第50回

 木製の棚には数えきれないほどの人形がいた。人型のもの。動物に近いもの。原形を保っている人形もあるが、多くは手足、あるいは頭部が欠損し、虚ろな内部の空洞を晒していた。

 しかしどの人形の貌にも、恐怖や苦しみの表情はない。一様に安らかな笑みを泛べたままで、その一帯だけ時間が止まってしまったかのように静かだった。

「これ――」私の視線は一体の人形に吸い寄せられた。「ラナーク」

 兎の耳が引きちぎれ、片手を欠いているが、それは確かにラナークだった。人形の国の案内役、デイジーの側近だった彼もまた、傷まみれになって転がっている。

「ようこそ」部屋の奥から、落ち着き払った声がした。「ここが人形の国の魔法の源――人形のアトリエ」

 女王デイジーその人だった。黒の夜会服めいたドレスに身を包み、私たち三人を見渡している。人形展の案内人として、Glass Wildernessで、人形館のダンスホールでカーテン越しに、そしてグリフィンの記憶のなか――そして今。人形の国の支配者との最後の戦いに、私たちは遂にして辿り着いたのだ。

「あなたがここまでやって来てくれるとは思わなかった」

 私はポケットから招待状を引っ張り出し、突き立てた。

「招待したのはあなたでしょう? あなたが期待していたのとは違う形だったんでしょうけど」

「まあ、ね。でも関係ない。あなたはここで、私のものになるのだから。招待状をこちらへ」

 デイジーがするりと手を差し出してくる。その芝居がかった仕種に、ぱっと怒りが爆ぜた。私はその掌に招待状を押し付け、

「こんな紙切れ、欲しければ――くれてやる」

 デイジーが唇の端を歪めた。

「可愛い。こんなに愉しませてくれるなんて――やはり私の見込んだとおり、あなたは最上の人形になってくれそう」

 私はデイジーから距離を取り、その顔を睨み上げて、

「私はあなたに魅入られるほど弱くない。そう言ったはずです。祖父もきっと、あなたのお母さんに同じことを言ったのだと、今なら確信できる。私は、みんなと共にあなたと戦います」

 デイジーは含み笑いをし、

「母さんは最高の人形作家だったけれど、最高の魔法使いではなかった。あの人の敗因はそれだけ。私は違う。黒い月の力を、完全に我がものに出来る。あなたに、見せてあげる」

 彼女が指を鳴らすと、頭上の仕掛けが作動しはじめた。天井が左右にずれて引っ込み、代わり、巨大な天窓が現れたのである。

 見上げれば、月――九割がた影に覆われ、もはや、皆既月蝕は間近だ。

 デイジーの軀が色濃さを増し、やがて闇色となった。揺らぎ、やがて炎が高々と燃え上がるかのごとく膨張した。影絵が踊りながら形を変えていくような優雅さで、デイジーの姿が変異していく。

 彼女の真っ白い貌からは表情が失せ、いつの間にか目許は黒い布で覆い隠されている。飾り袖と一体化した長い両手は、先端に向かうにつれて広がり、翼のように見える。極端に絞られた腰と、急速に広がったスカート。

 肩越しに、武器の一部が覗いていた。長さは様々で、ぱっと見ただけでも刀、槍、鎌から、棘棍棒、チェインソーまで揃っている。初め背負っているものと思ったのだが、実際は彼女の背中に光の輪が泛んでいて、その内側に収まっているのだと判った。

 幼いころに怖くてたまらなかった絵本の悪夢が甦ったのかと思い込みかけた。魔女――私たちが対峙しているのは、夢の世界の魔女なのだ。

 気がつくとアトリエは消えている。周囲はただ、黒々たる闇に閉ざされている。

 最初に動いたのはシャドウェルだった。人差指を突き立て、紫色の炎を放射する。

 デイジーが両腕の飾り袖を、扇のように振るう。炎を躱そうとしての動作なのかと思ったが、そうではなかった。彼女の袖先からまた別の影が飛び出してきて、見る見るうちに人形の姿になった。デイジーが軀の真正面で、マリオネットを操っているような格好だ。

 マリオネットが両手両足を大きく広げ、デイジーの盾になった。シャドウェルの炎を真っ向から受け、悲鳴とも笑い声ともつかない声を上げる。マリオネットは瞬く間に塵のような粒子と化して、消えた。

 残った煙を切り裂くように、ポーリーが鋏を構えて突進する。マリオネットが消滅した直後の、がら空きになったデイジーの胴体を狙って、鋏を槍のように突き出した。

 と、デイジーの腕からにょきにょきと新たなマリオネットが生じた。今度は二体。一体が鋏をがっちりと受け止め、捻り上げた。そのあいだにもう一体が、彼女の脇腹に向けて鋭い攻撃を仕掛ける。

