1章 / 和葉II / 明楽III

「わ、すご……」


 初めて訪れた恋人の家に、明楽はただただ目を丸くして驚いた。


 まるで異国の洋館だ。

 郊外からさらに離れた位置にあり、周囲は木々に囲まれていた。

 敷地は想像もつかないくらいくらい広大で、散歩道や庭園まである。離れにはひと際大きな塔のようなものが見えるし、雨の音に紛れて川のせせらぎも聞こえる。おまけにそこら中に守衛がいたりなど、映画の中でしか見たことのない光景は現実味がなかった。


「何て言えばいいか……その、大きいね」

「母の趣味なんです。向こうには滝だってありますし、馬術のコースとか、弓道場とか……色々作ったせいで、こんな場所に家を建てざるを得なかったんですけどね」

「それでもすごいよ。僕こんなの初めてみたもん」


 丸くなっていた目には次第にキラキラしたものが宿っていた。

 女の子のようだと言われるが、明楽も立派な男の子である。ホラーゲームに出てくるような薄闇の中の洋館は好奇心をくすぐるのだ。


「もっと案内してあげたいんですけど、雨も降ってきましたし。中に入りましょうか」

「あ、うん。そうだね」

「いつでも来てください。明日でも明後日でも、大歓迎ですから」


 和葉は明楽の手を取った。

 車から降りて、やたらと大きな正面玄関へ。重厚な木製の扉にライオンの顔を模したドアノッカー。好奇心を抑えられなくなり、明楽は扉へ手を伸ばす。

 が、手が触れる前に扉が開いた。


「おかえりなさいませ」


 出迎えたのは長身の女性だった。

 黒いスーツに身を包み、薄く赤みがかった髪をアップにまとめている。


「明楽君、こちらは椎名 真琴さんです。小さい時から私のお世話をしてくれてる方です」

「はじめまして、明楽様。以後お見知り置きください」


 真琴は小さく頭を下げた。

 たれ目の奥にある瞳がじろりと彼を見据える。

 見透かすような視線だった。値踏みされていると言ってもいいかもしれない。気圧されながらも、なんとか挨拶をすることが出来た。

 

「よ、よろしくお願いします」

「お食事の支度はもうできておりますので」


 和葉と明楽の鞄を受け取り、奥の部屋へと促した。

 温和そうな印象とは違って、言い方は結構ぶっきらぼうである。サバサバしているだけかとも思ったが、どこか冷たい感じがした。


「……真琴さんはいつもこうですから」


 恐縮しきった明楽に、和葉が耳打ちする。


「あ、そうなんだ。……嫌われてたのかと思ったよ」

「そんな事ありませんよ。ただ不愛想で可愛げがないだけです」

「聞こえてますよ」


 和葉はくすくすと笑った。

 無邪気に振舞う彼女を見るのは初めてだ。普段は口調も相まって大人びて見えるが、今の彼女は歳相応のように感じる。なんだか本当の和葉を見ているようで嬉しくなった。


「ほら、いきましょう」


 明楽の手を取って食堂へ向かう。

 足取りは軽く、楽しそうに笑う和葉に引っ張られていく。


 握る彼女の手はやけに熱かった。










  

「……」


 窓を雨が強く叩く。

 時々遠くで閃光が走っていた。数秒遅れて轟く轟音の度に、菖蒲は何度目かわからない舌打ちする。


 部屋は真っ暗だった。

 ベッドに身を沈めたまま、スマートフォンの画面を眺める。

 映るのは時間だけで、着信通知もメッセージもない。何度見ても同じで、苛立ちはただただ募っていくばかりだ。


(電話するって、言ったのにね……)


