1章 / 菖蒲I / 明楽II

 こつこつこつ。


 綺麗に整えられた爪が机を叩く。

 昼食を取るために生徒会室に来たものの、何も手を付けることのないまま、そうしてずっと窓の外を眺めていた。


「あの、会長……」

「……」


 無視。

 生徒会メンバーの後輩たちが声を掛けたのはこれで五度目。

 その度に一瞥するだけで、返事をすることはない。


「そろそろ食べないと、時間が……」

「……ん、そうね」


 流石に可哀そうかも知れない。

 僅かに感じた罪悪感に、菖蒲は口元だけで微笑み、さも「今気付きました」といった様子で返事をした。


 小さな弁当箱を開いた。

 中はフルーツと茹でた野菜がメインで、太りやすい体質のため、炭水化物系は全く入っていなかった。

 決してダイエットの為ではなく―――どちらかと言えば栄養は全て胸にいってしまっているし―――彼女からしてみれば、今このプロポーションこそが理想なのである。維持するために食事に気を遣うのは当然であった。


 指先でフォークを摘み、小さく切られたリンゴに突き刺した。

 そのまま目の高さまで持ち上げて、窓の外を眺めていたようにじっと見つめる。すでに食べ終えた生徒会メンバーの面々は、普段の彼女とはかけ離れた雰囲気に困惑しているようだった。


「……今朝の」

「はい」

「今朝の件。どう思うかしら?」


 ふぇ、と間の抜けた声が返ってくる。

 質問の意図が分からなかったのか、それとも回答に窮しているのか、問い掛けられた女生徒は目を泳がせて俯いてしまった。


 代わりにソファ席を陣取っていた女生徒が答える。

 同じ生徒会で、クラスメイトの葛葉 麻乃である。中学時代からの友人で、菖蒲にとっては数少ない親友の一人だ。


「今朝の件って、桐生と柊木のこと?」

「そう」


 菖蒲の口数が少ないのは機嫌が悪い時。

 それを分かっていてなお、麻乃は誤魔化さずに言い切った。


「あれは、そうだね……歳下相手に見事にコケにされたって感じかな。しかもあんだけ大勢の前でやられちゃあねー。そりゃ、色々噂もされるわ」

「は?なんて?」

「え?あー、うん。まぁ……」


 物事をはっきり言うタイプの友人が、珍しく歯切れの悪い答え方をした。

 言って良いのかどうか迷っているのか、あまり関わらないようそっぽを向いていた下級生たちに目線を向ける。案の定「こっちに聞かないでください」と態度で示されてしまい、肩を落として菖蒲へと向き直った。


「アタシが言ってるんじゃないからね」


 前置き。というか、保険はかけておく。 


「分かってるわよ。別に責めたりしないわ」

「ならいいけど……何個かあるのよね。えっと、『生徒会長のペットが寝取られた』とか、『略奪愛の末に生徒会長が男に捨てられた』とか。酷いのだと『実は生徒会長は脅されてて、桐生と柊木に弄ばれて奴隷にされてる』ってのが」

「……はぁ」


 こめかみを押さえて俯く菖蒲。

 馬鹿げている。荒唐無稽な話だし、信じる方がどうかしているような内容だ。バカバカしいにも程があった。


 部屋の空気は悪くなる一方だった。

 女生徒たちは無言で麻乃を睨み、言外に「適当に誤魔化しておけば良かったのに」と非難の目を向ける。


 麻乃がチョイスしたのは噂の中でも特に酷い方で、正直にそれを言って菖蒲を追い詰める必要はなかったのだ。

 しわ寄せは生徒会メンバーに行くのだから(麻乃はそういう時、大抵逃げる)、もう少し空気を読んでほしい。

 

