第40回

 人形館。

 建物のなかはひやりとして、人の――人形の気配はまるでなかった。シャドウェルとポーリーを左右に従えるようにして、私は佳音のいた部屋を目指した。

 扉に手をかけた。鍵がかかっているかと思ったが、ドアノブはあっさり回転した。

「やっぱり、もういないみたい」

 部屋を覗き込んでいたポーリーが振り向いた。彼女に続くようにして内側に身を滑らせた。

 薄暗かったが、部屋の様子がはっきりと見て取れた。蛇の感覚の力だ。

 毛布がベッドから乱雑に跳ね除けられていた。すなわち佳音は自らの意思で起き出したのではないのだ。彼女を何度となく自室に泊めたが、寝床を散らかしたままにしたことは一度としてなかった。

「ならば思ったとおりだ。連れて行かれたんだろうな」

 シャドウェルは部屋のなかを歩き回りながら、周囲を警戒している。風船が弾むようなユーモラスな動きだが、不思議と隙が無さそうにも見える。

「どうだ、なにか手掛かりはありそうか」

「探ってみる」

 私はゆっくり息を吐いてから、ベッドのうえに意識を集中させた。胸の内側がざわめき、蛇の感覚が鋭く鎌首をもたげる。

 オレンジと黄色が入り乱れたような色彩の気配が、ふわりと宙に立ち込めた。鮮やかに色を濃くしたり霞んだりしながら、海月のように漂っている。それが細かに分裂しながら、ドアの外へと続いているのが、私の眼にははっきりと映った。

「佳音の気配を掴まえた。これで追いかけられる」

 人形たちに宣言し、ドアへ向かった。

 ――佳音の気配は廊下を点々と伸びていた。彼女を連れ去った人形が誰なのか、何体いたのかは判らない。しかし気配が、私の視線と同じくらいの高さでもっとも濃くなっていることからして、そうとう大柄の人形に抱きかかえられていたのかもしれない。

「デイジーの側近にそんな人形がいる?」

「いなかったと思うが、いや待て、しかし……」

 シャドウェルが考え込むように語尾を濁す。彼はしばらく黙っていたが、やがて、ヴィトリオールが来てからは、と唸るように言った。

「ヴィトリオール?」とつい鸚鵡返しにした。人形修理者。毀された人形も、持ち主に見捨てられさえしなければ、いつまでも生き長らえることが出来る。砕け散ったパーツを繋ぎ合わせて。

「奴が来てから、デイジーの好みは変わったんだ。そのせいで、と言うのもどうかと思うが、事実として俺は――俺たちは捨てられた。俺の知らない人形が傍にいても、ちっともおかしくはない。今さらどうでもいいがな。もう俺の持ち主は長壁伊月だけだ。この国の呪いが解けてデイジーが正気に返ったとしても、それは変わらない」

「あからさまに自己アピールをするね」

 ポーリーが茶化すように言い、それから私のほうを見やって、

「でもまあ、シャドウェルの言うとおり、相手がなんであっても私たちは戦うし、伊月の命令に従う。もう持ち主を危険な目には遭わせない」

「頼りにしてる」

 私は微笑し、二階へと続く階段の前で立ち止まった。

「上に行ったみたい。遊覧船に乗ったってことだよね。私たちはドロテアに教わったとおり、地下道を行くことにします。これから道を探すから、着いてきて」

 人形たちが頷いた。

 ふっと力を抜いた。スイッチの切り替え、と念じながら数回、瞬きをした。

佳音の気配が視界から消えた。地下への抜け道が人形館のどこかにある。どうやって探す? 蛇の感覚をどう使えばいいだろう。

 双子の片割れがやっていたことを思い出した。墓地へと続く隠し扉。指先で小さく、こつり、こつりと壁を叩いて――。

 そうだ、音だ。

 耳の奥から鼻筋を通り、額から自分の感覚がすっと抜け出ていくところをイメージする。そうして伸ばした感覚に形を……蛇の形を与える。

 完成した白蛇を壁に貼り付かせた。

 なにかを感じる。ざらざらした、硬質なノイズのような。平坦に続いている。壁に沿ってしばらく歩いてみたが、そのままだ。

 人差指の先を曲げて、壁をノックしてみる。軽く叩いただけなのに、衝撃は予想よりだいぶ大きかった。頭の内側にまで反響する。規則的に揺れていた海面が唐突に乱れたような感じだった。

 反対側の壁にもう一匹、と思いかけて、考え直す。もっとたくさんの感覚を一度に操れないだろうか。実験してみる価値はある。

 私の頭部を中心に、蛇の群れのイメージを出現させる。まさしくドロテアの頭髪と同じ形。一匹一匹が独立した生き物のように動いて、感覚の及ぶ範囲を押し拡げていく。蛇たちを使役して、冷たい壁を弄りつづける。

