Ⅰ.Seeding

1.到着

「ふぅ……」


 荷物を久しぶりのアスファルトにどっかと降ろし、小原おはらは小さくため息を、


「なに?この程度で疲れたの?弱っちいなぁ風ちゃんは」


 小さな笑いとともに、一体どこまで届けるつもりなのかというほどの良く届く声が小原の耳元でする。


「そりゃ、紅葉くれは姉さんは慣れてるのかもしれないけど、俺は十年くらいぶりだよ?そりゃ疲れるって」


 紅葉はそんな文句に耳も貸さず、


「鍛え方が足りないんだって。そうだ。暫くこっちにいるんなら、私と朝一緒にジョギングでもする?山の上まで」


「お断りします」


 紅葉と一緒にランニング。


 正直想像もしたくない。


 彼女は軽い気持ちで誘っているのだろうが、こっちは万年文化部なのに対して、あっちはバリバリ現役の運動部だ。


 まあより正確に言うのであれば大学なので部ではなくサークルで、しかも詳しい話を聞いてみればそこまで鍛える必要性の無い旅行サークルでしかないというのだが、彼女の中では旅と言えば山男が使うようなリュックを背負ってヒッチハイクが思い浮かぶのか、それとも陸上部だった高校時代の血が疼くのか、今でも毎日のようにランニングを欠かしていないらしい。


 したがってその距離は当然「朝の軽い運動」よりは「長距離走の練習」に近いレベルなのだが、こういうのは得てして当人の中では「大したことない」というラベルが貼られていることが多い。例えば、そう、辛い物好きの「大して辛くない」が全く役に立たないのと同じで、


「えぇ~いいじゃん。何もフルマラソンをしようって言ってるんじゃないんだし」


「……そもそも比較対象がフルマラソンな時点で駄目ですって。俺を何だと思ってるんですか」


「可愛い後輩兼おもちゃ」


「おい」


 さらに突っ込みを入れたくなるが、ぐっとこらえ、


「取り敢えず行きますよ。迎えが来てるらしいんで」


 アスファルトに置きっぱなしになっていた、万年文化部には少し重すぎるリュックを担、


「そう?んじゃ行こっか」


 ごうとして肩透かし。本来ならば小原が担いでいるはずのバッグは、紅葉が手提げ袋でも持つかのようにひょいと持ち上げ、ずんずんと歩いていく。ジーンズにハイヒールという、どうしてそうなったという組み合わせはいかにも紅葉らしく、


「はやくー」


 催促。小原はすっかり軽くなった足取りで、


「はいはい……」


 紅葉についていった。



               ◇



 さて。


「んで?迎えがくるんだっけ?」


 その辺のベンチに小原のバッグを置いた紅葉は、その隣にどっかと足を組んで腰掛ける。タンクトップの胸元に引っ掛けたサングラスがちらりと揺れる。恐らく胸のサイズによってはもう少し安定感が無くなるのだろうが、彼女の場合はその豊満なバストのお陰で無事にサングラスは安住の地を得ることが出来ていた。


「にしても相変わらずなんも無いわねぇ、ここ」


 紅葉は船着き場を眺めてから鼻で笑い飛ばし、ポケットから煙草とライターを取り出し、慣れた手つきで火を付けて一服。ややウェービーな茶髪に、美人といって良いレベルの顔立ち、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいるその身体は、一昔前の言葉を引っ張り出して言えば「ボン、キュッ、ボン」という感じ。


こうやって黙ってベンチに座って煙草を吸っているところだけ見れば、なんとも魅力的な女性に見えなくもない。


「しかしながらその中身を開いてみれば、なんとも残念な光景がそこには広がっているのだった」


「おーい。モノローグ漏れてるぞ」


「あ、やべ」


 紅葉は眉間にしわを寄せ、


「やべ、じゃないよ。うり」


 ふぅーっと、煙草の煙を思いっきり吹きかけてくる。小原はそれをぱたぱたと仰ぎながら、


「やめろって全く……それにしても遅いな……」


 島の方を眺め、


「ん?」


 一台の軽トラックが目に入る。その速度が大分ゆっくりなのは、安全運転なのか、それとも余り速度を出すとぶっ壊れてしまうのかが遠目からはあまり判別できない。つまるところ、かなりの年季を感じる、錆びが模様のようになってしまっているその軽トラックは、自徐行運転で段々と近づいてきて、


「あれ、あのトラックって……」


 紅葉が呟く。二人のすぐ近くで停車した軽トラックの窓が開き、


「ゴメンゴメン。ホントは別の車で来るつもりだったんだけど、朝乗ってみたらバッテリーが上がっちゃってて。仕方ないからこれで来たんだけど、もう、怖くてね。聞いてよ。この車。なんとハンドルが最初から少し右に傾いてるんだよ。コツ思い出すまではとてもじゃないけど速度なんか出せやしなくって……あれ?」


