第41回

     ○


 掌をぎゅっと握られる感触。薄く眼を開けると、燃えるような色をした頭髪に縁どられた、ひどく懐かしい顔がそこに見えた。ずいぶん長いこと、会っていなかったような気がする――。

「おかえり」

 緋色は彼女らしくない、泣き出しそうな声でそう言って、掌に力を込めてきた。

「ただいま。私、暴れたりしなかった?」

「基本行儀よく寝てたけど、たまに魘されてた。夢のなかで大変な思いをしたんだね。でも帰ってきてくれて、本当に良かった」

「どれくらい、あっちにいたのかな」

「六時間ぐらい。まだ朝早いよ。普段の私なら絶対起きてない時間」

 ゆっくりと身を起こす。傍らにはぬいぐるみのシャドウェルがいた。枕元に戻しておく。

 ベッドから立ち上がると少しだけふらふらした。左の掌で額に触れる。緋色が冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを出し、口を切って渡してくれた。軽く喉を潤すと、ぼんやりと意識に纏わりついていた靄が晴れてきた。

 とたとたとた、と相変わらず不器用そうな歩き方で、キャロルがこちらに近づいてくる。じゃれるように飛びあがり、前脚を私の脛のあたりに引っかける。抱き上げると温和しくなり、口を横に大きく広げてピンク色の舌を垂らした。

「あれっきりもう喋らなかった。吠えもしないで、静かだったよ。でもずっと伊月のことを気にしてるみたいだった」

 緋色がそう私に報告してくれる。口調にどこか愛情のようなものを感じて、私はほっとした。犬への苦手意識が消えたわけでは当然ないのだろうけれど、キャロルならばある程度は大丈夫になってきた様子だ。

「未散さんから連絡はあった?」

「うん。そっちの都合のいい時間に迎えに行ってもいいかって。やっぱりマスターと一緒に出掛けたと思ってたらしくて、すごく慌ててた。喋ったことはとりあえず伏せておいたけど……どうする?」

「未散さんまで巻き込みたくないけど、本当のことを話したほうがいいと思う。スーベニール・ダン・オータ・モンドの人たちには、隠し事は出来ない」

 腕のなかのキャロルを見下ろしてから、続いて緋色にそう告げる。彼女は嬉しそうに笑い、

「そう言ってくれると思った。キャロルが喋ったことは確かに黙ってたけど、どこからどういう風に現れたのって訊かれたからさ、そっちは正直に答えちゃった。いきなり七階のベランダに居たって。それ抜きにしても、キャロルが普通の犬じゃないのは、未散さんもとっくに気づいてると思うよ。スーベニール・ダン・オータ・モンドの人たちはみんな魔法使いで、未散さんも例外じゃない。夢のなかで、そう思わなかった?」

 胸が昂ぶってしまい、一瞬、どう答えていいか迷った。未散さん、シャドウェル、と唇だけで名前をなぞると、視界が潤んだ。けっきょく、ごく単純に、

「思った」

「だったら未散さんにも聞いてもらおう。彰仁もお昼頃に来るっていうから、そのとき一緒に」

 緋色は眼を赤くしていた。照れたように瞼を押さえる。思えば、一睡もせずに私を見守ってくれていたのだ。

「ふたりが来るまで、休んでて。そのとき全部話すから」

「そうする。シャワーといつもの寝床借りるね」

 そうして彼女が寝入ったのを確認すると、私はそっと机に向かった。キャロルが足元に着いてくる。ノートパソコンを立ち上げ、文書ソフトを起動した。

 彰仁くんと未散さんが来る前に、一連の出来事を纏めておかなくてはならない。

 さっきまで見ていた夢の話なら、そう、人形の墓場へと落ちていくところから始めるのが適当だろう。私はキーボードを叩いた。

 

