ボタンが飛び、床に飛び散った音がした。合わせて、少年の悲鳴に近い声。それに興奮してしまうあたり、自分も相当狂ってるなと笑えてしまう。
明楽が逃げようと身を捩る前に、菖蒲は彼の髪を鷲掴みにした。
ぶちぶちと僅かに髪が千切れる感触が心地良い。我慢する必要が無くなったためか、歯止めが利かなくなっていた。
「ねえ」
顔を近づけて、言う。
嗚咽を漏らす明楽が目を逸らす。許すはずもなく、掴んだ手を引いて顔を向けさせた。
「告白してたのが私でも、貴方はイエスと言ったわよね」
「……」
「ううん、違うわね。あの子でも私でも、見ず知らずの子でも。断るなんて出来ないのよね。優しいんじゃなくて、人に嫌われるのが怖いから。またあの部屋で独りぼっちなのは嫌なんだもの。ホントは怖いくせに、だからあの子と付き合った」
「いやだ、もう……やめ―――」
「だから、私が助けてあげる」
歪に歪んだ口元から、真っ赤な口蓋が覗いた。
月明かりを背にした菖蒲の表情は見て取れなかった。が、爛々と光る眼が明楽を捕らえて離さない。逃げ出そうなんて気すら起きなかった。
「私なら信頼できるでしょう?一年間、二人で生徒会頑張ってきたじゃない。私が生徒会長になるときだって、必死になって手伝ってくれた。挨拶くらいしかしない同級生より、私の方がずっと貴方の事を理解してる」
「……そんなこと、っ」
「今日ウチに来たのだって何故?昨日あの子に襲われて、話しづらくなって。それでも寂しいから、一番信頼できる私に一緒にいて欲しかったんじゃなくて?」
明楽は何も言えなくなった。
確かに菖蒲は明楽にとって信頼できる先輩だった。
生徒会に入ったときも、彼女が一から教えてくれたのだ。聡明で優しく、周囲からの信頼も厚い彼女を尊敬していたし、今この状況だって、未だに嘘なんじゃないかと頭の片隅で思っていたりもする。「菖蒲がそんなことするはずがない」とどこかで信じ切れずにいた。
「僕は、ぼく、は……」
「私が貴方を受け入れてあげる。貴方の過去も蔑まないし、今の貴方も理解してあげられる。無理して他の女に笑いかけなくていいのよ。あの女の事なんて放っておけばいいの」
「そんなこと、だって……!」
「今はまだ分からなくても、少しずつ理解できるようになるわ。だからここに連れてきたんだもの」
髪を離す。
ベッドに身を沈めたまま、明楽は菖蒲を見上げていた。
言っている事のほとんどは理解できなかった。どこか現実味がなくて、酷く傷付けられただけ。信じたくない自分が抗ってはみたものの、心は折れる寸前だった。
「貴方が理解できるまで、ゆっくり教えてあげる。心と体に教えてあげる。貴方を受け入れられるのは私だけだってこと。本当は貴方も、私を求めてるってこと」
「……」
「わかった?」
明楽は黙ったまま唇を噛んだ。
なんて答えればいいかも分からないのだ。信頼していた彼女の凶行が、思考力を奪っていた。もしかしたら冗談かも、と思ってみても、縛られた手首の痛みがそれを否定する。襲われかかっている状況も、彼を酷く混乱させた。
だから。
明楽は小さく首を振った。
考え直してほしいと思った。ここで暮らすなんてことは無理だし、和葉とも和解して欲しかった。
確かに菖蒲の言う事は間違ってなくて、菖蒲に甘えていた部分もある。何か困ったことがあれば彼女に頼ってしまうのは悪い癖だ。それでも彼女は色々と支えあってきた間柄で、なにより恩人でもあるのだ。だから和葉が嫌っていようが、菖蒲とは仲良くして欲しかった。和葉同様、菖蒲は彼にとって大切な人だったから。
待ってください、と言おうとして、口を開こうとした。
