飛べない翼、散らない桜

蒼風

0.序文

  椿つばき菊之助きくのすけという男は、おおよそ小原おはら風介ふうすけが知り得る限りで最低の男だった。


 しかもそんじょそこらの最低ではない。


 筋金入りの最低だ。


 家族のことについて話せばまともな呼称を使ったことはないし、人の弱みにつけこんで利用するだけ利用してポイ捨てしただのという話を聞いたのは一度や二度ではない。


 友人のことについて問えば、そんなものはいないとうそぶく。ところが実際のところ、友達と呼べる存在がいなかった訳ではないらしい。


 これは椿の機嫌が良かったときに聞いた話だが、彼の回りにそれなりの人がいた時期もあったのだそうだ。だけど、彼ら彼女らは一人、また一人と椿の前から姿を消し、気が付けば一人になっていた。だからそいつらは友達なんかではないのだ、がっはっはっはっというのだ。


 彼の解釈は「自分の前から去っていったやつなど友達でもなんでもない」という理屈でなりたっていたが、小原にはどうしても「友達だったが愛想をつかされて音信不通になってしまった」という物語が見えて仕方が無かった。


 そんな椿だが、何故だか小原には優しかった。


 いや、今思い返してみれば優しくなど無かったような気もする。


 椿が小原を呼ぶ時には名前を呼ばれたためしなど殆どなく、決まって「小僧」だとか「クソガキ」だとか「アホンダラ」だとかそんな塩梅だったし、その口調には優しさの欠片も無かったような気がする。


 少なくともそれは、人を寄せ付ける態度ではなかったが、それでも当時の小原はそんな椿に会うのが好きだった。


 理由なんて色々ある。椿は丘の上にある小さな小屋に住んでいたが、そこの雰囲気が秘密基地みたいだった、ということ。彼がいつ行ってもやっていた油絵を描く所作を眺めるのが好きだった。ぶっきらぼうで人を寄せ付けないその口調の裏に隠された優しさを感じていた。どこまでも自由で、自分勝手なその生きざまを子供ながらにカッコいいと思った。いくらでも挙げられる。


 ただ、一番の理由は、毎回訪れるたびに、


「なんだ。また来たのかクソガキ。こんな所にいねぇで尻の青いガキ仲間とエロ本捜索でもしてろ」


 などと言いつつも、無理やり追い返すことはせずに、こちらの質問にそこそこ答えてくれるその姿がどこか楽しそうだったからなんじゃないかと思う。


 そんなことを本人に言ったらきっと「アホンダラ。下らねえこと考えてねえでおべんきょでもしてろ」なんて言葉が返ってくるに違いないが、そう間違った見立てでは無いと思う。


 椿は小原に様々なことを教えてくれた。その大半は椿自身の武勇伝(概ね誰かを犠牲にして自分が成功したというろくでもない話)と、旅先で起きた、記憶に残る体験談だった。小原は前者を右から左に聞き流し、後者によく耳を傾けていたのだが、ある日、椿は珍しくこんなことを語り出したのだ。


「なぁ、クソガキ。お前、好きな子っているか?」


 何でまたそんなことを聞くんだ。当時の小原はそんな反論をしたような気がする。実のところこのころ小原と言えば、この島に住んでいた蛭子えびす紅葉くれはに何となく心惹かれていた(その心の八割がたは、このころ既に立派なサイズへと成長を遂げていた彼女の胸に向けられていたと思われる)頃合いだったのだが、そんなことを話すのはどうもこっぱずかしくて、曖昧に誤魔化したのだ。


 そんな反応を見た椿はぐわっはっはっはっと笑い、


「まあ、どっちでもいいがな。だがな、風介ふうすけ。もしお前にこの人だという相手を見つけたのならな。その子の気を引くために、虫けらを持って追っかけ回す小学生みたいな真似をしちゃいかんぞ」


 そんなことしないって。その時の小原はそう答えた。ような気がする。椿は滅多に見ないような柔らかい表情を浮かべ、


「そうか。それならいい。だがな、風介。覚えておくといい。男というのは何とも弱い生き物だ。いくつになっても気になる女の前では冷静になれないものなんだ。だがな、風介。どんなに冷静になれなくても、これけは忘れるな。女の前で、年甲斐もなくカッコつけらるのもまた、男だけなんだ。そのことをきちんと肝に銘じるんだ。分かったな」


 そう言いきって小原の頭を撫でる。その手は大きくて、とてもごつごつしていて、それでも優しさが籠っていた。


 それからも小原は椿の元を訪ねた。そのことを知った紅葉くれはには、


「やめといたほうがいいよ。変な菌が伝染りそうだし」


 と本気の心配をされたりもしたが、それでも小屋へ行くのをやめなかった。そんな二人の友情のような関係は、小原家が島から本州へと引っ越すことが決定するまで続いていた。


 その間、椿は相変わらずろくでもない武勇伝を中心に、様々な話をしてくれた。ただ、小原のことを下の名前で「風介」と呼んだのは、あの日が最初で最後だった。


 あれから既に十年近い時が経った。小学生だった小原は、少なくとも身体だけは順調に育ち、この島にはもう訪れることはない。そのはずだった。


 だが、人間の運命というのは分からないものだ。十年以上も経ち。当時の同級生はもう居ないこの島に、もう一度足を踏み入れることなど、小原は想像もしていなかったのだから。


 桜生島さくらおじま。時が止まったような穏やかさを堅持するこの島で、”二人”の止まった時が、今、ゆっくりと動き出す。

 

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