和葉Ⅰ

 私の恋人は、とても素晴らしい人だ。


 優しく紳士で、人の痛みが分かる人。

 誰が相手でも態度を変える事はなく、彼に対して悪い印象を持つ方が難しいだろう。それくらい『良い人』であり、そんな彼とお付き合いできる私は幸せだと思う。


 毎日挨拶して、手を繋いで。

 他愛のない話も楽しいし、見つめたときに照れ臭そうにはにかむ彼なんか最高だ。仕草の一つ一つが胸を高鳴らせるのだ。日々彼の隣に居られることを感謝しない日はなかった。


―――とは言え、全てが順調というわけでもなかった。


 正直なところ、不満はある。

 彼が誠実であることに文句はないのだが、度が過ぎる人の良さはどうにかして欲しい。本来なら私にだけ向けられるべき視線や言葉が、他人に向けられる様を見て何も感じないわけがないのだ。


 それが醜い独占欲であるというのなら、それはそれで上等である。

 専属の世話役に相談しても、この感情は決して間違いないのだと言う。彼にとって私と他人は隔絶した差があって然るべきなのだから、態度は変えて貰わなければ。誰彼構わずに愛想を振りまくのは困りものだ。


 彼女は私なのだから、私だけを見てほしい。


 私だけに優しくして、私にだけ言葉を掛けてほしい。


 何かあれば私に頼ってほしいし、笑顔も泣き顔も私にだけ見せていればいい。


 あの女でもなく、姉でもなく。


 ワガママかな、と思うときもある。

 今まで感じた事のない感情に戸惑うこともある。

 彼の前では見せられないような気持ちを抑え込むのには本当に苦労するのだ。

 それでもどうしても堪え切れず、感情が爆発してしまうときがあった。今朝のような、人の前だろうが彼の前だろうがお構いなしに。反省すべきではあるが、もう私にはどうしようもないのだ。


 であれば。

 もう我慢しなくてもいいのでは、と感じてしまう。

 彼はもう私のモノなのだ。私にとっての初めての恋人ではあるが、それは彼も同じである。何が正しいかなんて分からないだろうし、きっと彼なら何をしても許してくれるだろう。


 そう。彼は、なんでも許してくれる。

 彼の過去が、彼の性格に暗い影を落としたのだ。人から拒絶されるのを極端に怖がり、どんな酷いことでも笑って受け流してしまう。付き合う前は何とか直してあげたいとは思っていたもが、今となっては好都合なのかもしれない。


 たとえ私が彼を無理矢理手籠めにしても、笑って済ますのだろう。

 その時は泣いて喚いても、コトが終わればきっと許してくれる。二人きりになったときに押し倒そうが、強姦まがいに行為に及ぼうが。その確信があるからこそ、私の心はずっとザワついたままだった。


 彼の事は好きだ。

 愛していると言ってもいい。そんな言葉が陳腐になるくらいに焦がれていたのだから。


 彼の心も体も私のモノにしたいのだ。

 心はだんだんと私のモノにしていける。だから今度は、体を私のモノにしたい。

 彼は初めてではないが、心を通わせて体を重ねるのは私が初めてのはずだ。彼のトラウマを取り除くことが出来れば、きっと私に依存してくれるだろう。



―――くすくす。



 鏡に映る私はとても美しかった。

 いつでも勝負できるよう、身だしなみには細心の注意を払っている。彼との食事が終わった後、チャンスが訪れたのなら逃しはしない。その準備も万端だった。


 私は深呼吸をして、覚悟を決めた。

 

 あの女との決定的な差を手に入れるために、私は笑って彼の元へと向かった。











「お待たせしました」


 放課後のショッピングモールは人で溢れかえっていた。

 大半は高校生ばかりだが、大学生の姿もそれなりに多かった。明楽の通う高校から駅を挟んで反対側にある大学で、偏差値はなかなか高め。明楽もそこを受験するつもりだったため、学祭などで訪れたこともあった。


「お帰りなさい。こっちも、もうすぐ終わるから」

「結局それにしたんですね。私と同じので良かったんです?」

「じゃないと和葉さん、買い替えようとするでしょ。古い機種じゃないし、僕はこれで十分だよ」


 家電製品売り場の一角、携帯電話コーナーの窓口に、明楽は座っていた。

 すでに新しい機種も決め、今は事務処理待ちだった。和葉と同じ機種にしたのは彼なりの気遣いだったが、和葉は頬を膨らませて拗ねてみせた。


「せっかくなんですから、一番新しいのにすれば良かったんです。私に遠慮することないんですよ?」

「遠慮とかじゃないんだ。どうせゲームとかする訳でもないし、一緒にするんだったらこれでいいかなって」

「もう……まぁ、明楽さんがそれで良いならいいんですけど」


 余計な気遣いをさせてしまった、と反省。

 確かに今朝一緒の機種にすると言ったが、直前に言えば良かったのだ。


 隣に座って、腕時計を見る。

 午後六時に差し掛かろうという頃だった。


「今日は、ご飯食べてきます?」

「あ、うん。そうだね。姉さんは今日遅いみたいだから」

「……、そうですね」


 姉さん、という言葉に、和葉は黒いものが胸に渦巻くのを感じた。

 姉が遅くならないのなら、今日はこのまま帰るつもりだったのだろうか。自分を優先してくれる気はなかったのだろうか。きっとそんなつもりで言った言葉ではないのだろうが、彼女は胸を刺されるような痛みを感じていた。