 しかし軀を傾けたままのポーリーは、そのままの姿勢で足を高々と蹴り上げていた。マリオネットの腕と彼女の脚がぶつかり、鈍い音がする。その反動でポーリーは大きく飛び下がると、再び鋏を構え直した。

 シャドウェルが毬のように跳ね、高速でデイジーの側面に廻った。ぽ、と吹き出した火を両手でお手玉のように操りながら、連続で投げつける。

 デイジーのマリオネットは愕くべき速さで反応した。本体を守るようにその軌道上に立ち塞がり、すべての火の玉を弾き返したのだ。

 シャドウェルはすんでのところで身を躱して直撃を避けたが、足許で起きた火の玉の爆発に巻き込まれ、後ろざまに転倒した。バウンドして体勢を立て直そうとした、その一瞬を狙って、デイジーが背中から引き抜いた棘棍棒を振るう。

 ポーリーがあいだに身を辷り込ませ、鋏で棍棒を受け止めた。しかし力に差がありすぎたようで、鋏はかちん、と音を上げて弾き落とされてしまった。ポーリーの軀も宙を舞い、壁に叩きつけられる。

 デイジーがもう片方の腕を優雅に動かした。途端、彼女の腕の先から黒々とした球体が出現し、凄まじい速さでシャドウェルを襲った。

 落雷のような轟音。シャドウェルは咽が張り裂けんばかりの悲鳴を上げ、倒れ伏した。

 そのあいだにマリオネットたちが独立して動き、落ちたポーリーの鋏を拾い上げて、デイジーの元へと運んでいた。ポーリーが持っているうちは巨大に見えたそれを、デイジーは玩具のように弄んで、

「悪くない鋏。せっかくだから、ふたりともこれで切り裂いてあげる。裏切り者の人形には、お仕置きをしなくちゃね」

 鋏が、倒れたシャドウェルに向けられる。大きく広がった刃が、彼の首元を狙い、ぎらぎらと鈍い輝きを放った。

 巨大な揺れが起き、デイジーの動きが一瞬、停止した。私たちを取り囲んでいたはずの闇も失せ、アトリエの光景が戻ってきている。

「なにが――」

 私が発したのと同時に、アトリエの窓が打ち破られた。巨大な、薄紫の鱗を光らせた蛇が、部屋のなかへと躍り込んでくる。

(待たせたな)

 低く、重々しい声が脳裡に響く。

 ドロテア? 

 そう名を呼ぼうとして、はっとする。さっきの呼びかけは、蛇の言葉だった。

(おまえにはもう感覚が戻っている。一時はどうなったかと思ったが)

「忌まわしい蛇――誰の許可を得てここへ」

 デイジーの声が詰問する――と同時に、再びアトリエが消え、周囲に闇が戻った。

「互いの領域を侵さない――しかし緊急時はその限りではない。そう、おまえの人形が私に言っていたぞ。もっとも、いまのおまえは女王として敬意を払うに値しない。この私が約束を守ってやる相手ではないがな」

 言うと、ドロテアが白い膚をした女性の姿に変じ、私たちとデイジーのあいだに立った。

(あの――無事だったんですね)

 私が戻ったばかりの蛇の言葉で早口に語りかけると、

(当然だ。そう簡単に奴らに食われはしないさ。といっても、奴らの罠を掻い潜れたのはこいつのおかげもあるが)

 ドロテアの頭髪の蛇が動いて、隙間から小さな人形が現れた。腰のあたりを蛇の胴体で縛り上げられているが、確かにそれは――。

「ハーヴェイ? ハーカウェイ?」

「どっちでもあってどっちでもない。まだ慣れないんだ、ひとつの魂に戻るのってさ。この蛇は最高に嫌いだけど、あんたなら助けてやってもいい。だからちょっとね、城のことを教えてやっただけだよ」

「おまえ――」とかつての自分の人形を睨みながら、デイジーが唇を震わせる。

「おっとっと。私たちはもうデイジーの人形じゃないからね。自分で所有権を放棄したんじゃん。忘れた? 今は誰のなんだろ、蛇だったら滅茶苦茶やだな」

「そんなことはどうでもいい。さて、デイジー、遊びとやらを再開しよう。私を闖入者と見做すなら――そう、デイジー、おまえには手出ししないでおいてやろう。だが」

 ドロテアの頭髪の蛇が鞭のように伸び、デイジーの脇腹のあたりに深々と食い込んだ。手出ししないと言ったばかりではないのか、と思ったが、異変はその直後に起きた。元の姿のデイジー、黒羽雛菊の形をした影が、そこから引きずり出されたのだ。

「女王のもうひとつの人格。ヴィトリオールと言ったか、こいつがいる限り、奴の手駒は無限に増殖する。こいつの相手を私がしてやろう。あとはおまえたちで片を付けろ」

 ドロテアがヴィトリオールを強く引き寄せ、そのままふたりの姿が闇の向こうへと消えた――。

(呪いは、おまえにしか解けない。そちらは任せたぞ)