 そこで窓から出た顔(ちなみにかなりの髭面だった)は、紅葉の方を向き、


「あれぇ?紅葉じゃない。どしたの。帰省?」


 紅葉は曖昧な口調で、


「んー?まあ、そんなとこ。っていうか、何?風ちゃんの迎えってエーイチだったの?」


 エーイチと呼ばれた髭面が、


「そうだよ。だって姉さんに頼まれたからね」


「ねえさん……」


 紅葉は視線をふらふらと漂わせた後、


「ああ!小原のおばちゃんか!」


「こらこら。おばちゃんとか言わないの」


「いや、おばちゃんでしょ。ついでにエーイチはおじちゃん」


 エーイチは全く嫌そうな表情を見せずに、


「えー。酷いな。これでも見た目は若いつもりなんだけど」


 紅葉は軽く笑い、


「ま、そうだけど。んで?エーイチが頼まれたってことは、風ちゃんもエーイチん家で?」


「そ」


 エーイチは小原に視線を戻し、


「と、まあ。そういう訳で。今日からえーっと……」


「三週間です」


「三週間の間、小原風介くんを預からせてもらいます。浪路なみじ詠一えいいちっていいます。小さいころに何度かはあってるんだけど、流石に覚えてないよね?」


「えっと……はい」


「んじゃ、まあ初めましてってことで。一応、君の叔父さんになるのかな。まあ、呼び方は叔父さんでも、詠一さんでも好きにしてくれていいよ。何かあったら遠慮なく相談してくれていいよ。ものにもよるけど、出来る限りのことはするからさ」


「ありがとう、ございます」


 小原はぎこちなく挨拶をする。正直距離感が分からない。詠一は小原のことをよく知っているようだが、小原は詠一のことを「遠い島に住んでいる親族」くらいの認識しかしていない。親切にしてくれるのはありがたいが、距離感は徐々に探っていこう。


 詠一はうんと何かに納得し、


「それじゃ、行こうか。ちょっと散らかってるけど、助手席でいいかな。ゴメンね」

「それは、まあ、別に……」


 正直そんなところに拘りは無かった。ぶっちゃけ、移動できれば何でもいい。車酔いもしないタイプだし。


 詠一がそれじゃあ行こうかと車の窓を閉めようとした時、


「ちょいまち」


「ん?どうしたの紅葉」


「いや、どうしたのじゃなくて。私は?」


 詠一が話を掴みかねるという表情で、


「私は?って言っても、助手席に二人は座れないよ?」


「前は座ってたけど」


「それはもっと小さいころの話でしょ。あ、鍵開いてるよ」


 詠一は一瞬だけ小原に意識をやる。


 助手席に二人。


 何となく覚えがある。まだ小原が小さいころだ。紅葉の膝の上に小原が座り、


 むにゅっ。


「…………」


 小原はぶんぶんと首を横に振って、邪念を断ち切る。あの距離感の近さは性別をちょっぴり意識しだしたばかりのマセガキもとい小学生男子には大分刺激が強かったと思う。


 紅葉はなおも反論する。


「いや、そうだけどさぁ。エーイチは私だけ置いてくっていうの?」


「って言ってもねえ……第一、彼と一緒に来たわけじゃないでしょ?どうするつもりだったの?」


「それはまあ、その辺走ってる知り合いの車に乗っかるか、誰か適当に呼ぶかすればいいかーって」


「それなら、それでいいじゃない。なにも二人乗りの車に無理やり乗らなくたって」


「えー。そりゃそうだけどさぁ。でも、誰か待つより、一緒についていったほうが、」


 そこで紅葉の視線がトラックの荷台に移り、


「そうだ。ねえ、エーイチ。荷台に乗っちゃ駄目?」


「え?……まあ、いいけど。そんな乗り心地のいいもんじゃないよ?」


「いーのいーの。移動できれば。んじゃ、お邪魔しまーす」


 運転手の許可が取れた紅葉は、小原の荷物とともに、荷台にどっかりと座り込む。なんだかその光景は少し楽しそうで、


「あの、叔父さん」


「ん?何?ごめんね。今出るからね」


 詠一はそう詫びて、車を出そうと、


「あ、そうじゃなくて。俺もあっち乗っていいかな?」


 小原は荷台を指さす。


「え?あっちって……」


 詠一は小原の指先を見つめ、なんとも珍しいものを見るような目で、


「荷台?いや、でも、あそこはそんなに乗り心地の良いものじゃ、」


「駄目、ですか?」


 ごり押し。これで駄目なら引こう。ただ、恐らくこういった類のお願いをむげには出来ないはずだ。


 詠一は力が抜けたような息を吐き、


「いいよ。そんなにいいもんじゃないけど、それでもよければ」


「ありがとうございます」


 ご名答。


 小原は心の中でガッツポーズをし、助手席を降りたのち、荷台の、紅葉の座っていたとなりに腰を下ろす。紅葉は背中側にある運転席に向かって、


「ねー。私助手席座っていい?」


 ところが詠一はさらっと、


「それは駄目かなぁ。ほら、荷物とかあるし」


「はぁ?いや、だって、今風ちゃんが」


 詠一はそんな訴えを無視という形で退け、


「さ、出るよー」


 二、三操作をしたのち、アクセルを踏む。心地よさとは無縁の振動とともに車体がゆっくりと動き出す。エンジン音がびっくりするくらい大きい。昨今の少しの音にも文句をつけるような過敏なクレーマーたちが聞いたら卒倒してしまうのではないか。


 そんな、ある種の「田舎っぽさ」を背中に感じながら、小原は空を眺める。そこには呆れかえるほどの青さと、心を洗われるような白さの雲が広がっていた。遠くには木々の生い茂った山がある。あのどこかに、恐らくは桜の木と、秘密基地のような小屋があるはずだ。まずはそこに行ってみよう。そう決心する。本州は寒さの残る時期。着てきた長袖の上着が熱く感じるほどの陽気の下、年季の入ったトラックはゆっくりと走っていく。

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