1章
1章 / 明楽I
少年はじっと部屋の隅で膝を抱えていた。
電気は点かない。
お湯も沸かせないし、そもそも水すら出ない。当然のように、食べるものも無かった。
それでも少年は身動ぎ一つせず、ただ黙って母親の帰りを待っていた。
母親は週に一度か二度、帰ると言うよりは立ち寄る程度。
水といくらかの食べ物が入った袋を玄関に放り、またどこかへ出かけていく。たまに悲しい顔で酷い事をしては、泣きながら家を出たりもする。両親が離婚して母親に引き取られてから、もう何年もこんな生活が続いていた。
———お母さん。
呼びたくても、喉から出るのは掠れた呻き声。
一切話す事を許されなかった彼は、いつの間にか声を出すことが出来なくなってしまった。
真っ暗な部屋で、少年は声を出さずに泣いた。
嗚咽はない。鼻を啜る音も、涙を拭くこともない。
どうして悲しいかも、よく分からなかった。
◇
「……最悪だ、もう」
寝覚はまさにその一言に尽きた。
汗を吸ったシャツは肌に纏わり付き、酷く不快である。シーツや枕も同様だった。
明楽は壁掛け時計に目をやった。
時刻は午前六時ちょうど。起きるには早く、二度寝するには物足りない時間だ。
どちらにせよ、この不快感の中で目を瞑ろうとは思わない。不快感を持ったままベッドから降り、そのままバスルームへと向かうことにした。
「なんだ、早いな今日は」
向かう途中、リビングから不機嫌そうな声がした。
まだ寝ているのかと思っていたが、どうやらすでに起きてリビングで寛いでいたようだ。返事だけするのも愛想がないかと思い、少年はとりあえずリビングに入っていった。
「おはよう、姉さん」
「ああ、おはよう。また悪い夢でも見たのか」
「うーん……」
ちょっとね、と苦笑い。
実際は週に何度も悪夢で目が覚めるのだが、それを伝えて心配させたくはなかった。
「ふむ。なら、またカウンセリングでも行くか。いい加減時間も経ったのにそんな状況じゃあな」
ソファに寝転がっていた雪那は、明楽のシャツを指差した。
「今朝は肌寒い。なのにそんな汗だくになるくらいの悪夢なら、余程のものなんだろ」
「別に平気だよ」
「そんなザマでよく言えるな。鏡見てこい。死にそうな顔してるぞ」
のそりと起き上がる。
ワイシャツにタイトスカートのまま寝転がっていたようだ。
すでにメイクも終えていて、切り揃えられた黒のショートカットにも乱れはない。見た目はバリバリのキャリアウーマンなのだが、家では結構ぐうたらな一面も持っていたりするのだ。
そんな姉については、身内の目から見ても十分過ぎるくらいの美人だと思う。
冷たい声ではっきりと物事を言い過ぎるきらいはあるものの、思いやりから来ている言葉なのだ。友人が以前、「あれはご褒美だぞ」と喜んでいたのを思い出した。
「ホント、大丈夫だってば」
明楽は目線を逸らして首を振った。
美人は怒ると怖いというが、まさにその通りである。
本人はそんなつもりはないらしいが、真っすぐと見据えられると睨まれているように感じるのだ。それが蛇に睨まれたように思えて結構怖かったりする。
「……まぁ、いいだろう」
ち、と舌打ちしたように聞こえた。
これも彼女のクセである。いい加減慣れてきたけれど。
雪那は少し思案して、言った。
「また同じようなことがあれば、引きずってでも連れてくぞ」
「わかった。……ていうか、僕だっていつまでも子供じゃないのに」
「子供だよ。自分で金も稼げず、一人で生きていけない内はな」
「だったらバイトくらいさせてくれもいいのに」
「今は学業が優先だ。金なんて後でいくらでも稼げる」
大人しくいう事を聞いていろ、ということらしい。
以前から学業優先と言う割には、テストの成績が悪くても文句の一つも言わないのである。ただ頑なにバイトや部活動は許してもらえず、生徒会に入る際には食い下がる明楽に大激怒したこともあった。
