1章 / 菖蒲II / 美弥II
「橘 美弥、さんね」
夕日が赤く照らしている。
教室二つ分をぶち抜いた広さのある生徒会室で、菖蒲は露骨に不機嫌そうな声で言った。
見るからに高級そうな木製のデスクに、革張りの椅子。
菖蒲はスカートも気にせずにデスクの上に足を放り出していた。他の生徒たちの前では絶対に見せないような姿ではあるが、この日は生徒会活動がないのだ。他人の目を気にするのも面倒臭い。
おまけに、今日は非常に機嫌が悪いのである。
朝から昼にかけては最悪で、午後の授業だって身が入らなかった。
明楽からメッセージが返ってこないのも苛立ちの原因の一つだし、その度にあの女の顔が頭にチラついて、今日何度目か分からないくらいの舌打ちをさせるのだ。昼を抜いたためか空腹なのも良くなかった。とにかく今はもう、見聞きする全てが気に入らないのであった。
その上、だ。
勧誘期間はまだ先のはずなのに、生徒会に新しい一年生を入れてくれ、と教師から依頼されたのである。
なんでもかなりの人数の生徒たちの推薦があり、成績も人柄も悪くないため無下には出来ないとのこと。そんな事知ったことか、と言うのが菖蒲の本音ではあったが、だからと言って断る理由がなかった。勧誘はだめでも、立候補は禁止していないからだ。
はぁ、と溜息を吐く。
隣で直立不動の明楽はその度にびくびくと怯えていた。
いつもならこんな姿を見せたくはないのだが、今日は別だ。今朝は思い切り見せつけられたのだし、ちょっとくらい仕返ししても文句はないだろう。
教師から手渡された書類に目を通す。
推薦された生徒の顔写真に、入試の成績、住所などの個人情報が記載されていた。当たり障りのない情報に、余計に額に血管が浮くのを感じた。こんなので何を判断しろというのだ、あのバカ教師は。
「橘さん」
はい、と目の前でにこにこと笑う少女が返事をする。
髪を明るく染め、スカートは明らかに短すぎる。校則などまるで無視した格好だが、推薦を受けたのであれば面談をしなくてはならなかった。
はっきり言って、第一印象は「気に入らない」である。
緊張感がないのかへらへらしているのが目につくし、先程から明楽に視線を向けっぱなしなのは頂けない。そもそも、菖蒲は美弥のようなギャルっぽいタイプの子が嫌いであった。
単に機嫌が悪いから、ではないはず。たぶん。
自分に言い聞かせるのも億劫になり、菖蒲は冷たい声で言葉を続けた。
「成績は悪くないのね。ただ、この署名の束はなに?入学してから一週間しか経ってないのに、随分と人気者なのね」
「私の友達が協力してくれまして。同級生も先輩も、みんな生徒会入りに賛成してくれました」
「生徒会には何故入りたいと?内申点が欲しいのかしら」
「内申点とかもありますケド……でも、学校のために頑張りたいなぁって思ったんです」
袖の長いピンク色のカーディガンが揺れる。
甘ったるい声と相まって、菖蒲のイライラに拍車がかかった。
「……ウチの生徒会は特殊なの。『生徒による自治』が学校のモットーである以上、予算配分はもちろん学校運営に口出しすることだってあるわ。並大抵の責任じゃあ務まらないのだけれど」
脅し文句のようだが、これは事実である。
週に一回教師や理事長との会議が設けられ、今後の学校運営について話合ったりもするのだ。授業計画や改築、増築について、また課外活動や部活動の管理なども行うのである。そのため生徒会メンバーには大きな責任がついて回るし、選出も慎重にならざるを得ないのだった。
これは明楽も最初に言われたことだ。
最も、彼の時はもっと優しく説明されたが。メンバー全員でフォローするとか、もっと親身ではあった。
明楽はうんうん、と頷き、美弥に目をやる。真剣そうな顔だったが、目はちらちらと彼に向けられていた。その度に目が合うのが気まずくて、次第に窓の外を眺めるようになった。
明楽から目を離して、美弥が答えた。
「……分かってます。まだ若輩者ですが、精いっぱい頑張りたいと思ってます」