「随分と言いたい放題なのね。まぁ確かに、してやられたけれど……」

「……ていうかさ、菖蒲って」


 なに?と顔を上げる。

 いつもの余裕の笑みはなく、疲れ切った様子だった。


「柊木のこと、そんなに好きだったっけ?可愛がってたのは見てたけどさ」


 女生徒たちも一様に頷く。

 生徒会唯一の男子生徒で、見た目は彼女たちよりも可憐。おまけに優しく素直な性格ということもあり、菖蒲を筆頭に生徒会役員たちからも気に入られていたのだ。

 

「でもさ、彼氏ってよりはペットみたいな感じだったじゃん。一緒に歩いてるときなんか犬の散歩みたいだったし、そういう感情ないのかなって」

「そんなことないわ。あの子はとてもいい子だし、女の子みたいではあるけど、ちゃんと男の子として見てたもの」

「おお……じゃあやっぱり」


 ええ、と小さく呟いた。

 ずば抜けて大人びた彼女が、恋する少女のように顔を赤らめた。


「じゃなきゃあんなに構ったりしないわ」


 きゃー、と声が上がる。

 生徒会長は柊木のことが好きなのでは、と噂されていたこともあったのだ(だから今朝の件が大騒ぎになった)。

 菖蒲は今まで否定も肯定もしなかったのだが、ついに認めたのである。彼女たちが盛り上がるのも無理はなかった。


「あいつもモテるなぁ。桐生とアンタからなんて、贅沢な男だね」


 桐生、という言葉に、眉尻がぴくりと上がる。


「必死になって一年間いい関係を気付いてきたんだもの。彼の好みに合わせたりだとか、色々手は尽くしていたのだけれど、ね……」


 ぴり、と空気が変わった。

 リンゴを突き刺したままのフォークを握り締める。あまり人前では見せないようにしていた顔が覗き始めていた。


「もう少し。本当にもう少しだったのよ。アイツじゃなくて、私が先に想いを伝えていれば……あの可愛らしい唇だって、折れそうな体だって、私のモノになってたのに」


 フォークがゆっくりと曲がっていく。

 ぶつぶつと不穏な言葉を呟き始めた彼女に、麻乃たちは何も言えなくなっていた。


 一度言葉に出してしまうと、どうしても腹の奥底から湧き上がるマグマのような感情は抑えられなくなってしまうのだ。


 和葉が少年を奪ったことから始まり、今朝までさんざん我慢してきた。たった一週間の出来事ではあったが、プライドの高い自分からしてみれば耐え切れないことのオンパレードである。なにより、それを目の前で見せつけられたのは屈辱以外の何物でもなかった。


「彼を最初に見つけたのも私。目を付けたのも、アプローチしたのも私。ほとんど話したことのないアイツよりも、私のほうが遥かに親密だったはずと思わない?」


 思います、と反射的に女生徒が答える。

 「バカ、同意すんな」と麻乃が小声で抗議した。


「悔しいけれど、噂もあながち嘘じゃないわ。奪われたのよ。あの女に―――」

「あー、その。フォークぐにゃぐにゃだし、ちょっと落ち着いたら?」


 耐え切れなくなって、菖蒲の言葉を遮る。

 これ以上はあまり良くないことが起こりそうだった。


 リンゴが床に転がって、それを丸く捻じ曲がったフォークが追いかけた。

 からん、と音を立てたそれを見て、菖蒲は小さく息を吐く。確かに麻乃の言う通り、興奮し過ぎてしまったようだ。


「桐生だって今頃生徒指導室だしさ。アイツもちょっとやり過ぎだし、少し落ち着かないと、ね?」

「……ええ、そうね」

「あんな事してたら柊木だってすぐ愛想尽かすって。ああいうの、あんまり好きじゃない子でしょ」


 確かに、キスの時に彼は抵抗しているように見えた。

 女性が苦手というわけではないらしいが、彼は女性と深く接触することを避ける傾向にあった。さり気なく肩に触れたり、腰に手を回そうとすると離れてしまうのである。幼い頃に何かあったようだが、彼はその事について詳しく話してはくれなかった。