要は、過保護なのである。
口調は厳しいだけで、行動の中身はまさにそれだった。
「それと、帰りに機種変してこい。連絡着かないのは困るからな……まったく、もう少しモノを大事に使え」
「水零して壊したの姉さんなのに!」
そうだったな、と雪那は笑って、またソファに寝転がった。
◇
「……なるほど、そういう事だったんですね」
納得したような、そうでないような。
うーん、と唸り声を漏らしながら、和葉は明楽をじっと睨んだ。
「ホント、ごめんね」
「いいんですけど……でも、本当に心配したんですからね」
和葉はくしゃくしゃと明楽の髪を撫でた。
百七十センチと女性にしては高い身長の彼女に対し、明楽は頭半分ほど低い。自然と撫でやすい位置なのか、何かある度に頭を撫でるのがクセとなりつつあった。
「今日の帰りに新しいのにするからさ」
「あ、じゃあ一緒に見にいきましょうか。私も同じのにしたいです」
「……こないだ変えたばかりじゃなかったっけ?」
「半年前です。十分使いました」
十分かなぁ、と明楽は苦笑した。
確かに新しいモノ好きなところはあるな、と思っていたが、半年で十分使ったと言える感覚は理解できそうになかった。
他愛のない会話をしながら、学校への道を二人で歩く。
学校に近づくにつれ、生徒の姿も多くなってきた。
住宅街の中心部にあるため、交通の便はそこまで良くない。最寄りの駅から二十分程歩かなくてはならない立地ではあるが、地域内外含めて多くの生徒が通っていた。
当然、人が多くなれば突き刺さる視線も多くなるのである。
半分は和葉に向けられ、見惚れるものもあれば、どうやって声を掛けようかタイミングを見計らっている生徒もいた。もう半分は明楽に向けられていて、何となく剣呑な雰囲気を孕んでいたりする。
理由は簡単。
けれど、原因を取り除くのは容易ではないのだ。
「……あの、さ」
「はい」
気まずそうに、明楽が言った。
「学校近いし、手は……」
駅からここまで、手を繋ぎっぱなしであった。
気恥ずかしさもあるが、それ以上に身の危険を感じてしまう。さっきから通り過ぎる生徒に睨まれたり、露骨に舌打ちされたりしているのだ。それも巧妙に和葉にバレない程度にやられているのだから、余計にタチが悪かった。
「なんでですか。私といるの、恥ずかしいんです?」
「そういう訳じゃないんだけどさ……」
「じゃあいいじゃないですか。付き合ってるんですし、堂々としてればいいんです」
可愛らしく頬を膨らませる。
明楽に対して不満はないが、こういったところは物申したくなるときがある。和葉としては「何時でも、何処ででも」イチャイチャしたいのだ。多少の人の目はむしろ刺激的、くらいの感覚であった。
「ファンクラブとかいう人たちなら、手は出してきませんから。せいぜい文句言うくらいです」
「簡単に言うけどさ……最近はなんか雰囲気悪いんだよ」
「ならずっと私といればいいんです」
そうしましょう、と嬉々として言った。
しまった、と後悔するより先に、和葉の頬が赤く染まる。
彼女の頭の中では四六時中肩を寄せ合って過ごす妄想でいっぱいのようだ。
「クラスも同じなんですから、プライベートも出来るだけ一緒の方がいいですよ。私のウチなら部屋もいっぱいありますし。あ、せっかくなら離れで二人きりの方がいいですよね!」
「え、はっ?」
「やー、もう……もう私も子供は産めますけど……しばらくは二人きりでいたくないです?二十歳……いや、二十三歳くらいがいいですかね?」
「ちょ、待って何言ってんの」
和葉は自分の体を抱き締めて悶えた。
妄想はだいぶエスカレートしているらしく、明楽そっちのけで何かを口走っては頬を染め、視線を送っていた生徒たちは怪訝そうにそれを眺めていた。