 彼は分かっているのか、と横顔を見つめる。

 必死になって笑顔を取り繕っている自分に。笑顔の裏で酷くどす黒い感情が暴れまわっている事に。


 きっと知らないんだろうな、と心の中で溜息を吐いた。

 感づけるようなら、そもそもこんな事にはなっていないのだろうから。


「あ、そうだ」


 さも今思いつきました、という体を装う。

 肩が触れ合うくらいに身を寄せて、耳元で囁いた。


「今日はウチで食べていきませんか?私も母が海外なので、一人なんです」

「そうなの?」

「はい。まぁ、使用人さんたちはいますけど。今言えば夕食の支度は間に合うでしょうし、どうです?」


 明楽に断る理由はなかった。

 以前にも彼女の家に誘われたのだが、その日は姉が休みで断ったのだ。罪悪感もあったためか、明楽は小さく頷いた。


 ぱぁ、と和葉の顔に花が咲く。

 明らかにテンションが上がったらしく、声音も少し高くなった。


「じゃあ、早く終わらせてウチに行きましょうか。……今日は何時頃まで居られますか?」

「うーん……たぶん。九時くらいには帰らないとかなぁ。あんまり遅いと補導されちゃうしね」

「それは……そうですね。前もありましたもんね……」


 明楽の補導率は結構高かったりする。

 学園祭の準備で遅くなった週があったのだが、ほぼ毎日補導されていたのだ。どうやら警官には彼が中学生の女子生徒に見えるらしく、その度に雪那が迎えに行ったのがかなり心に残っているようだ。


「なら、ウチの者に送らせますよ。あんまり時間を気にしてても、せっかくの料理が不味くなってしまいますから」


 言外に、遅くなっても気にするな、と言っているのだ。

 夜九時帰宅は和葉にとっては早すぎた。もともと泊まっていってもらおうと考えていたのだから、あらかじめ帰宅予定を訊いておいて良かったと安堵する。いきなり「そろそろ帰ろうかな」と言われないだけマシなのだ。


 断りはしないだろうが、あまり考えさせてはいけない。

 彼にとって姉の存在は絶対に近いのだ。今ここで押し切ってしまえ、と畳みかける。


「ね、そうしましょう。お姉さんにはあらかじめ連絡しておいてもいいですし。せっかく二人なんですから、ゆっくりしてってください」

「あ、うん。わかった。……その、ごめんね」

「いえ。私も嬉しいです」


 その「ごめんね」はどういう意味だったのか。

 和葉は深く考えないでおいた。考えても意味ないだろうし、もし彼女にとって不都合のある意味だとしても関係ないのだ。


 願わくば「キミを優先できなくてごめん」でない事を祈りながら、和葉は明楽の手をそっと握った。












「そうです。明楽くんが来ますので、夕食と部屋の準備をお願いします」


 電話越しの女性は「かしこまりました」と丁寧に答えた。

 明楽に「ウチに電話してきますね」と言って離れてから、和葉の手はじんわりと汗で滲んでいる。それくらい緊張していて、心臓が破裂するんじゃないかというくらいに鼓動しっぱなしであった。


『ですが、明楽様は承知の上ですか?』


 女性は淡々と物事を言うタイプらしく、感情が感じられない声音である。

 和葉の専属の世話役なのだが、出会ってから一度も激高したり泣いたりしたところを見たことがなかった。


「九時には帰ると言ってましたが、まあ無理でしょうし」

『なるほど。ほどなく嵐が来るようですから、お早くお帰りください。もしくは迎えを寄こしましょうか』

「……そうですね。車の方が早そうですし。駅前のロータリーで待っていてください」

『かしこまりました。……ところで』


 変わらず、淡々と言ってのける。


『本当に、よろしいのですか?明楽様にまだ心の準備があるとは思えませんが』


 和葉の思惑は見透かされていたようだ。

 こういう事をずけずけと言ってくるのも、彼女らしかった。


「平気です。私たちはもう心で結ばれているんですから。遅いか早いかの差です」

『まぁ、お嬢様がそうおっしゃるなら……ですが、いつもみたいにハァハァ言って迫ってはムードが台無しですので。お気をつけください』

「……いいからさっさと迎えを寄こしなさい!」


 返事を聞く前に電話を切った。

 彼女はいつも一言多いのである。慇懃無礼な感じは否めないが、それも世話役との絆が深いのだと黙認していた。和葉にとっても姉のように思っているため、こういった会話も嫌いではないのだ。


 和葉はちら、と空を見上げた。

 雲行きは怪しく、今にも雨が降りそうだ。実際、今日は夜から嵐になると言っていた。


(明楽さんは天気予報とか見ないですしね……)


 だからこそ、今日彼を誘ったのだ。

 明楽の家では洗濯物は乾燥機直行なので、天気予報を見る習慣がない。朝雨が降ってなければいいだろう、というのんきな考え方をしているのだ。

 その上血圧が低いためか朝はいつもぼーっとしているようで、テレビなんか見ている余裕がないのだという。雨は置き傘で乗り切るタイプだった。


 彼は今夜、酷く天気が崩れるとは知らないだろう。

 傘を持っていないのが良い証拠だった。夜にすんなり帰れると疑いすらしていないのだから、可愛いものである。


(今日は泊まってもらって、一緒の部屋で……ふふ、楽しくなってきました)


 言い訳はいくらでもできる。

 姉には友達の家に泊まるのだと言ってもらえばいいだろう。彼は自分と食事するとき、必ず「友達とご飯食べて帰る」と連絡しているのは調査済みなのだ。それはそれで気に入らないけど。


 制服のポケットにスマートフォンをしまう。

 空は順調に暗くなりつつあった。ぽつぽつと振り出したようだが、これくらいなら悟られないだろう。


 くすくす、と笑って、明楽の元へと戻る。

 気持ちの昂りはそのままに、和葉は小さく舌で唇を舐めた。


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