 まあ、でも。


(だからって、大人しく待ってられないのよね)

 食べる気はとっくに失せていた。

 フォークも使えなくなってしまったし、結局一つも口にしないまま弁当箱を閉じる。転がったフォークとリンゴを拾う気にもなれなかった。


 麻乃の言う通り、和葉の付き合い方は明楽の望むところではないだろう。

 彼はもっとプラトニックな関係を好むだろうし、人前でキスなんて以ての外なのだ。

 貞操観念が固いのは困りものではあるが、彼の扱い方は心得ている。それさえ間違えなければ簡単に奪い返せるはずだ。


(ええ、そうね。簡単よ)


 和葉にアドバンテージがあるとは思わない。

 もともと和葉と明楽はまともに話したこともない間柄だ。見た目と外面の良さから神聖視すらされているようだから、彼も憧れに近い感情はあると思う。ただそれは少しの綻びで簡単に崩れてしまうのだ。憧憬は些細なことで幻滅へと変わるのだから。


「簡単よね」


 奪うことなんて。

 綻びはすでに見えている。あとはそれを突いて、崩してやればいい。信頼を勝ち取っている自分なら、それが出来る。


 たとえ自分の考えが間違っていて、彼が「そういうこと」を望んでいたとしても、もちろんしっかりと応えてあげられる。ぶっちゃけ、「そっちの方」も自分の方が楽しませてあげられる自信があった。


 菖蒲は自分の唇を撫でた。

 指先に柔らかい感触。いつでも勝負できるように、手入れは怠っていない。

 そのままウエストに触れ、ヒップへと手を伸ばす。同年代と比べて発達したそこは、間違いなくあの女よりも蠱惑的だ。毎晩鏡でチェックするくびれも、男性の視線を集めるこの胸も。細いだけのアイツより、魅力という面では劣る要素はない。


 そう。

 負ける要素など、何処にもないのだ。


「そろそろ、戻りましょうか」


 予鈴までまだ時間はあった。

 が、それ以上にこの凍り付いた空気がたまらなく嫌だった。原因は自分なので文句を言う資格はないが。


 菖蒲は立ち上がって、足早に生徒会室を後にした。

 残された友人や女生徒たちが何か騒がしく話していたが、あまり注意を向ける気になれない。これから忙しくなるのだから、「落ち着け」とか下らない言葉を耳にしたくはなかった。


「ンふ。ふふふっ」


 口元に手を当てて笑った。

 腸は煮えくり返っている。が、彼を奪ったときのことを考えると、酷く愉快な気持ちになれた。


 まずは放課後。


 どんな顔をするのだろうと想像して、菖蒲はまたくすくすと笑った。











「や、すげーなお前。流石にアレは真似できねーわ」


 昼。解放された屋上のベンチ。

 落ち込んだ様子でサンドイッチを咥える明楽に、男子生徒はしみじみ言った。


 派手な金髪をツーブロックにした、軽薄そうな雰囲気の生徒である。ワイシャツではなく薄手のパーカーの上にブレザーを羽織っていた。


「笑いごとじゃないよ、もう」

「つっても、桐生さんが相手だろ。あんだけの美人にキスされて文句言うなんて、お前も偉くなったもんだな」


 竜崎 真也は、けらけらと笑って明楽の肩を叩いた。

 羨ましいというよりは、「他人事だから楽しもう」といった感じだ。無責任だとは思うが、それでも何故か憎めないのが彼の特徴であった。

 