「子供は三人で、やっぱり男の子二人がいいですね。末っ子は女の子で、明楽くんとの子供なら可愛いんだろうなぁ……あ、名前は明楽くんが決めていいですよ?」
「ホントに何の話してるの……」
会話が噛み合わないのは良いとしても、これ以上は公開処刑に近い。
学校に近づくにつれ野次馬は増えて、校門を通る時には人だかりすら出来始めていた。
(本当にどうしよう……)
せめて外ならまだいい。いや良くはないが、学校の敷地内でこれはマズイ。
変な噂をたてられるよりも、教師たちに誤解されるよりももっと良くないことがあるのだ。
あの人にこんなところを見つかったら、どんな目に遭うか―――
なんて、思っていたからだろうか。
悪い予感と言うのは当たるものである。
「ねえ、あなた達」
明楽はびくりと身を跳ねさせた。
汗が噴き出る。声は背後からで、見つからないように顔を顰めさせた。
「なんだかあまりよろしくない事ばかり口走ってるみたいだけれど」
「いやっ、その……」
「一緒に住むとか、子供がどうとか。学生の身分で結婚とか。いい度胸してるわね」
小馬鹿にしたような言葉に、和葉の笑い声がぴたりと止んだ。
二人が振り返った先に、その人はいた。今一番いて欲しくなくて、明楽が一番会いたくなかった人。そう言うと語弊があるかもしれないが、それが正直な感想だった。
「明楽さん」
「はいっ」
どことなく妖艶さのある声だった。
声の主は、それに相応しい美貌を持った女生徒だった。黒羽色の長い髪は宝石のように輝いていて、吊り目がちな瞳は氷のような印象がある。
柔らかな雰囲気の和葉とは正反対の美しさをもった彼女は、ゆっくりと明楽の方へと近づいて行った。
「あなた、生徒会のメンバーでしょう」
「そ、そうです……」
追及するような口調である。
明楽は直立不動で答えるが、どこか尋問される犯罪者のような気分だった。
「分かってるなら、なんで?」
「その、なんで、っていうのは」
「不純異性交遊」
「ちょっと待ってください」
待ったを掛けたのは和葉だった。
周囲にピリついた空気が漂いはじめる。野次馬だった生徒たちもそれを察したのか、がやがやとした話し声も一切聞こえなくなっていた。
「不純じゃありません。真剣にお付き合いしてますし、『私たち二人の問題』を黒川先輩に口出しされる覚えもありませんが」
「生徒会長だもの。私の大切な明楽さんが悪い女に捕まってたら、口出しもしたくなるわ」
「誰が悪い女ですか!」
うがー、と聞こえてきそうなくらい、和葉は分かりやすく激高した。
二人は小学校からの知り合いなのだが、どうにも折り合いが悪いのである。性格と胸の大きさ以外はほとんど似ているだけに、一部では同族嫌悪だと揶揄されたりもしていた。
「貴女以外に誰がいるのよ」
「心外です!」
「あら、こんな真面目でいい子を誑かして攫おうとしてるのに?」
「同意の上です。明楽くんだって同じ気持ちなんです」
いや言ってないけど、とは流石に口には出来なかった。
情けないとは思うが、明楽は徐々にヒートアップする口論に身を小さくするだけである。もともと争いごとが大嫌いな性質であるのも災いしていた。
「そうやって洗脳したのね。可哀そうな明楽さん」
ワザとらしく泣き真似をする。
それがさらに和葉の怒りに油を注いだ。
「洗脳ってなんですか!」
「そのまんまの意味よ。貴女と付き合い始めてから、生徒会を休むどころかメッセージの返事すら遅くなったのだから」
「はぁ!?」
菖蒲の言葉に、怒りの矛先が一気に明楽へと向かう。
普段はどんな時でもニコニコしている和葉であったが、この時ばかりはまるで般若のようであった。
「明楽くん、どういうことです!」
「えっ」
なんで僕に、と言おうとして、和葉にネクタイを掴まれる。
「なんでこの女と連絡取り合ってるんですか!」
