第42回

 二度目の訪問だったから――と言っていいのだろうか、私たちは迷わずにあの店の前にやってくることが出来た。一度目のときは少し風変わりな民家、としか思っていなかった建物が、いまは不穏な空気を纏っている。

 私は黒い扉に手をかけた。力を込めて押し開ける。ベルがりんと高い音を立てた。

「確かに……吊られた人形の結界、だな」

 天井から吊り下げられた人形たちを眺め渡しながら、彰仁くんが発する。

「悪趣味」

 と素気なく緋色。そういえばオカルト全般が苦手な疑惑があるのだった。彼女は表情を険しくして私を振り返り、

「伊月は入り口に立って、人形がどういう状態になればいいか見てて。私たち三人で動かすから」

「どうやって。ジャンプしたら届くかもしれないけど危険だ。肩車でもするか?」

 腰をかがめた彰仁くんに向かい、緋色は呆れ口調で、

「私が未散さんを肩車する。あんたも一緒に見てて」

 キャロルは私が受け取った。緋色が危なげなく未散さんを持ち上げる。

「どうかな……届きそうですか」

「頑張ればなんとか。ごめんね、重くない?」

「ぜんぜん重くないです。早く片付けて帰りましょう」

 未散さんが近くにいた人形に手を伸ばし、回転させる。私から見ると完全に顔を背けた状態になった。

「ばっちりです」

 未散さんを見上げながら言うと、彼女はこちらにピースサインを送ってくれた。

 ふたりが手際よく人形の視線を逸らしていく。店内の薄闇に泛んでいる眼が、ひとつ、またひとつと見えなくなっていくたび、私は昂揚した。これで結界が解除される。

 ほぼ店を一周し、まだこちらを見ている人形が残り数体となったとき、彰仁くんが慌てたように声をあげた。

「待て。元に戻ってる。五番目と十二番目が、またこっちを向いてる」

「え? 五番目……ってどれ?」

 彰仁くんの指差した先にいる人形を注視する。確かにこっちを向いているが、私にはすでに動かしたものなのかは判らない。というより、順番まで記憶しているほうがちょっと異常なのでは、と思ってしまった――申し訳ないことに。

 肩車のコンビがその人形に近づいた。未散さんは手を触れて、

「うん。これ、動かした覚えがあるよ。そこからじゃ見えないと思うけど、肩のところに変わった模様があるの」

「やっぱりか。最後に動かした人形を一度こっちに向けてください。俺の思った通りなら、それで五番目と十二番目がまた別の方向を向くはずです」

 彰仁くんの言った通りになった。彼の示してくれた三体をじっと観察していると、一体が正面を向くのと同時に、残りの二体がそれぞれ別の方向に顔を背けたのだ。

 再びこちらを向いた人形と眼が合う。心なしか、私たちを嘲笑っているように見えた。

「正しい順番で動かさないと駄目ってことか。結界の存在に気づき、かつその記憶を持ったままこっち側へ来ることが出来ても、パズルを解けないと解除されない。かなり厳重な守りだな」