 ポーリーが再び立ち上がり、デイジーの前に立ちはだかった。

「またドロテアに助けられちゃった。格好悪いなあ。でも勝った者が勝ちだからね。格好悪かろうが、醜かろうが、関係ない。私たちがこのゲームに勝つ」

 デイジーは返事をしなかった。手にしたポーリーの鋏をじゃきん、じゃきん、と片手で打ち鳴らし、もう片方の手にはチェインソーを握って、ポーリーに向けて突進してきた。

 身を逃がすポーリーの動きは鮮やかだった。まずはチェインソーの刃を屈んで躱すと、その反動で飛びあがり、鋏の両の刃のあいだを抜ける。一瞬遅れて鋏が閉じられると、そこへ向け急降下し、持ち手の輪を強く蹴り上げた。

 鋏が回転しながら宙を舞い――ポーリーもまたいつもの、鋏を取り出すときに見せる一回転をした。彼女が動きを止めたとき、愛用の鋏は、すでにポーリーの手中にあった。

 そこから跳躍――ポーリーの斬撃を、デイジーが自分のチェインソーで弾き返す。

 マリオネットによる盾が無くなったのだ。

 シャドウェルが私の元へ這ってきた。抱き起すと、彼は私の耳元で、

「奴の呪いは……人形には解けない。俺たちが隙を作る。そこを狙ってくれ」

「ドロテアもそう言ってた。でも――どうすればいいか判らない」

 シャドウェルはふ、と声を洩らして、

「俺にもポーリーにも、蛇の女王にも判ってはいないだろう。ただ呪いを解くのは君だという、確信めいた予感があるだけだ。ただそれだけを信じて、俺たちはここまで来た。君ならば成し遂げるさ、心配するな。自分自身に従え」

 こういうとき、どうしただろう。この人形の国に来てから、奇蹟と呼べることはきっと何度も起きた。そのうち、私自身の力で起こしたものといえば、ひとつだ。

 妖精の射手。

 妖精の的を撃ち落としたときのことを思い出す。直感――私は、突然降ってきたような感覚に身を任せたのだ。

 ポケットにはまだ、あのとき貰ったパチンコが入っている。そして、金と銀の妖精の的を一度に落としたことで余った、ただ一発の弾。

「判った。やるよ。私がやる」

「よし。作れる隙はまあ一瞬だろうが、俺たちはそこにすべてを賭ける。初めて会ったときのことを覚えているか? 俺はまだ幽霊だった。幽霊が人間の軀に触れるとどうなるか、君は体感しているよな。デイジーも人間だ、あれがおそらく効く」

 私ははっとしたが、同時に、幽霊だった頃の彼とのやり取りを、はっきりと覚えてもいた。


 ……「もうひとつ質問。幽霊は生者の領域に踏み込むことができない――つまりこの墓場から出られない。そうだよね? なぜ?」

「単純に軀がないからだ。幽霊の状態で墓場から出ると完全に消滅してしまう」……


「大丈夫だ」シャドウェルは落ち着き払った声で言った。「なにも恐れることはない」

「でも――」

「俺は道化師だぞ。魔術を見せるさ。必ず君を笑わせる。約束する」

 私はシャドウェルの頬に手を当てた。道化師の、滑稽なメイク。眉のうえから眼を通り、頬へと伝う紫色のライン。まるで、泪を流しているかのような。

「消えたりしないよね?」

「当たり前だ。持ち主が信じてくれる限り、人形は消えない。ずっと傍にいる。とっくに幽霊になり果てていた俺を、墓場から引っ張り出しさえした君が、この俺を信じない、なんてことがあるか?」

 私は黙ってかぶりを振った。彼のお腹に、顔を埋めた。

 ポーリーの鋏が、デイジーのチェインソーと噛み合い、両者が一瞬、動きを止める。

「今だ」

 ポーリーが叫ぶ。その声を合図に、シャドウェルの丸い軀から、すっと幽霊が抜け出した。一直線に、しかし見る見るうちに小さく萎みながら、デイジーの元へと向かっていく。

 ポーリーが弾き飛ばされた。しかしその一瞬、僅かに姿勢を崩したデイジーの胸元に、小指ほどの大きさになったシャドウェルが飛び込んでいた。

 同時に、私はパチンコを引き絞っている。蛇の感覚が目覚め、私の意識が――私の認識する世界が鮮明さを増した。

 私には見えている。デイジーの、あの眼。布の下に隠れた、爛爛たる赤に縁どられた瞳孔の、深く孔が穿たれたようなあの黒さが。

 共に戦ってくれた人の貌が、次々と泛ぶ。緋色。未散さん。彰仁くん。マスター。キャロル。ドロテア。グリフィン。ポーリー。シャドウェル。

 そして取り戻すべき人の貌も。プリシラ。そして佳音。

 指先に確信が宿った。私は、たった一発の弾丸を放った。 

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