「あら、そう」
菖蒲は直観的に嘘だ、と確信した。
彼女はそんな事思ってないし、真っすぐこちらを見て言えないのであれば信用しようがない。どうせ何か別の思惑があるのだろうが、ここで詰めてしまっては明楽の印象だって良くないだろう。彼に同席してもらうんじゃなかったと今さら後悔した。
「先生からの推薦も貰ってます」
「知ってるわ。でも、これだけじゃ判断できないの」
「……何でですか」
「私が貴女の事を知らないからよ」
書類をゴミ箱へと投げ捨てる。
一度見たものは覚えられる性質なのだ。これ以上上っ面のデータは必要ない。あとは、この女の本音を暴くだけだ。
仕方ない、とまた息を吐く。
明楽がいてはこれ以上話は進められない。二人きりで『じっくり』と話す必要があるのだから。
「明楽さん。今日は帰っていいわ」
「え、でも……」
「いいわ。彼女を待たせてるんでしょう?急に呼び出して悪かったわね」
いえ、と苦々しい顔をする。
予定があるのに「新メンバーの面談をするから」と急に呼び出していたのだ。
その途中で帰るのは明楽にとっては心苦しいのだろうが、そもそも彼がそんなことを思う必要はないのである。そこが彼のお人好しな部分の一つで、可愛いなぁと思う一面だ。しょげた子犬のような顔がまた胸を締め付け、苛立ちも晴れていった。
「それに、貴方と連絡取れないほうが困るのだし」
「それは……すみません。機種変したらすぐ連絡します」
申し訳なさそうに頭を下げる明楽の手を取って答える。
「じゃあ、また夜に。電話してね」
また夜に。
電話して。
傍から見れば付き合っているかのような会話。
その言葉に反応した美弥を、菖蒲は見逃さなかった。
「はい、お先に失礼しますね。……橘さんも、また明日ね」
小さく手を振る明楽。
美弥は変わらず笑顔のまま、「お疲れ様でした」と答えた。いや、答える事が出来た、のが正しいかもしれない。
彼は真っすぐ生徒会室を後にした。が、残った二人は黙ったまま。
しんとした教室に、外から部活動に勤しむ生徒の声が聞こえてくる。日はどんどん傾き始めていて、電気をつけていないため室内は夕闇に包まれつつあった。
「……橘さん」
「はい」
僅かな間の静寂を破ったのは菖蒲だった。
相変わらずデスクに足を放ったままだ。深く椅子に腰かけ、美弥の顔を見ずに問い掛ける。
「明楽さんのこと、どう思います?」
「……はい?」
「随分熱っぽい目で追っていたようだけれど」
ぎし、と椅子が軋む。
首だけを起こして、美弥を見据えた。明楽と話してたときとは違い、氷のように冷ややかだ。
とは言え、美弥も引く気はなかった。
元々年上を敬うような性格ではないのだ。特にこういった偉そうな年上に対しては、反抗心を剥き出しにしてきた。たった数分話しただけではあるが、菖蒲はその「ムカつく奴」の筆頭にまで上り詰めていた。
挑発の色を含んだ声音で答えた。
「明楽先輩、いい人ですよね。彼氏にしたら幸せなんだろうなって思います」
「彼女いるわよ」
「知ってます。桐生先輩ですよね。でもそれを言うなら、会長もそうじゃないですか?」
「……私も?」
「彼女さんいるのに、夜電話させるんですか?恋人でもないのに。無理矢理だったらセクハラになるって知ってました?」
「あら、悪いのかしら。私と明楽さんの仲なのだから、問題ないと思うのだけど」
それに、と付け加えた。
部屋の空気が冷え込んだように感じる。
「そのうち彼は帰ってくるもの」
「は?どういう……」
「彼は人が好過ぎるから、告白されたら断れないのよ。今はあの女と『付き合ってあげてる』だけで、時間が経てば私の元に帰ってくるわ」
くすくす、と暗くなった教室に笑い声が響く。
のそりと起き上がった菖蒲の目が妖しく光っていた。
「そう言えば、貴女もそうよね」
―――ぎしり。
椅子がひと際強く軋む。
菖蒲は立ち上がって、大きなデスクを迂回してゆっくりと歩く。
顔は暗闇で陰って見えないが、口元が不気味に歪んでいるのが分かった。