 彼は軽く俯き、しばらく黙考していたが、やがて顔を上げて、

「まずはすべての人形を最初の状態に戻して、それから俺の言う通りに動かしてください。どこがどう連動してるのかを見たい」

 あの赤い人形を右に、次はその対角線上にあるものを左に、いま真上にある二体を同時に反対方向に……といった調子で指示を出しつづけていた彰仁くんだったが、唐突に、

「畜生、これじゃ物理的に解けない。動きのルールが不完全なんだ。なにか別の動き方が導入されない限り、絶対に全部の視線を逸らせるのは無理だ」

 彰仁くんは項垂れていた。こんなにも悔しそうな彼を見るのは初めてだったかもしれない。

 未散さんが地上に降りてきた。緋色も肩を廻しながら歩み寄ってくる。

「くそ、最初から解けないパズルだと。莫迦にしやがって」

 声を荒げた彰仁くんに向かい、緋色が諭すように、

「落ち着きなよ、あんたらしくない。どんなにやばいときでも、あんただけは冷静で、次の手を考えてくれた。ずっとそうしてきたでしょう?」

「判ってる。だけど……ああ畜生。もう少しなんだ」

 彰仁くんは店の椅子に坐り込み、パズルの再検討に入ってしまった。緋色がそれに付き添い、ときどき相槌を打ったり、自分の意見を言ったりしている。

「ねえ伊月ちゃん」

 未散さんが声をかけてきた。

「あたしはパズルとかぜんぜん解けないけど、でも答えがないってことはないと思うの。だって言ってたでしょう、人形たちはみんな遊びが大好きだって。遊び好きだったら、解なしのパズルを出してくるはずがないじゃない?」

 確かにそうだ。人形たちの本分は遊び。そのきわめて重要な領域において、彼らが不正をするとは考えにくい。だとしたら、やはり別のなにかがあるのだ。彰仁くんですら気づいていない、別のルールが――。


 ……まず眼にした、というか正確には膚に触れてぎょっとしたのが、天井から吊り下がった糸だった。ちょうど蜘蛛の巣に引っかかったような感じで、右眼の瞼のあたりを撫でられたのである。

「ひあ」となんだか情けない声を出して、佳音の腕を掴んでしまった。……


 記憶が甦ってきた。このとき佳音に軽く流されてしまったこともあり、たいして重要視していなかったことだ。むろん三人に渡したメモにも書いていない。しかしこれは、もしかすると――。

「みんな聞いて。天井から下がってる糸を捜してみて。眼に見えないくらい細い糸。それが鍵になるかもしれない」

「糸? 人形を吊り下げてるのとは別の?」

 と緋色。

「うん。最初にこの店に来たとき、糸が顔に貼り付いてきて、そのときはただ怖がらせるための仕掛け、くらいにしか思わなかったんだけど――ひょっとしたら」

「糸を引けば、新しい動きをするかもしれないってことか」

 彰仁くんが声を明るくした。

 同時に、ずっと私の腕で静かにしていたキャロルが、ばたばたと身をよじって飛び出した。店のなかをぐるぐる歩き回り、やがて一点で静止して、後足で立ち上がった。鼻先で宙を突き上げるような動作を繰り返している。

 未散さんが慎重にそこへ歩み寄り、まさにキャロルが示そうとしている位置をほっそりした指で手繰りはじめた。すぐさま彼女は表情を変えて、

「ある。あるよ。糸がある」

「引いてみてください」

 未散さんの手がゆっくりと下がる。糸は私たちの眼には映らないから、彼女がパントマイムをしているかのように見える。

 かちり、と低い機械音が響いた――たぶん全員の耳に。それから、きゅるきゅると糸を巻き取るような音。

 人形たちの首が一斉に動いた。機巧仕掛けの玩具のように。

 ずいぶんと時間がかかった気がしたが、実際に動いていたのは数秒に過ぎなかったろう。今やすべての人形たちの視線が、私から外れている。

 これで解除された。だとしたらパズルは目くらましで――ただ一か所の見えないスイッチを見つけ出すゲームだった、ということなのか。

「やられた」

 いつの間にか私の背後にやってきていた彰仁くんの呟きが、私の耳朶を打った。

 彼は扉に手をかけたまま、

「入口をロックされた。さっきの仕掛けと、今度はこっちが連動してたんだ」

 その言葉の後半を掻き消すように、また機械音が生じた。出入り口と反対側の壁に、濃い影のような細い通路が生じているのを、振り返った私たちは見た。

 かつり、かつり、かつり――。

通路の奥の闇からやがて、空気を揺らすように靴音が響いてきた。建物の構造からしてそう長い通路ではあるまいに、靴音は延々と続いて、私たちはそのあいだずっと身を固くしていた。

