第43回

     ●


 意識が焦点を結んだ。背中からお尻にかけて伝わる硬い壁の感触にはっとし、眼を開いた途端、シャドウェルの逆さ頭が目の前に生じた。

「お戻りのようだ。向こう側の結界は解けたんだな」

「結界自体はね。向こう側のデイジーにまた会った。最後のゲームだって啖呵切って来ちゃった」

「それでこそ我らの主だ」

 顔が引っ込んだ。私が立ち上がると、ポーリーが手際よく服の乱れを直してくれながら、

「それでこそ我らの主だ」と、くすくす笑い交じりに繰り返す。

「俺は本気で言っているんだぞ」

「判ってるってば。ただ語感がちょっと気に入っただけ」

 私たちは前進を再開した。蛇の感覚が警告を発したあの階段を上る。感覚は未だ戻らないままだ。人間の五感を駆使して、壁に手を突き、足の裏側で足元を弄るようにしながら、一歩ずつ。

 冷たい金属製の扉に行き当たった。ノブを廻したが開かない。ポーリーとシャドウェルが一緒になって体重をかけたが、がたがたと鈍い音を立てるのみ。デイジーと人形たちはどうやって通っているのかと考え、ようやく双子の片割れから手に入れた鍵束の存在に思い至った。闇のなか手探りに、一本ずつ差し込んでは廻しつづけると、三本目で手応えがあった。

 三人で外へ出た――明るさからそう錯覚しかけたが、実際のところ私たちが辿り着いたのは建物の、すなわちデイジーの城のなかである。出てきた扉を閉じてみれば途端に壁と一体化し、その痕跡さえも見えなくなった。

 この国の他の建物と同じく、人形の国様式としか言いようのない作りだ。西洋風の、城のドールハウス、と思えばそう見えなくもないのだが、極端なデフォルメがそこかしこ施されていて、私の眼には奇怪に映る。しかもそれが、少女向けに可愛らしさや判りやすさを誇張した感じではなく、子供が見る悪い夢に出てきそうなパーツを継ぎ接ぎして拵えたような歪さを湛えているのである。

 エントランスホールと思しきだだっ広い空間。頭上には人間の世界のものと同じ人形の結界が、シャンデリアのように吊られている。ただしすべての視線は私たちと無関係のほうを向き、結界としての機能が停止しているのは明らかだった。

 私たちはそろそろと足を進め、結界の下をすり抜けるようにしてホールを突っ切った。絨毯の敷かれた階段を上がり、二階奥の部屋へと進む。

「ようこそ。あなたを待っていました」

 扉をくぐった途端、麗しいボーイソプラノがそう言った。相手の姿は……見えない。相当に広い部屋のはずだが、等間隔に配置された飾り柱のせいか圧迫感がある。石ブロックが剥き出しになった壁には蝋燭が備え付けられて、床にぼんやりとした灯りを投げかけている。

 柱の背後から、するりと小振りな影が覗いた。なにかの悪戯か、そちらに注意を払おうとすると隠れて、気配を消してしまう。どうやって隠れおおせているのかは判然としない。妖精か、座敷童の類だとでも言うのだろうか。

 いい加減に焦れてきたころになってようやく、

「いえ、いえ、いえ――。久しぶりにお会いしたのでね、僕も嬉しくなってしまいました。あなたとの遊びは本当に素敵ですよ、長壁伊月さん。いえ、こうお呼びしたほうがいいのかな――妖精の射手のイズ」

 今度こそ柱の影から人形が姿を現した。丸く大きな瞳に、きちんと切り揃えられた栗色の髪。僅かに赤みが差した頬。学校の制服と思しいブレザーを着て、ネクタイを締めた少年の人形――。

「あなたは――」

「思えばきちんと自己紹介もしませんでしたね。僕はトビアス。人形楽団の指揮者が本業ですが、あのときあなたたちはプリシラに夢中だったから、僕のことは覚えていらっしゃらないでしょう。むろんそれはそれで、団長としては誇らしい。プリシラに惹かれてくれたからこそ、あなたのご友人に契約を交わさせることが出来たわけですから。でもどうしても僕自身、一度あなたと遊んでみたくて、こっそり接触させてもらいました。その際の記憶のほうが、おそらく鮮明でしょうね」

 そう、私を「妖精の射手」のゲームに誘い、共に遊覧船に乗り、墜落以降は離れ離れになったきりだった、あの少年の人形がそこにいた。

「あなたはなかなか、僕らの思い通りにはなってくれない。グリフィンと対決せざるを得ない状況に放り込んでみても、小賢しいメッセージで戦いを避けようとする。素直に殺してくれると楽観していたわけではないですが、あれには少々がっかりでした。グリフィンの奴にあなたを奪われてしまっては困るので、やむなく船を墜落させました。アルマには少し、悪いことをしたかな」