「貴女やあの女みたいな雌猫にすり寄られたら、放っておけないのよ。それで勘違いして、彼を自分のモノと思ってしまうのよね。あぁ、もう本当に面倒くさい」
「な、なに言ってるんですか……?」
「何って、訊いてきたのは貴女でしょう?恋人でもないのにいいのか、って」
長く黒い髪が揺れる。
美弥は後ずさりしようとするが、それよりも早く菖蒲に詰め寄られた。
「だからね、貴女にも言っておかなきゃいけないかなって思うのよ」
「だから、なんのこ―――」
言おうとして、言葉が詰まった。
蛇のように襲い掛かった手が、美弥の喉を捕らえる。
女性とは思えない力で、ぎりぎりと締めあげられた。やめろ、と叫ぶことも、呼吸をすることもままならなかった。瞬きする暇もないくらい一瞬で掴まれ、けたけたと笑う菖蒲に制されてしまった。
「……ッ、ぁ、が!」
抵抗しようと、菖蒲の腕を掴んで振り解こうとする。
が、ビクともしない。小柄な美弥とはそもそも体格が違うし、それ以上に狂気的な何かが菖蒲にはあった。摘まんだ虫が暴れる程度の抵抗など、全く意に介さない。首を掴んだまま菖蒲は嗤って、苦しむ彼女の顔をじっくりと眺めた。
「明楽くんを何度も見ていたのは何故?私と彼が話していたとき、顔が引き攣っていたわよ?貴女とは接点が無いはずなのに、おかしな話よね?」
「ぁっ……が、ぅ」
「彼のこと、気になるのかしら。……あぁ、ごめんなさい」
くすくす。
耳に障る笑い声が、美弥にとっては酷く不快だった。
「このままじゃ、喋れないわよね」
瞬間、菖蒲の手が緩む。
とっさに離れようと手を伸ばして―――そのまま胸倉を鷲掴みにされ、資料が積まれたデスクに叩きつけられた。
「っ、がは、ぁあッ!」
どん、と鈍い音が鳴り響く。
背中と後頭部に衝撃を受け、目がちかちかとする。酸欠気味だった頭がぼうっとする。ただ今は痛みよりも、覆い被さるように覗き込む菖蒲の方が恐ろしかった。
美弥に抵抗する気力はなかった。
恐怖からか、体が小刻みに震えている。
その様を見つめながら、菖蒲はゆっくりと口を開いた。
「いえ、やっぱり答えなくていいわ。……ふふ、貴女の生徒会入りを、私が認めます」
「けほ、……っはぁ、どう、いう……」
「私の手元にいた方が監視しやすいもの。あはは、これじゃあ首輪をつけた犬ね。ごめんなさい、さっきは雌猫と言ったのだけれど、やっぱり犬のが似合ってるわ、貴女は」
「……ッ」
「そんなに睨んでもだめよ。それとも推薦を取り下げて逃げてみる?あれだけの人数を巻き込んだ挙句に逃げるのだから、次の日から貴女の評判は面白いことになりそうね。最も、逃げたら―――」
死にたくなるまで、潰してあげる。
歪んだ口から吐き出された言葉に、美弥はぞくりと背筋を震わせた。
この言葉は嘘ではない。
黒川 菖蒲は桐生 和葉と同じくらい有名で、古くから続く名家なのだ。いくつもの会社を経営している上、財閥との繋がりも深い。その上黒い噂も絶えないのだ。それが本当なら、自分一人を潰すくらい造作もないだろう。
(しくったなぁ……この人、ホントに頭おかしいんじゃん)
菖蒲にとっての逆鱗は明楽なのだ。
となれば、今まで自分のような人もいたのかもしれない。明楽にすり寄って、そうしてねじ伏せられた子たちが。そう思うと、余計に圧し掛かる彼女が化け物のように感じた。
「それで、どうする?」
「……」
頷く。
今は、逆らわないほうがいい。
「良い子ね。これからは、あんまり明楽さんにしっぽを振ったらだめよ?」
答えに満足したのか、それとも涙でぐちゃぐちゃになった顔が面白かったのか、菖蒲は口端を歪めて嗤った。ゆっくりと掴んでいた手を離し、美弥の頬を撫でる。人とは思えないくらい、とても冷たい手だった。
「じゃあ明日から、よろしくね。橘さん」
あはははは。
壊れた人形のように、菖蒲はひたすら嗤っていた。
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