「デイジーか」

 彰仁くんの問いかけに相手は答えなかった。ただ押し殺したような笑みだけが聞えた。

「よくここまで来たね。もっとも私の人形たちが歓迎しているのは、ひとりきりのようだけど」

 人形展の案内人の姿が薄闇に生じた。人形の国でカーテン越しに邂逅した女王のイメージとは若干異なり、こちら側の彼女はか細く、病的に思えた。変わらず黒尽くめで、ただ顔と両手だけが白く泛びあがっているようだ。

「残念だけど招待状のない者は人形の国へ立ち入れない。人形の国にも意思があってね、欲しい人形と欲しくない人形がいるの。われらが欲しいのは――」

 彼女の手が伸び、ますます伸び、なぜそんなところから届くのかと思えるような位置から私の頤に触れ、口づけのときそうするように、そっと持ち上げた。

「気安く触らないでよ」

 緋色の低い声に、私ははっとする。彼女の右手が案内人の手を掴み、今にも捻り上げようとしていた。いつどちらが間合いを詰めたのか、私にはまったく判らなかった。

「今ここで、あなたをぶちのめして片が付くなら、私は迷わずそうする。冗談じゃなく私には、暴力を振るう用意があるから。佳音とプリシラを返して。伊月を夢から解放して」

 案内人は含み笑いし、ちらりと緋色を見やって、

「あなたの美しさはまあ認めるけれど、少し血の気が多すぎる」

 緋色が反論する前に、案内人はどうやってか、掴まれていたはずの手を引き抜いていた。緋色にもその実感がまるでなかったらしく、面食らった様子で立ち尽くしている。

「無垢すぎるのも、小賢しすぎるのも、人形の国には相応しくない。二度と人形に近づかないと誓うならば、あなたたち三人はこのまま帰してあげてもいい」

 緋色も、キャロルを抱いた未散さんも、彰仁くんも答えなかった。私を囲むように寄り添い、案内人を睨み返したのみ。

 彼女は眼を細めて、嘲るような口調で、

「そう。それならば結構。どちらにしろもう一度、その子は人形の国に戻るつもりでいるんだもの。どうせ奪うなら、魔力の満ち満ちた人形の国で奪ってやったほうがいい。そのほうがより早く、純度の高いままに人形にしてやれる。あなたたちはそう――砕いて、溶かして、なにかの断片と組み合わせれば使えないこともないかな」

 私は一歩前に進み出た。なるたけ声に力を込めて、

「デイジー。私たちと最後のゲームをしましょう。私はあなたの言うとおり、人形の国へ戻ります。私が負けたら、望み通り人形にしてもらって構いません。私の人形なんか、なにが嬉しいんだかぜんぜん判りませんけど、とにかく負けたら黙ってあなたの人形になると約束します」

 へえ、と案内人は吐息交じりに言い、

「人形は遊び好きな者たちばかりだから、むろん断りません。あなたと遊ぶのをみんな楽しみにしてる」

 彼女はそこで言葉を切り、私に言い聞かせるように、

「ところで人形の国の招待客であるあなたなら察しが付くでしょうけど、人形の遊びは双方に条件が必要なの。あなたが勝ったら? あなたはなにを望むの?」

 私は小さく笑った。

「私が勝ったときは、黒い月の呪いがすべて解けているんだから関係ありません。佳音もプリシラもグリフィンも人形たちも、もちろんあなたも救われる。それが私の勝利条件です」

 案内人の顔が迫った。

 あのときと同じように。

「ますますあなたが欲しくなった」

「私たちは負けない」

「どうだか」

 それじゃあ始めましょうか、と案内人は宣言した。

「さあ、お出でなさい、人形の国へ」

 右眼。爛爛たる赤に縁どられた瞳孔は、深く孔が穿たれたように黒い。その闇に引き込まれ、どこまでも深く、淡くなった世界が塗りつぶされていくように、夢のなかへと沈んでいく――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る