 りん、と針を落としたような、小さくて甲高い感触。波紋が広がるように私の元へ届いて、頭の奥を震えさせる。

「見つけた」

 一見なんの変哲もない壁に歩み寄り、今度は手で触れた。指先に異物の感触。

 押し込んだ。低い音を立てながら、三センチ四方ほどのブロックが壁の奥へ引っ込んだ。一歩下がって待機した。

 やがて壁が左右に分かれ、狭い通路が現れた。石造りの階段が、下方の闇に向かってまっすぐに伸びている。

 シャドウェルが私の隣に立って、人差指を突き立てた。紫色の炎が灯る。彼はそのまま私を振り返って、

「灯りがあったほうがいいか?」

「蛇の感覚を使えば、なくても大丈夫だと思う。ふたりがもし必要なら」

 彼は火を吹き消した。

「人形の眼にはあまり関係ない。それならば目立たないに越したことはないな。俺が先に行こう。ポーリーは後ろを頼む」

 シャドウェル、私、ポーリーの順で進んだ。ほとんど真っ暗だが、蛇の感覚のおかげで不自由はなかった。前後のふたりをすっぽりと覆うように感覚を使い、周囲を警戒する。

 階段が終わり、通路が僅かに広まった。足元は相変わらずつるつるした石で、目印も灯りもなにもない。平常時の利用を想定していないのであろう、素気ない空間だった。

 正面は行き止まりで、道は右に折れている。改めて蛇の感覚を駆使し、丁寧に探ってみたが、そちらへ進むほかないようだった。

 若干の息苦しさを感じながら歩いた。ドロテアの神殿で感じた、背筋に冷たいものが走るような緊迫感とは違う。ねっとりと澱んだ空気が絡み付いてくるようで、どうにも気分が悪かった。

 通路は途切れることなく続いている。ただ平坦な景色が延々と続くばかりだ。

 人形館の部屋で見つけた地図を頭のなかに思い描いた。縮尺はどれくらいだった? 人形館からデイジーの城まで徒歩でどのくらいかかる?

 人形たちはなにか知っているだろうか。しかし訊いてみようにも、暗闇の地下道で声を出すのは憚られた。蛇の言葉が通じれば便利なのだが、そうもいかない。

 やがて階段に行き当たった。先頭のシャドウェルが一段目に足をかけようとした。

 突如として蛇の感覚が警告を発した。拡げた自分の領域の先端がなにかに触れ、伝播して、胸の内に黒々とした不安となって流れ入る。

 その場で凍りついたように立ちすくんだ。唇だけで囁く。

「止まって」

 私の異変を察したシャドウェルとポーリーがぴたりと静止した。彼らが即座に臨戦態勢に入ったのが判った。

 後方と左右に最小限の数を残して、ほかの蛇たちを前方に集中させた。まだ遠い。しかし確かに存在するなにかに向けて、蛇をじりじりと這い寄らせていく。

 閃光。

 蛇たちが咄嗟に頭部を引き、先を争うように領域を縮小して、私の内側へ逃げ込んでくる。凄まじい力で押し寄せてくる波。ほとんど総動員していた感覚が強烈な波動に打たれ、苦痛が、恐怖が、悪夢が、信じがたいほどの鮮烈さで生じる。

 意識を失う寸前だった。どうにかすべてを呑み込んで、感覚の扉を閉ざした。

 思わず壁に両手を着いた。悪酔いしたときのように視界が歪み、冷たい汗で軀がじっとりと濡れそぼっている。

 人形たちが私を支えてくれている。どうにかへたり込まないように耐えながら、しばらく浅く早い呼吸を繰り返した。

 先頭の一匹が僅かに捉えたそれ――正体は掴み切れなかったが、しかしあのタイミングで引き上げなければ、まず間違いなく蛇の群れは全滅、つまり感覚を潰されていただろう。

「落ち着いた? なにがあったの?」

 背中を撫でさする、人形の掌の感触。囁くように問いかけてきたのはポーリーの声だ。

 答えようとしたが唇が震えた。脳裡にはまだ残像が焼き付いている。

 感覚が失われたことで、今更のように周囲の暗さに気づかされた。唐突な停電に見舞われたかのように、完全な闇に閉ざされている。

 自分の機能の一部が停止したことに、私は恐怖していた。蛇の感覚はすでに私の一部であり、自分の意思でスイッチをオフにすることと、外部の力で奪われることはまったく違うのだという当たり前の事実が、私を絶望の淵に突き落としたのだ。手に入れたばかりの新しい力が無くなっても、五感で世界を知覚していた元の自分に戻るだけだろうと思っていたが、とんだ見当違いだった。

