24 一方その頃。【リリスSIDE】

「──只今戻りましたわ」


 レックスが国王に定期報告するために城に戻っている間、リリスも父親から「話があるから家に戻っておいで」と手紙をもらっていた。父親が見栄を張り、無駄に広大に立てられた屋敷へ重い足取りで踏み入れる。

 

「お帰りなさいませリリス様。クラム様は既にご自分の私室でお待ちしております」


 屋敷に入ると、長年ミルファイア家で執事長を努めているデビンがさっとリリスの前に現れた。リリスは自分がいなくなった少しの間に屋敷の雰囲気が変わったことを肌で感じ取り息を呑む。そしてデビンの全身を観察した。


「デビン貴方……少し、痩せたかしら? なんだか顔色が悪いわ」

「何をおっしゃいますか。そんなことはありませんよ」


 ニッと笑ったデビンの歯が二・三本抜けている。デビンといい、屋敷直属の従者達のいつも以上に無表情な顔といい、やはりどこかおかしかった。いつもより薄暗いというか、気味が悪いというか。

 ──この違和感は、何なのかしら……。

 するとリリスの肩にいたサラマが身体を振るわせる。


『おいリリス。お前ん家、なにかおかしいぞ。いつもこんな感じなのか?』

「いいえ。いつもはもう少し明るいわよ。わたくしでさえ、自宅だというのに鳥肌が立ってきましたわ」

『……逃げるか?』

「いえ、お父様が心配です」


 リリスはきゅっと唇を締めて、前に進んだ。二階へ続く中央階段を恐る恐る歩いて行く。しかしその途中で──。


「……お嬢様、お逃げくださいぃ……」

「!?」


 本当に、虫の羽音のような声だった。リリスはすぐに振り向く。しかし従者達は誰も顔をあげてはいなかった。目が合ったデビンがもう一度リリスを見上げて微笑む。それを見ると何も言葉が出ず、前をむき直した。

 手が、無意識に震える。足が、逃げろと叫んでいる。でも。それでも。


「……サラマ。もし私に何かあれば、貴方だけでも逃げなさい」

『!? 何言ってるんだよリリス!? これは明らかにおかしいだろ! 逃げよう!』

「いいえ。私はお父様を見捨てられない……」


 サラマがリリスの髪を必死に引っ張るが、リリスはそれでも父クラムの部屋へと歩んでいく。やっと辿り着いたドアがいつもの二倍は大きく見えた。このドアノブを捻るリリスの手は、幼い頃から震えっぱなしだ。ノックをして、部屋のドアを開ける。


「お父様……?」

「──何故だ、何故、陛下はあのヘイトリッドにばかり目を向けていらっしゃるのだ……!!」

「っ、」


 ガラスの割れる鋭い音がリリスの鼓膜をまず襲った。次にぶつぶつと呪文のような呟きがリリスの背筋を撫でる。ゾッとした。リリスの父クラムは何度も何度も自室のテーブルを叩いていた。その手が血だらけになっているというのに。

 狂ってる。そんなサラマの声が聞こえる。


「お、お父様。只今、リリスが戻りました……」

「!!」


 クラムの目玉がぐるんとリリスに向かった。そして頬が裂けんばかりの笑みを咲かせるとクラムはリリスを力強く抱きしめる。


「あぁ、リリス。お帰りなさい。すまないね、呼び出してしまって。学校はどうだい? レックス様とは上手くやっているかね?」

「は、はい。何事もなく過ごしております」

「そうかそうか。それはとてもいいことだ」


 そう微笑んでリリスの頭を優しく撫でるクラムは理想の父親であり、エボルシオン王国四天大臣の一人に相応しい人格者に見える。しかしリリスの震えは止まらない。クラムの唇がリリスの耳に寄せられた。


「それで──悪魔召喚は上手くいったのかい?」

「っ、い、いえ。悪魔召喚は……行っておりません」

「おや? どういうことかな? つまりリリスは私の言うことを無視した、というわけかい?」

「そ、そのようなことはありません!!」


 クラムの声に闇が含まれる。リリスはすぐに弁解するためにサラマを手のひらに乗せ、掲げた。


「見てくださいなお父様! 私、ついに妖精と契約できたんですの!! だから悪魔も魔物の血もこのリリスにはもう必要ないのです! 私はこのサラマと立派な王妃になってみせますわ! だから、だから……お母様が生きていたあの頃のお父様にどうか……」

『リリス……』


 だんだんと小さくなるリリスの声。サラマはキッとクラムを睨み付ける。クラムはそんなサラマをジロリと眺め──心の底から嬉しそうに相好を崩す。


「──よくやったねリリス。妖精と契約できたのか」

「! え、えぇ! そうなのよ! だ、だからもう、お父様も安心して──」

「うん、を持ってくるなんて偉いな。お前を落ちこぼれなんて言ったことは悪かったよ。さぁリリス、こちらにおいで。その妖精を生け贄にさらに強い悪魔を召喚してみせよう。そしてあのヘイトリッドの子供よりも強力な力を──!」

「え、」


 リリスは耳を疑った。思わずサラマを庇うように腕で覆う。

 クラムはそんなリリスにこてんと首を傾げた。


「リリス? どうしたんだい? 儀式はちゃんと父さんがやってあげるよ」

「お、お父様。あ、悪魔を召喚するということは私をレックス様の婚約者に選んでくださったアレス国王を裏切る行いですわ。──それにあの子と約束しましたの。もう私は悪魔にも魔物の血にも、危険なことには触れないって……」


 リリスの脳裏に浮かぶあどけない笑顔。こんな状況だというのにそれを思い出すだけで、リリスの腕の震えが止まる。


 ──不思議ね。頭に花が咲いてそうなあの子の顔を思い出すだけで、今まで散々湧かなかった勇気が嘘みたいに溢れてくる。


 リリスはクラムの瞳を真っ直ぐ射貫いた。ぐぐっと拳を強く握りしめ、俯かない。


「今まで言えなかったことを、今この場ではっきり申し上げますわお父様! お父様は間違っています! 私はお父様が何をおっしゃろうと、絶対に悪魔なんかに手を出しませんわ! もう私は貴女のいいなり人形なんかでもない! 自分の意思で、自分の力で、未来を切り開いてみせます!」


 その力強い言葉を全力で父に投げつけたリリスは若干息を弾ませながら踵を返す。サラマが「よくやった」とリリスの周りで踊った。大きな達成感と共にリリスはクラムの部屋を出る。


 ──が。


「りぃ~りぃ~すぅ~」

「っ、なっ!?」


 リリスが部屋を出る直前に、黒い布のようなものがリリスの身体に巻き付いたのだ。サラマがすぐにその黒い物体を燃やそうとするが燃やせない。そしてそのままサラマまでもその〝黒〟に襲われる。


「安心しなさいリリス。お前がそう言うかもしれないと思って、

「──っ!?」


 リリスはズルズルと何かに引きずられながら、必死に手を伸ばす。

 部屋のドアからどんどん遠ざかり、闇に全身が包まれていった。

 視界が黒に染まっていく恐怖はとてつもないものだ。

 

 ──怖いこわいこわいこわいこわいこわいいぃいいいぃぃぃぃぃいいいいい!!!!


 勿論リリスの手が何かを掴むことはない。

 そのままクラムの部屋のドアが静かに閉まる。


 ──まるで、何事もなかったかのように。

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