1章 / 明楽Ⅳ


 雨はすっかり上がっていた。


 寝息をたてる明楽の邪魔にならないよう、ゆっくりと体を起こす。もうすぐ朝日が昇る時間だが、和葉の目は冴えていた。


 明楽との関係は、ようやく一歩前進した。


 体を重ねたことは百歩くらいの価値があると思うものの、少し強引過ぎたかもしれない。とは言え、明楽は女性との好意に対して酷いトラウマを抱えているのだ。こうでもしなければ一生機会はなかっただろうし、今は仕方なかったと納得するしかない。


(素晴らしい時間でした……)


 天にも昇る気分とはまさにこのことだ。

 初めては痛いと聞いていたが、思った程でもなかった。夢中でそれどころではなかったのだ。

 体を貫く彼も、犯され声なく喘ぐ彼も、全てが堪らなく至福だった。肉体的にも精神的にも非常に満足である。


 隣で眠る明楽の髪を撫でた。

 さらさらの猫っ毛は手触りが良い。指で丁寧に梳いてやると、泣き腫らした目が現れた。


 明楽は最初から最後まで泣いていた。

 どう思っていたのかは分からないが、終始抵抗はしなかった。逃げようとする素振りもなく、ただされるがまま。時折自分を見る目に恐怖の色が宿っていたのをよく覚えていた。


(私は間違ってません。間違って、なんか)


 そう言い聞かせて、涙の跡をそっと撫でた。


 幼少期、明楽は実の母親から虐待を受けていたと聞いた。


 依存癖の強かった彼女は、離婚後も夫に似た明楽を手放そうとしなかった。

 離婚後は初めこそ上手くいきかけたが、精神的に不安定な母親との生活は簡単に破綻した。母親を支えようと健気に振る舞う彼に、彼女は元夫を重ねたのだ。


 ある日タガが外れてしまった彼女は、幼い明楽に手を出してしまった。


 明楽は何がなんだか分からず、ただ泣き喚いた。

 あれほど好きだった母親が、欲望にギラついた目で自分の体を嬲るのだ。恐ろしく、気持ち悪かった。抵抗すればうるさいと殴られたし、唇を噛み締めて黙ればぐちゃぐちゃに犯された。


 事が終われば、彼女は酷い自己嫌悪に襲われた。


 息子のことが嫌いなわけではないのだ。

 それでも元夫に似た彼への衝動は抑えられず、そのうち家に帰らない日々が続いた。週に一度か二度帰る程度になり、その度に彼を犯しては出て行く。そんな生活が何年も続いたのだった。


 初めてこれを聞いたとき、和葉は涙を流した。こんな酷い話はあってはならないと思った。

 同時に、そんな過去を持っていながら、明るく振る舞う彼の事がもっと好きになった。


 彼が人に優しくするのは、人から酷い扱いを受けたくないが為なのだろう。最も親しかった母親から虐待を受けたのだ。血の繋がらない他人など、なおさら信用できないはず。

 だから他人に優しくないと不安なのだ。傷付けられるのが怖いから。


「ぅ、んぅ……」


 小さく呻いて、寝返りをうつ。

 和葉に背を向けて、隠れるように丸まっていた。その姿に胸が締め付けられる。

 和葉は彼に身を寄せ、包み込むように抱き締めた。自分より小さな体は簡単に壊れてしまいそうである。


 日が昇るまでの間、和葉はずっと彼の頭を撫で続けた。











「おはようございます」

「……うん、おはよう」


 和葉の胸の中で目を覚ました明楽は、珍しく強引に身を離した。


 酷い顔をしていたのだろう。

 明楽は我に帰って、和葉に謝った。


「ごめん、その……」

「私が怖いですか?」


 うん、と明楽は答えた。


「正直言うと、ちょっとだけね」

「私は明楽くんのお母様とは違うんですよ」

「分かってる。分かってるんだけど……ごめん。僕自身、もう少しマシになったと思ってたんだけど、ダメだったみたい」


 はは、と力なく笑う。

 トラウマというのは簡単に消えることはないのだ。ならばいっそ上書きしてしまえば良いと踏んだのだが、和葉の思惑は外れてしまったようだ。


「私のこと、嫌いになりましたか」

「まさか、そんな事ないよ。ちょっと……いや、かなり強引だったけど」

「でも、こうでもしないと……」

「うん、そうだよね。ごめんね。変に気を遣わせちゃって」


 どこまで本音か分からないが、少なくとも彼が謝る必要はないのだ。

 和葉自身、責を問われるのは自分だと自覚している。彼のこの反応は想像してはいたが。


 和葉は真っ直ぐ彼を見据えた。

 離れた距離を詰める。ベッドが沈み込み、よろけた明楽が横たわった。


 見下ろす形になった。

 明楽が不安そうな目で見上げていた。


「酷いことしたのは分かってます。でも、これからも私は明楽くんとシます。何度でも」

「……」

「私が忘れさせてあげます。だから、私以外を見ないでください。先輩も友人も、お姉さんもお母様も。私だけがいれば良いんだと、忘れないでください」

「……うん。わかったよ」


 小さく頷いた。

 唇がごめんね、と動く。言葉にはならなかったが、和葉はその言葉の意味を理解した。


 昨晩と違って、今度は優しく唇を重ねる。

 明楽は目を瞑って受け入れた。


 その手だけは、必死にシーツを握り締めていた。













「あ、そうだ。先輩に謝らないと……」


 結局家には帰らず、そのまま学校へ行くことにした。

 普段より睡眠時間が少なかったためか、授業中はずっとぼんやりしてしまった。教師の話は何一つ覚えてないし、所々記憶が飛んでいたりする。和馬からは「気持ち良さそうに寝てたな、おい」とねちねち説教されたりもした。