「だって同じ生徒会だし、必要な連絡だってあるんだよ!」
「そんな言い訳が……っ、これは浮気ですよ!」
「誤解だって!」
明楽としては下心は全くないし、浮気だなんて頭を過ったこともないのである。
菖蒲とは確かに連絡を取り合う中ではあるが、相手は和葉同様に高嶺の花で、そういった関係を望んだことすらなかった。
「先輩も先輩です!明楽くんはもう私のモノなんですよ!それを……!」
「あら、私の『モノ』?酷いのね。人をモノ扱いだなんて。そういうところは直したほうが良いと思うわ」
「黙りなさい!」
菖蒲に何を言っても無駄なのは知っていた。
以前から口論で勝てたことはないし、顔色一つ変えられたこともないのだ。誰にでも優しい和葉が「はっきり言って苦手です」と公言するくらいなのだから、かなり嫌悪しているのは明白であった。
だからと言って、こればっかりは引くわけにはいかないのだ。
後顧の憂いを絶つためにも、はっきり言っておかなければ。
「明楽くんは先輩ではなく私を選んだんです」
「あら、本当にそうかしら」
菖蒲は鼻で笑った。
「私が先だったら、立場は違ってたと思うけれど」
「仮定の話に興味はありません。これが現実ですから」
見てなさい、と和葉は吐き捨てた。
何も言わずに明楽の襟首を掴み、強引の引き寄せる。明楽が気付いた時には、和葉の顔が鼻先に触れる距離だった。
「えっ―――ん、ちゅ」
唇に柔らかい感触。
そのまま和葉の手が首に回され、残る手は明楽の腰に巻き付いた。
「ちょ、まっ……んぅ、ンンんっ」
明楽は抵抗しようとしたが、力は和葉の方が上である。
抗議の言葉は和葉に文字通り吸い取られてしまった。
そんな抵抗を無理矢理抑え込んで、和葉はキスを続ける。
半ば諦めたような明楽の唇を舌で割り、少年の歯列を丁寧になぞってやる。合った視線で文句を言われたように感じたが、彼女はそれすらも無視してやった。
「ンー……ぅ、あは、ふふふ」
「ぷは、……ッ」
一度唇を話して、明楽の背後へ目をやる。
周囲の生徒たちが騒めいていたが、そんなことはどうでも良かった。ただ一人、昔から気に入らないあの女が、見たこともない表情で立っていたから。
それが嬉しくて、和葉は腕の中で震える少年の唇をまた奪った。
今度は口を閉じさせる暇も与えてやらない。舌を滑り込ませ、涙を浮かべて目を瞑る彼の舌を乱暴に探ってやる。舌先で口蓋を擽り、逃げ惑う舌を絡めとった。それだけで体をびくりと跳ねさせる少年は、今まで見た中で一番愛おしく思えた。
(あー、もう。これ癖になるかもしれないですね……)
朝の学校の敷地に相応しくない水音が響く。
気付けばチャイムが鳴り始め、それを機に和葉はようやく明楽を離した。
紅潮して酷く色っぽく見える明楽も捨て難いが、それ以上に菖蒲の表情が彼女の自尊心を擽った。
「……ふふ。先輩でも、そんな顔するんですね」
「……」
明楽からは菖蒲の表情を伺い知れない。
ただ嬉しそうに嗤う和葉の表情から、あまり良くない顔をしているんだろうとは理解できた。が、いいように弄ばれた後の頭では、文句もフォローも言える状態ではなかった。
「明楽くんは私のモノです。手を出したら、覚悟してもらいますよ」
唾液で光る口元を、細い指先でゆっくりと拭う。
ハンカチは使わず、濡れた指先を見せつけるように舌で舐め上げた。
「先輩にはその顔が似合ってますよ。……じゃあ行きましょうか、明楽くん」
うん、と返事をする前に、彼女は明楽の手を引いた。
突然の行為に呆気に取られていた生徒たちもそれぞれ散っていく。一人残された菖蒲だけが、依然としてその場に立っていた。
始業のチャイムが鳴るまで、菖蒲はそこに立っていた。
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