「明楽はお前とは違うんだ。やっと女に慣れてきたってのに、公衆の面前でキスして喜べるような性格じゃないんだよ」


 ぶすーっと不貞腐れた明楽に助け船を出したのは、その横に座る大柄な男子生徒。

 黒い髪を短く刈り込み、何処か武士のような雰囲気を纏っている。実際、彼は剣道部の主将であり、実家は大きな剣道教室を運営していた。


「桐生も桐生だ。生徒会長の前であれだけの事をしたんだから、こうなるのは覚悟の上だろ。注意で済めばいいけどな」

「和馬まで……クラスメイトを心配しようって気はないの?」

「あいつはあまり好きじゃないんだ。悪いな」


 銀色のシンプルな弁当箱を片付けながら、成宮 和馬ははっきりと言い切った。

 以前から和葉の事を「どうも好きになれない。注意しろよ」と警告していた。理由は何となく、としか言わなかったが、今朝の一件で余計に嫌悪感を剥き出しにしていたのだった。


「お前の彼女だから悪く言いたくはないけどさ。でもちょっと気を付けたほうがいいと思うぞ」

「気をつけろって、何を?」

「本性っていうか……そうだな。桐生はお前が思っている以上に、欲望に忠実だと思うぞ。じゃなきゃ今朝のような事にはならないだろ」


 和馬は真っすぐ明楽を見据えた。

 普段から真面目な彼だが、その瞳には尋常じゃない真剣さが籠っている。


「女っていうのはな、たいてい本性は隠してるもんだ。それがどんなモンだか気付いた時には、手遅れだったりするんだよ」

「お前の彼女みたいに?」


 真也が茶化す。

 和馬に許嫁がいるのは有名な話で、しかもその相手は五歳年上の和風美人なのだ。噂好きでなくとも話題にしたくなるような話ではあるが、和馬自身はあまり彼女について触れてほしくないようだった。


 聞くところによると、かなりの束縛家らしい。

 辟易しているらしく、和馬に恋人の話はタブーとなっていた。


「言ってろ。お前はいい加減マトモな彼女作れ」

「マトモな女の子が寄ってこねーんだもん。浮気されるか浮気するか、それとも股掛けされるかばっかでさー」

「真也は節操ないもんねぇ」


 うるせえ、と明楽の髪をぐしゃぐしゃと撫で回す。

 一年の頃は、一月毎に恋人を変えるくらい長続きしなかったのである。それでも未だに何人も恋人を作れるのが不思議で、明楽は何でこんなのが良いのかなぁ、と真剣に悩んだりしたこともあった。


「まあ明楽はマジで桐生さんと付き合ってるんだろ。俺らが口出すことじゃねーって、な?」

「俺は別に。こいつが悪いようにならないなら、桐生だろうと生徒会長だろうと好きに付き合えばいい」

「悪いようになったらどうすんだよ?」

「それは当然、別れさせる。友人の一大事を見過ごしはしないだろ」

「ねえ、和馬って僕のなんなの?」


 まるで親のような言動に、明楽は苦笑した。

 和馬は友人に対しては義理人情に厚く、兄貴分的な存在だったりする。それを恥ずかしげもなくはっきり言葉に出来るのは、照れ臭さを通り越して格好良くもあった。


「まぁ、何かあったら相談するんだぞ。いつでも力になる」

「うん、ありがとう」

「なー、俺になんかあったら助けてくれんの?」

「お前は別だ。たまには一人で頑張れ」


 ショックだわー、と言って寝転がった。

 実際にトラブルに見舞われれば、和馬は真っ先に助けようとするだろう。真也もそれが分かってて言っているし、和馬だってわざわざそんな事を言うつもりもない。幼馴染という関係あってころのやり取りで、明楽は純粋に二人が羨ましく思えた。


「二人とも、ありがとね」


 おう、と声を揃えて返事をする真也と和馬。

 なんだかんだ言って、二人は心配してくれていたのだ。


「……ま、もう少しはっちゃけてくれた方が、面白いんだけどな」

「そういうこと。刺される寸前くらいまでドロドロした修羅場見せてくんねーと」


 前言撤回。

 心配なんかこれっぽっちもしてないようだ。


「そんな事あるわけないじゃん。ドラマの見過ぎだよ」


 言って、明楽は首を振った。

 

 数時間後に「そんな事」の片鱗を体験することになるとは、この時はまだ思ってもみなかった。

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