 自分の知る限り、彼は約束を破るような人ではない。

 どうでもいいような口約束ですら守ろうとするのだ。バカみたいだと思うときもあったが、そんな彼の一面は嫌いではなかった。


 再び雷鳴。

 外は酷い嵐だ。

 もしかしたら雷の所為で電波が届かないだけかも。そう思って、すぐにバカな考えだと鼻で笑った。そんなわけないのだ。だって彼は、今恋人の家にいるのだから。


 桐生 和葉。


 かつては友人だったが、今は違う。

 成長するにつれて意識し出して、今では立派な敵だ。

 ついこの間までは「気に入らない」程度ではあったが、最近は顔も見たくないくらいである。見なければいい、なんて程度ではなく、「ぐちゃぐちゃに顔を潰せば見なくて済む」とか考えるレベルに。それ程あの女が嫌いだった。


 そんな女が、自分の想い人を付き合っているだなんて悪夢どころの話ではない。

 確かに趣味嗜好は似通っていたから、同じものを好きになるのは分かる。が、明楽だけはダメだ。

 

 菖蒲はベッドサイドのランプをつけて、放り出していたファイルを手に取った。

 中は数枚の資料と写真だった。報告書と題された内容は反吐がでるものばかりで、無駄に長くつらつらと書かれている。写真は遠くからズームで取られた明楽と和葉のもの。二人仲良く歩き、和葉の自宅に入る瞬間のそれは、見ているだけで吐き気を催してしまう。


 これが原因だ。

 彼が電話できない理由。要は自分より恋人を取ったということである。


 今頃部屋で何をしているのだろうか。

 食事して、この嵐のせいで家にも帰れず、泊まった部屋で一体何を?


 きっと彼の事だから、電話の件は覚えているだろう。

 もしかしたらこっそりメッセージを送ってくるかもしれないし、彼女が不在の間に電話してくるかも。


 まさか、と笑えてしまった。

 そんなことを許す和葉ではないのだ。仮にもしそうなったとしても、それはそれで嫉妬に気が狂いそうであった。他の女の家からなんて冗談にも程がある。

 

 そう思ってはいても、菖蒲は再びスマートフォンに目を向けてしまう。

 この数時間変わらず、連絡はなし。溜息をついて放り投げた。


 再三の雷鳴が届いた。

 嵐は一向に収まる気配はない。ニュースによれば、明日の朝まで続くのだそうだ。


 その嵐が、自分の心の中のように思えてならなかった。













 通された部屋はとてつもなく広く、外観とは違ったシンプルな部屋だった。


 おまけにとてもいい匂いがする。

 姉以外の女性の部屋は初めてで、心臓がばくばくと鳴りっぱなし。落ち着くなんてできそうになかった。


「ここで寝るとか、ないよね……」


 外は酷い嵐で、車を出すのも困難らしい。

 結局泊まる事になったのだが、嬉しい反面不安も大いにあったりする。姉へ泊る旨を伝えても既読にすらならないし、なにより菖蒲への連絡がまだなのだ。しようと思った矢先に充電が切れてしまったのだ。今は充電中だが、和葉のいる手前電話は出来そうになかった。


 ううん、と唸る。

 どうも落ち着かず、部屋をうろうろした。

 

 食事も終わり、入浴も済ませた。

 豪華な食事にはしゃいでしまったり、プールみたいに広い風呂ではこっそり泳いでみたりもした。改めて住む世界が違うと認識する。これが彼女にとっての当たり前で、自分には想像もできない生活だった。



―――こんこん。



 部屋がノックされた。

 反射的にはい、と答えた。ゆっくりとドアが開き、明楽は思わず目を逸らしてしまう。それくらい刺激的で、とてもじゃないがまともに見れる気がしなかったのだ。


「すみません、お待たせしました」


 部屋に漂っていた良い香りが倍になったように感じた。

 和葉が後ろ手でドアを閉める。かちゃりとした音は、明楽には聞こえなかった。


「どうしました?」

「や、えっと……」

「そんな所に立ってないで、こっちでお喋りしましょう」


 黒のベビードールに身を包んだ和葉は、ベッドに腰かけた。

 ワンピースタイプのそれはとても扇情的で、白い肌が余計に艶めかしく見える。ところどころ透けていたりして、その薄布一枚下に見える肢体はとても同い年のものとは思えなかった。