開こうとして、頬に感じた熱がそれを邪魔した。
―――ばちん。
首に痛み。
目に火花が散ったような感覚だった。破裂したような音がして、後を追うように熱に似た痛みが頬を襲う。
叩かれた、と気付いた時には、菖蒲の腕が首へと伸びていた。
「ぐ、ぅあッ……!」
「もう、悪い子ね。直ぐに理解できるとは思ってなかったけれど」
菖蒲は嗤っていた。
両手で少年の首に手を添えて、ぎりぎりと引き絞る。
苦しさに足をバタつかせても、菖蒲は構う気配すらなかった。馬乗りで嬉々として抵抗を楽しんでいるようだった。
「言葉で分かるとは思ってないわ。だから、体で教えてあげるの。その方が、明楽さんも身に染みるでしょう?」
「……ッ!……ぁっ」
視界がぼやけていく。
どんどん暗くなっていって、菖蒲の言葉がかすれていった。
(……なん、で)
再び意識が薄れていく中で、今度は彼女の表情がしっかりと頭に焼き付いていた。
紅潮させて嗤う彼女が、昨夜の和葉と重なって見えた。
◇
手の平に感じる鼓動が気持ち良い。
呼吸をしようと必死になって脈動するが、私はそれを許さなかった。
見開いた目から零れる涙も。
逃れようと暴れる足も。
口端から流れる唾液も。
何もかもが愛おしかった。
馬鹿なほど可愛いと言うが、まさにその通りだ。
恋人と気まずくなったからって、こんなにも簡単に私の手中に収まるとは。この一年で気付き上げた信頼がようやく役に立ってくれたのだ。血反吐を吐く思いで手を出さずに耐え抜いた自分を褒めてやりたかった。
とまあ、そんな事はもうどうでも良かった。
これからは耐える必要がないし、つもりもない。
好きな時に抱き締めてキスしてもいい。押し倒して舐っても、一晩中可愛がってやっても。それこそ、長いこと頭の中で耽っていたことだっていいのだ。
彼が頼れるのは私だけ。
ここにいる限り、私の言うことを聞くしかない。どれだけ嫌でも、怖くても、私に従わなければ生きていけない。助けてあげるだのなんだの言ったところで、結局は単なる建前でしかなかった。
数か月で諦めるはず。
半年もすれば、従順になるだろう。
一年で虜になって、後は一生私のモノになる。どんなことでも受け入れる、私の最愛の少年に。
「ふふ、ふはっ、ははは」
笑い声が自然と溢れてしまう。
虚ろな目で見上げる彼の意識はほとんど無いだろう。信じられない、と言った顔だ。そりゃそうだ、今までの私なんて作りモノなのだから。貴方を手に入れるためだけの、ね。
正直言って、信頼はもう必要ない。
予定は狂ってしまったが、彼がここに来た以上、あってもなくてもどうでもいい。飴と鞭と薬でどうにでもなるし、後はペットを躾けるが如くである。
「―――あら」
私ははっとして、彼の首から手を離した。
跡が残るくらい力を込めてしまったようだ。げほげほと咳き込む彼に安心する。
やり過ぎには自重しなければならない。ゆっくりじっくり、飴を舐めるように可愛がってあげなければ。
「ごめんなさいね。でも、言う事聞いてくれないと。明楽さんも、まだ死にたくないでしょう?」
死にたいって言っても、殺してあげないけど。
一生私の傍で、一生私のモノとして生きてもらうのだ。
逸る気持ちを抑えながら、私はそのまま彼の隣に寝転んだ。
時間はたっぷりある。何年も、何十年も。初めの一日くらいは、一緒に寝るだけで満足しておこう。
涙を流す彼を抱き締めて、髪に顔を埋める。
甘ったるい匂いを堪能しながら、私はすぐに眠りについた。
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