 ……落下していき――軀が草のなかに突っ込んだ。背中の下に枝だろうか、硬い感触があった。ただの草叢ではなく、低い庭木のようなものの上に落ちたらしい。……


 それからポーリーと、シャドウェル――この時点では軀に入る前だから幽霊たち、パープルヘイズだ――に発見された場面へと書きすすめようとして、指を止めた。

 最初から書くべきだ。人形の国にまつわる物語のすべてを。

 ならば始め方はこうだ。


 ……薄く蒼白い胸の中央に、まっすぐ縦に走った傷口を、骨ばった硬い指先がなぞっている――四歳だった私が祖父と共に見たのは、そういう人形だった。……


 この調子で書いていたのでは間に合いそうにないので、出来事だけを簡潔に並べていくことにする。祖父との奇妙な思い出。人形のチラシ。二日酔いの緋色。未散さんとキャロルとの出会い。ジェフの警告。人形展……。

 書き進めるうちに、過去が、夢が、何度となくフラッシュバックする。どこでなにが泛んできたのか、それにどういう意味があったのか。その時点では知りえなかったが、今なら判ることがたくさんある。フラッシュバックについては、なるべく細かく記しておくべきだろう。

 そういったことをあれこれ考えていたせいか、メモ書き程度の文章なのに、ずいぶん時間がかかった。作業を終えて時計を見ると、十二時十五分前になっていた。

 緋色は安らかに寝息を立てたままだ。いつものようにほとんど裸のまま毛布に包まっている状態で、未散さんはともかく彰仁くんに見せられる姿ではない。

 気の毒に思いつつ声をかけて起こした。彼女は眠たげに眼を擦りながらも、きちんと服を着こみ、自分のスマートフォンで未散さんと彰仁くんからの連絡を確認しはじめた。

 ――まずは未散さんが、十二時ちょうどにやってきた。呼び鈴が鳴ると、真っ先にキャロルが飛び出していって、盛んに尻尾を振りながら玄関で跳ね回った。

 扉を開ける。未散さんの姿を見とめるなり、キャロルは大喜びしてじゃれついた。彼女の腕のなかに収まると、キャロルは満足げに一声あげた。

「ごめんね、一晩お世話になっちゃって。このアパートってペット禁止じゃなかった?」

「禁止ですけど、やむを得ない事情ということで。キャロルが来てくれたおかげで、私は助かったんです」

 未散さんははっとした表情を泛べた。

「キャロルが助けた――」

 その彼女の反応から、私は確信できたのだった――やはりキャロルは、未散さんにとっても特別な、魔法を持った犬なのだ。

「お話するととても長くなるんですけど、聞いてもらえますか」

 部屋に入ってきた未散さんは、緋色まで居たことに少し驚いた様子だったが、「なにかある」と察したのか、静かに席についてくれた。

 そのタイミングでまた呼び鈴。今度はバックパックを背負った彰仁くんがやってきた。事情を知らされていたのだろう、未散さんとキャロルの姿にも特に動じず、簡潔に自己紹介して、緋色の隣に坐ったのみだった。

 私はあらかじめプリントアウトしておいた、人形の国の物語(のメモ書き)を三人に渡した。全員がざっと目を通し終えたところで、私は改めて事情を語った。

「信じるよ。全部。話してくれてありがとう」

 最初にそう、未散さん。緋色が嬉しげに、こちらに視線を寄越す。私も頷いた。

「突拍子もない話だって、思われませんか」

「現実的かどうかと、信じるに値するかどうかって、あたしのなかでは全く別だから」

 彼女の口調は迷いなく、自信ありげだった。

「あたしの人生も、いくつもの不思議とすれ違ったけど、当事者には絶対になれなくて、カーテンの向こう側を想像してるだけ。それでも確かに向こう側の世界はあるんだって信じられるのは、マスターとキャロルに出会ってから。あたしはそう信じられるようになってからの人生のほうが好きだし、ちょっとでも光が見える気がしてる」

 未散さんはいったんそこで口を噤み、

「能天気なこと言っちゃったね。伊月ちゃんたちがずっと戦ってきたこと、ぜんぜん知らなかったのに」

「そんなことないです。善き月のしるしにも、シャドウェルにも、マスターにもキャロルにも、みんな未散さんを通じて出会ったんですから。そうじゃなかったら私はとっくに――」