「船を落としたのは、あなた……」

「そう。人形たちはみな、グリフィンの仕業と思っているでしょうが。グリフィンにも僕がやったというところまでは見抜けなかったでしょう。それは当然です」

 トビアスはかたかたかた、と口を打ち鳴らすような、例の笑い方をした。

「まあ、さんざん面倒をかけてくれたグリフィンも、今や僕らの手のなかだ。可愛がり甲斐がありますよ、奴はね」

「グリフィンが……」

「僕の手にかかればね。さらに申し添えておくと、あなたとドロテアの接触も僕の想定内でした。あの忌々しい蛇もね、人形の国には邪魔な存在です。いつまでも穴蔵に籠っていられたのでは僕らにも手出しが難しいんですが、引きずり出せればこっちのものだ。邪神だという癖に人間に力添えしようなんて、莫迦げているにも程がある。醜い愚かな蛇にお似合いの地獄を、僕らは用意しています。蛇も鳥も、思うままに料理してやれる」

 トビアスはこつん、こつんと靴音を鳴らした。

「誤算だったのはデイジーの判断です。いくらお気に入りとはいえ、双子では頭が足りなすぎる。なぜ奴らにあなたの相手が務まると思ったのか、いまだに理解に苦しみますね。あなたがグリフィンの手で人形館から連れ出されたと知ったときの、僕の気持ちが判りますか? 最初からすべて僕にやらせれば、あんなミスは犯さない。まあ、あなたがグリフィンの最大最高の申し出を自ら断ってくれたので、けっきょく計画に支障はなかったわけですがね」

「あなたの計画ってなんなの。そこまでして私を人形にしたいの?」

 相手の語りに耳を傾けながら、私は必死で蛇の感覚をこじ開けようとしていた。頭が割れそうに痛み、視界が歪んだが、どうにかしてドロテアに伝えなければならない。しかし傷ついた白蛇は力なく眠ったままで、私の呼びかけにまるで応えてくれなかった。

「この期に及んで自分の価値を認識しようとしないとは、謙遜も度を越すと嫌味にしか聞こえませんよ。あなたこそ僕らの主デイジーが、長年欲しつづけた究極の一体なのですから」

 トビアスは私を見据え、

「そろそろ遊びを始めましょうか。あなたの軀に傷を付けるわけにはいかないのでね、しもべ人形どうしのゲームと行きましょう。お互いの手駒を戦わせて、全滅したほうが負け、という単純なゲームです」

 ポーリーとシャドウェルが、なにも言わずに前に進み出た。

 トビアスは満足げに笑みを泛べ、指を鳴らした。

私たちの向かい側にある壁の、大きな二枚扉がゆっくりと開いた。

 奥の暗がりから現れたのは、人形……と瞬時に認識できなかった。ただの怪物だ、人の顔や手足を継ぎ接ぎした。

 全体のフォルムとしては獣人――牛馬と人間を合成したケンタウロスのような姿なのだが、胴体から左右に突き出した足の数がめったやたらに多いせいで、下半身は蟲のように見える。ざわざわとした蠢き、這い回るような歩き方もまた獣というよりは蟲に似て、私は総毛立った。よくよく観察すればその足は、人の手足をむりやり引き伸ばした形をしていた。

 上半身はまだしも人に近いが、辛うじて認識できた頭部からそう印象付けたにすぎなかったのかもしれない。じじつまるで血の気のない顔は、人のものとは掛け離れていた。大部分が大量の眼球で覆われ、遠目には水泡にまみれたようになっているのだ。

 やはり白い膚の色を晒している肩からも脇腹からも、無数の手が生えていて、おいでおいでをするように揺れている。その動作だけが妙に人間的で、とくべつ私には恐ろしかった。

「ネエ、アソボウヨ」

 ぎしぎしと機械が軋むような音がして、それから獣の鳴き声じみた声が響いた。

 ねえ、遊ぼうよ。頭の中でそう、言葉が意味を結んだとき、私は戦慄した。

 人形の声なのだ。数えきれないほどの音が折り重なり、潰れて、半ばノイズと化しかけていたけれど、それはばらばらに裁断されて怪物のパーツと化した、人形たちの声に他ならなかった。

「素晴らしい。どうですか、このしもべ人形は。これぞ人形修理者ヴィトリオールの技術の結晶です。あなたたちの相手をさせるに相応しい、最高のしもべだ」

 ひとりでに後ずさろうとした脚を、むりやりその場に縛りつけた。退いたら間違いなく転倒して、二度と立ち上がれなかったろうと思う。

 トビアスが再び指を鳴らした。近くの柱の影から巨大な鎖が生き物のように伸びてきて、私の手足を拘束する。

 彼はほくそ笑みながら、

「あなたには温和しく鑑賞していて貰わなくてはね。僕は常に、静かで物分かりのいい観客が好きなんですよ。ゲームでも、音楽でも」

「トビアス、あなたの音楽は素敵だった。私たちを人形の側へ引き入れるために奏でた音楽だったとしても、あなたの音楽への敬意は消えない。でも今、この可哀相な人形を操るあなたを、私は許さない」

「可哀相? 所有者でもない人間が、勝手な感情を押し付けないでいただきたい。あなたにもお判りのはずだ。この国の人形はすべて、所有者の幸福のためだけに存在するのです。僕らの主デイジーが、あなたという最高の人形を手に入れる助けになれる。それは僕らの最大の名誉であり幸せです。誰がどう言おうともね、ヴィトリオールにとっても、僕にとっても、芸術は常に、主人を幸せにする手段でなくてはならないんだ」

 トビアスはいつの間にか指揮棒を手にしていた。その先端が上下する。優雅に。

「さあ、生贄の人形を寄越すがいい。僕らの最高の芸術を見せてやる」

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