 午後になっても変わらず、体調はあまり良くなかった。

 和葉も今日は家の用事があるらしく、帰りのホームルームが終わったと同時に帰宅してしまった。「なんで私がこんな……」と爪を噛んで恨めしそうにしてたのだから、あまり楽しい用事ではないらしい。一緒に帰れなくてすみません、と何度も謝っていた。


 彼女には申し訳ないが、明楽は少しほっとしていた。


 あまり楽しく話せる気分ではなかったのだ。

 体調不良もあるが、なにより彼女の顔をまともに見れないのだ。恐怖ではなく、きっと後ろめたさがあるのだろう。昨晩の事は自分が追い詰めた結果なのだと、心のどこかで後悔してばかりだった。


 まぁ、なんにせよ好都合だ。

 菖蒲に連絡できなかったことを謝罪して、今日は帰宅させてもらおう。

 

 明楽は重い体を引き摺って、生徒会室へと向かった。












「あ、せんぱーい」


 生徒会室は閑散としていた。

 ミーティングテーブルで資料を漁っている生徒が何人かいたが、あまり集中してはいないようだ。眠そうに欠伸をしては、スマートフォンを弄ったりしている。


 その生徒たちから離れたところで、小柄な女生徒が小さく手を振っていた。

 昨日面談した一年生だ。ピンク色のカーディガンには見覚えがあった。


「こんにちわっ」

「あ、うん。こんにちわ。えーっと……」

「橘 美弥ですよ、せんぱい」

「そうだったね。ごめん、名前覚えるの苦手で……」


 いいですよ、と美弥は無邪気に笑った。

 屈託のない笑顔だった。元気いっぱい、という言葉がしっくりくる印象で、顔立ちも良いためか悪い印象は見受けられない。人見知りの明楽でも、すぐに打ち解けられそうだ。


「生徒会にに入ったんだね」

「はい!さっき先生から聞かせられて、今日から入ってくれって」

「良かった。これからもよろしくね、橘さん」

「美弥でいいですよ、明楽せんぱい」


 思わずドキリとしてしまうくらいに可愛らしい。

 距離感もやけに近く、柑橘系の良い匂いが花を擽った。明楽は顔が熱くなるのを感じて、誤魔化すように会長席に視線を向けた。


 と、気付く。

 いつもならそこにいる人物がいなかった。

「あれ、今日は黒川先輩は……」

「あ、お休みらしいですよ。なんでも体調不良とかで」

「そうなの?」

「さっき他の先輩が言ってました。皆勤賞だったのにーって」

 

 確かに彼女が休むのは珍しかった。

 多少具合が悪くても、それをおくびにも出さないような性格なのだ。完璧、というのが彼女のモットーで、弱みは絶対に見せたがらない。そんな意地とも取れるような部分に明楽は憧れていたりもした。

 

「あとで連絡してみるよ。とりあえず今日は、僕も帰るつもりだったからさ」

「えー、帰っちゃうんですかー?じゃあ私も……」

「あー……まぁ、いいんじゃないかな。今日は結構暇そうだし」


 資料を読んでいた生徒がじろりと不貞腐れた目で二人を睨んでいた。

 が、文句を言う気配もなかった。言外に「いいんじゃないの」と視線で表現しているようで、つまらなさそうに資料に目を戻した。


「じゃ、一緒に帰りましょうよ」

「……ごめん、少し寄るところがあって」


 断りの言葉に、美弥は露骨に表情を曇らせた。

 心が痛むものの、昨日の今日で和葉を怒らせるような真似はしたくなかった。後輩の女の子と帰宅するなんて、今度は襲われるどころじゃ済まないだろう。


「また今度、ね」

「えー……もう、仕方ないなぁ」


 頬を膨らませて、美弥は鞄から紙片取り出した。

 小さく四つ折りにされた便箋には、可愛らしい文字でIDと電話番号が書いてあった。


「これ、私の連絡先ですから。同じ生徒会の仲間なんですから、これくらいなら別にいいですよね?」


 建前は完璧だった。

 断る理由もなかったため、明楽は大人しく紙片をポケットに入れた。連絡先の管理まではされてないのだ。これくらいなら許容範囲だろうし、どちらにせよ生徒会メンバーの連絡先は把握するのが決まりであった。