 人形にされていました、と口にするのが恐ろしく、私は語尾を濁した。佳音。プリシラ。

 ここで退くわけにはいかない。

 彰仁くんが紙を広げた状態で机に置き、いちばん最後の行を指さす。

「『人間の世界で、吊られた人形の結界を解く』。こっち側の俺たちに課せられた大仕事だ」

 彼は指先を上のほうへと移動させ、

「ここだ。Glass Wilderness――君たちが人形の裂け目を見たという店に、その結界はある。具体的には、ぶら下がってこっちを見ている人形の視線を、すべて逸らせることができればいい。そういうことだよね?」

「うん、それで解けると思う」

「そうと判れば、行こう」

 と緋色が腰を上げかけたが、彰仁くんが穏やかに制止した。

「ちょっと待って。その前に聞いてほしい。エクリプスの周りをいろいろと洗って、判ったことがあるんだ」

 緋色が坐りなおすと、彼は自分のバッグから小さな包みを取り出した。巻かれていた布を慎重に外していく。

 透明な小瓶が現れた。なかには黒いカプセルのようなものが何個か入っている。

「旧メンバーのひとりが持ってた薬だ。ムーンスペルって呼んでた。そいつ以外にも、エクリプスでは常用してる奴がけっこういたって話だよ。プリシラはどうだったって訊いたら、今更隠すこともないから教える、最初にこれを持ち込んだのはあいつだって」

「どんな薬なの?」

 と私。ミュージシャンが服用する薬――安直に想像するなら、いわゆる「飛べる」「ハイになれる」類のものだろうか。

「こいつは普通の薬物じゃない。ずいぶん変わった効果が出るそうなんだ。ムーンスペルは――人間の記憶に作用する。都合のいい記憶と都合のよくない記憶を分別して、よくないほうを心の奥底に仕舞い込ませる作用があるんだとか」

「忘れ薬ってこと?」

 緋色が小瓶を持ち上げ、からからと音を立てて振りながら問いかける。

「簡単に言えば。具体的な効能といったらそうだな――たとえば授業中、みんなの前で間違った答えを言って恥ずかしい思いをしたとする。その記憶と一緒に、正しい答えも頭に焼き付いてるって状態になったとしよう。問題の答えは覚えていたいけど、恥の記憶は忘れたい。そういうときにムーンスペルを使うんだ。人間の脳が無意識のうちに行う記憶の整理整頓に作用して、不要なものを奥へ奥へと押しやる手助けをする。薬によって記憶を消してしまうわけじゃなくて、あくまで脳の働きを調子のいいほうに向けてやるためのもの、ということらしい」

「それだけ聞くと便利そうだけど、そんなに上手くいくわけないと思う。彰仁も試したんじゃないよね?」

「当たり前だ」

 彰仁くんはそう、緋色を軽くいなして、

「ムーンスペルにはデメリットも当然ある。初期段階としては躁鬱が激しくなるそうだ。これはプリシラや他のメンバーにも実際に起きた。ただの気分屋揃いなのかと当時は思ってたんだけどね。そのまま使いつづけてるとどうなるか――これは想像だけど、俺は人格の乖離が起きると思う」

「人格の乖離……二重人格みたいな?」と緋色が小瓶を置いて言う。

「そう。いくら脳が自然に行っていることとはいえ、薬による負荷が続けばいずれ破綻するに決まってる。ひとりの脳のなかで無理やり記憶を分離させつづけたら、そうなってもおかしくない。この推理にはもうひとつ理由があるんだ。人形の国の話を聞いて気づいた」

「デイジーと双子……ってこと?」

 彼は小さく頷き、私に先を促した。

「月の呪いで豹変した支配者と、魂を分離された双子。人形の国を人形作家の想像力によって生み出された世界とするなら、その人の脳の状態と連動してるはず。おそらくあの人もムーンスペルに中毒して、末期症状にまでなってしまった。それによって生じた人格の豹変が月の呪い」

 彰仁くんが私の後を引き取って、

「俺もそう考えた。あとは薬の出処だな。もしプリシラが、ムーンスペルをその人形作家を通じて手に入れていたんだとしたら、繋がる」

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