 

 和葉はぽんぽんと自分の隣を叩いた。

 どうやらここに座れ、という事らしい。キングサイズ以上の大きさがありそうなベッドの端に、明楽は無言で座った。

 それが不満だったのか、和葉は頬を膨らませて言った。


「……なんでそんな離れるんです」

「だって、その……無理だよ。その恰好だって僕には刺激が強すぎる」

「私は寝るときいつもこれなんです。パジャマとかネグリジェとか持ってませんし」

「せめて上になんか羽織ってよ!」


 明楽は俯いたままだ。

 同じ空間にいるだけでも恥ずかしさに倒れてしまいそうなのだ。近くに座るなんて、とてもじゃないが自信がない。


「恋人なんですから。いいじゃないですか」

「ええぇ……」

「誰が見てるわけでもないですし。二人きりなんですよ?」


 二人きり。

 心臓がまたばくばくと鼓動を強めた。汗はじんわりと滲んでくるし、顔は火が出そうなほど熱い。いっそ気絶してしまったほうが楽になれるんじゃないかとさえ思ったくらいだ。


「……もう」


 ぎしり、とベッドが軋む。

 一向に動こうとしない明楽に、和葉のほうが耐えられなかった。


「なら、これならいいですか」


 ぱちり、と音がした。

 瞬間、部屋の電気が一斉に消えた。暗闇に包まれ、何も見えなくなる。


 え、と顔を上げようとしたとき、明楽はベッドに引き倒された。

 やたらと柔らかいマットレスを背に感じる。何が起きたのか理解する前に、体の上に何かが圧し掛かってきた。


 何か、だなんて知れていた。

 ここには明楽と和葉の二人しかいないのだ。


「かずっ……」

「これなら、見えないでしょう?」

「そうだけど……!ちょっと、離れて……っ」


 慌てて身を捩ろうとするが、和葉はそれを許さなかった。

 体の上に乗る彼女の力は異様に強く、ぞくりとするくらい熱を持った両手が頬を掴む。


「いや、ですか?」

「嫌とかじゃなくて……!」

「明楽くん、こういうの苦手ですよね。キスだってまだ慣れてくれませんし。ちょっと寂しいです」


 鼻先が触れ合う距離に、彼女の顔があった。


「私は今すぐにでも明楽くんと親密になりたいんです」

「今すぐって……ゆっくり付き合っていこうって」

「最初はそう思ったんですけど……でももう、無理じゃないですか」

「え?ん、ンっ」


 何が、と言おうとして、唇を塞がれた。

 噛みつかれるようなキスだった。唇を噛まれ、舌が歯をこじ開ける。熱い舌が咥内を暴れ回った。

 暗闇に響く水音に、心臓の音は一層強くなるばかり。抵抗しようとしても抑え込まれ、息苦しさに涙が出てくる。


 ほんの少し満足して、和葉は顔を離した。

 

「……ほら、ね」

「はぁっ、はぁっ……、なに、が」

「なんでそんなに、嫌がるんですか?」


 彼女の髪が顔を擽る。

 一瞬光った雷光がその顔を照らす。ひどく悲しげで、怒っているようにも見えた。

 明楽にとっては嫌な訳ではないのだ。ただ、こういった事が苦手なだけ。和葉の事は真剣に思っているし、傍に居たいとも思う。が、体が過去のトラウマを忘れられないだけなのだ。