「それじゃあ、私はお先に失礼しますっ」


 ぴょん、と小さく飛んで、美弥は生徒会室を後にした。

 残された明楽に突き刺さる視線とともに、「そのうち刺されますよ」と辛辣な言葉が投げかけられる。


「……わかってるよ、もう」


 じゃあどうしろっていうのさ、と愚痴を零して、明楽も生徒会室から出て行った。













 しばらく図書室で時間を潰してから、明楽は帰路についた。


 あれから何度か菖蒲に連絡してみたものの、返信はなし。電話は直接留守電に転送され、メッセージは既読にすらならない。それほど体調が悪いのかと心配は尽きなかった。


(お見舞いに行ったほうがいいかなぁ)


 菖蒲の家には以前招待された事があった。

 実家は隣の県にあるらしく、彼女はマンションで一人暮らし。

 数フロアをぶち抜いた広さは圧巻で、インテリアにこだわった部屋はどこぞの有名人宅のような華やかさがある。和葉の部屋とは違った緊張感があった。


 彼女のマンションはここからそう遠くない。

 バスで数駅ほどだ。途中でスーパーに寄って、お粥でも作ってあげよう。不在だったとしても持ち帰れば良いだけの話である。


「いつもお世話になってるし、こう言う時くらいは良いよね」


 一人暮らしなのだから、何かあってからでは遅いのだし。

 言い訳じみた考えを頭の中で何度も繰り返して、明楽は進路を変えた。


 駅ではなく、大通り沿いにあるバス停へ向かった。。バス停は学生や主婦で混雑していた。数分待ってやってきたバスに乗り、人混みに揺られること十五分。目的地で降りた明楽は、うろ覚えの道をふらふらと歩いた。


 通りがけにあったスーパーに寄り、必要な食材と飲み物を買う。

 少し買いすぎてしまったかも知れないが、足りなくなるより余った方がいいだろう。パンパンに膨れ上がった袋を両手に持って、結局菖蒲のマンションは着いたのは午後六時を回った辺りであった。


 袋を置き、オートロック前のインターフォンを鳴らす。

 エントランスは場違いなくらいに豪華すぎて、居心地が悪かった。


 しばらくして、弱々しい声で返事があった。


『はい』

「あ、先輩。僕です、柊木です」

『あら、明楽さん?どうしたの?』


 明楽はカメラに向かって袋を掲げて見せた。お見舞いです、というのは気恥ずかしかった。元はすっぽかした謝罪が目的だったのだし、体調の悪い彼女の前ではしゃぐ気にはなれない。


『今開けるわ』

「はい、ありがとうございます」


 オートロックが解除され、大きな曇りガラスのドアが開く。

 エレベーターを使って最上階へ向かった。最上階フロアにはドアが一つしかなく、全て菖蒲の住む部屋となっている。見晴らしも良いこの部屋に来るのは二度目だが、初めての時のように妙な緊張感で体が強張っていた。


 もう一度インターフォンを押す。

 今度は間髪入れず、すぐにドアが開いた。


「いらっしゃい。急に来たからびっくりしたわ」


 思ったより元気そうだ。

 顔色も悪くないし、咳などしている様子もない。普段と変わらない彼女がそこにいた。


「連絡つかないから心配しましたよ、もう」

「明楽さんに言われたくないのだけれど」


 う、と口籠ってしまう。

 いきなりちくりと嫌味を言われてしまった。原因は自分にあるのだから、文句は言えないが。


 とにかく、謝っておくべきだ。

 素直に頭を下げ、丁寧に謝罪した。


「昨日は本当にすみませんでした。どうしても連絡できなくて」

「いいのよ、全部分かってるから。私を誰だと思ってるの?」


 戯けるように胸を張ってみせた。

 プライベートの彼女は学校の時よりもくだけた印象がある。和葉同様、家では素の自分が出るのだろう。


「体調は良さそうですね」

「ええ、そうね」


 ふふ、と笑う。

 明楽はほっと胸を撫で下ろした。本当に酷い状態だったらどうしよう、と不安だったのだ。少なくともこうして笑ってられる状況で安心した。


 だから、気付かなかった。

 気が緩んだのかもしれない。明楽自身、体調があまり良くなかったのも原因の一つだ。


 菖蒲の目は欠片も笑ってはいなかったのだ。


「もともと、悪くないもの」

「え?」

「ズル休みなのよ。色々準備しなきゃいけなかったから」


 何のです、と訊こうとする前に、背後から首に手を回された。


 咄嗟の出来事に、明楽は対処できなかった。両手に持った袋を離す、なんて簡単なことさえ出来ず、口元を布で塞がれてしまう。

 鼻をつく異臭。頭を直接揺さぶられるかのような衝撃。膝が折れて、一気に重くなった瞼に耐えきれず、視界が暗闇に包まれた。


 朧げな意識の向こうで、誰かがくすくすと笑っていた。

 聞き覚えのある声で、何か言っている。


「心配しなくていいわ。目が覚めたら、ちゃぁんと教えてあげるから」


 聞こえてないかしら、と楽しそうな声。

 その言葉を皮切りに、意識が急激に薄れていく。


 

 糸の切れた操り人形の如く、明楽はそのまま地面に倒れ込んだ。




 

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