「嫌がってなんか……ただ、こういうのは、僕はまだ」

「まだ?まだって、いつまで待てばいいんです?先輩に明楽くんを奪われるまで?それとも他の誰かに取られるまで?そんなの、待てるわけないじゃないですか」

「そんなこと、あるわけ―――」

「ないって言えます?誰にでも優しくて、嫌だって言えない貴方が?」


 ない、と言えなかった。

 喉まで出かかって、口を噤んでしまった。


「……いいんです。明楽くんはそういう人で、だから好きになったんですから」

「……僕だって、和葉さんの事は好きだよ」

「ありがとうございます。でも、私より先に黒川先輩が告白してたら、どうしてました?」

「……ッ」


 何も言えなかった。

 想像して、明楽はイエスと言った自分を思い浮かべた。そんなことない、と言いたくても、バカ正直な自分の性格が災いしたのだ。何も言えず、それだけで和葉は全て理解した。


「だから、こうするしかないんです。私は明楽くんと別れる事なんか考えられません。だから誰かに取られる前に、貴方の身も心も虜にしないと」

「待って、僕は他の人の所になんか……!」

「なら、態度で示してくださいよ」


 頬を掴んでいた手が離れる。

 ベッドにその手をついて、唇を寄せていった。


「ひっ……」

「ん、ふふ。ちゅ……」


 和葉の吐息が耳を擽る。

 反射的に首を竦めようとするが、彼女の顔がねじ込まれる方が早かった。体重を掛けられた明楽は身じろぎすら取れず、耳を這う舌の感触に背筋を震わせた。

 火傷しそうなくらい熱い舌が耳のふちをなぞるように這っていく。そのまま頬を撫で、首筋へと降りる。その度に電気が走ったかのように体が跳ねてしまい、次第に息が荒くなっていった。


「ふふ、気持ちいいですか?」

「や、あぁ……っ、まって、ホントに……!」

「ダメです」


 ぴちゃ、と唾液が跳ねる。

 和葉は夢中で貪っていた。色々と建前はあるとはいえ、恋焦がれていた彼が自分の体の下で悶えているのだ。慣れてきた目で見た彼の表情は、この世の何よりも和葉の琴線を刺激した。


 パジャマ代わりに渡したシャツを捲り上げる。

 細い体躯は自分と張るくらいだろう。シミ一つない肌を手で撫でると、反応するように彼の口から息が漏れ出す。それが面白くて、和葉は何度も撫でた。


「はっ、はははっ」


 身を起こして、彼を見下ろす。

 息は荒く、唾液の跡がいやらしく光っている。頬のそれは涙なのか自分の唾液なのか分からなかった。


「……怖いですか?」

「……っ」


 首を横に振る。

 嘘吐き、と小さく呟いた。そんなわけないだろうと思った。


「これから、シますよ」

「ぅ、あ……」

「私は初めてですけど……気持ちよく出来るように、いっぱい頑張りますので。だから明楽くんも、私だけ感じていてください。私だけを見て、それ以外は考えないで」


 止まれる自信はなかった。

 明楽の目に映っているのは自分だけという事実が、彼女の心に火を点けているのだ。ぐずりと疼く自分の女の部分が、早く襲ってしまえと背中を押していた。


「ほら、明楽くんだって」


 座る位置を少しだけズラす。

 嫌がっている割にはしっかりと反応しているようだった。凌辱された少女のような有様なのに、下腹部に感じるそれが酷く背徳的に思えた。


「はっ、はっ、ぁ、……」

「大丈夫、大丈夫ですから。今ここにいるのは私なんですから。だからお願い、私を見てください」


 過呼吸気味の明楽の耳元に唇をつけ、出来るだけ優しく囁く。

 擦りつけるように腰を動かせば、可愛らしい声で鳴いてくれる。耳と体で感じる彼に、そろそろ我慢の限界だった。


「やだ、もう、僕は……っ」

「黙って」


 明楽の目から涙が溢れ出した。

 体は震え、嗚咽を漏らす。ただ抵抗だけはしなかった。


「何も考えないで、私だけを見ればいいんです。だから、私を拒絶しないで」


 幼い頃、貴方を何度も犯したような母親ではないのだから。

 抱き締めてそう囁いた。彼に伝わっていることを願って、和葉は彼の腰に手を伸ばした。準備は出来ているのだ。あとは捻じ込めばいい。


「あいしてます、あきらくん」


 言って、とびきりの優しいキスをした。


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