 ふらつかずに立てるようになるまで、少し時間がかかった。瞳が暗順応し、シャドウェルとポーリーの姿をおぼろげに捉えられるようになって、私は溜息を吐いた。

 ようやく自分に起きたことを人形たちに話した。

「眼。数えきれないぐらいの眼が闇に泛んでて、こっちを睨んでるの。眼光に晒された途端に感覚が――蛇たちがおかしくなって」

「畜生。蛇の女王が言っていた結界というのがそれか」

 シャドウェルが忌々しげに唸る。

 頭蓋の内側の、感覚があるはずの場所を探ってみる。ただ鉛玉を埋め込まれたような重い不快感があるだけだ。感覚を呼び起こすときにやるように軽く揺らしてみる。

 重量感。なにかが頭にのしかかってきて……痛みに変わった。

 断念せざるを得なかった。

「私の感覚は鋭敏だけど強靭じゃないって、ドロテアが忠告してくれた。その通りだったみたい。使い方に気を付けろって言われたのに――」

「感覚が封じられたのは痛手だが、完全に潰されたわけではないんだろう。逃げ延びた、ということは、咄嗟のところで正しい判断が出来たんだ。君が無事ならば、希望はある。策を考えよう」

 シャドウェルはそう言ったが、私は立ち直れなかった。感覚が戻るのにどれくらいかかるかも、今のところ判らない。ここで回復を待っている暇があるとも思えない。

 なにより、蛇の感覚という唯一の武器を封じられた私が、このまま前に進んでも勝ち目はないに決まっている。

「私が、もっと強ければ――」

 思わずそうつぶやくと、ポーリーが私の正面にやってきた。

「あなたは弱くない。ドロテアみたいな強さじゃないかもしれないけど、あなたにはあなたの強さがあるの。私たちはそれを信じてるから、あなたを持ち主に選んだんだよ」

 ポーリーの掌が私の手に重ねられる。

「大丈夫」

 だいじょうぶ、という言葉が胸の内で反芻され、溶けて染みていった。静かに。


 ……「私、佳音みたいに積極的じゃないし、緋色ほど強くない。彰仁くんみたいに賢くもないし、未散さんほど優しくもない。夢の中の私が、こっちの私と同じ私だったら、きっとひとりじゃなにもできない」

「大丈夫。伊月は特別だよ。私も、佳音も、彰仁も、きっと未散さんも、そう思ってる。私たちは向こう側に行けないけど、伊月を支えてくれる人が絶対にいる。私はそう信じてるよ。それが伊月の力なんだって」……


 シャドウェルもポーリーの隣に立っている。

「大丈夫だ。君にならやれる」

 私を信じてくれる人がいる。向こう側でも、こちら側でも。私たちは誰も、ひとりで戦っているわけではないのだ。

 私は強く頷いた。

「やらなきゃ」

 そう口にすると同時に、ドロテアの最後の助言が脳裏をよぎった。

(おまえより多くを持つ者はいくらでもいるが、おまえが持つものを使えるのはおまえだけだ)

 私が持つもの。私に特別なところがあるとしたら……ひとつは決まっている。

もうひとつあった。

 左手で、善き月のしるしに触れた。眼を閉じる。蛇の感覚が捉えた幽かな光景を、再び脳裡に甦らせる。闇に泛んだ無数の眼は、そう、確か――。

「判った」

「なにが判ったの?」とポーリー。

「結界の解き方。私にしか解けないって、そういう意味だったんだ」

「なんだ。どうやるんだ。教えてくれ」

「人形にも蛇にも、この世界の住人には触れられない結界。人間の呪術。それはつまり、向こう側の世界に鍵があるってことだと思う。人間の世界と人形の国を、記憶を保ったまま行き来できるのは、確かに私だけだもん」

「なるほどそうか――そういうことか」

 抑えた声からも昂奮が伝わってくる。シャドウェルもこの説を支持してくれるようだ。

「なにか、人間の世界での心当たりがあるんだな?」

「うん。吊られた人形の結界。私、見たことがある」


 ……吊られた人形の結界。そう思った。

 天井には弧を描くように糸が張り渡され、そこに大量の人形たちがぶら下がっていた。手足の長いマリオネット。どれも人間ではありえない、軀じゅうの関節を複雑に折り曲げたポーズを取らされている。来訪者をいっせいに見下ろすよう目論んでの配置なのだろう、硝子細工の瞳の放つ鈍い光が、店内の薄闇の、あちらこちらに泛んでいる。……


「なんであんな風にぶら下げられてるのか不思議だったけど――あれが向こう側で、結界の役割を果たしてたんだと思う。あの人形たちの視線を逸らせれば、吊られた人形の結界はきっと解ける」

「素晴らしいぞ。それが正解に違いない。俺たちは君が向こう側に行っているあいだ、君を守って待っている。どうか頼んだぞ、わが主。きっと謎を解いて戻ってきてくれ」

 眠りに適した環境とは程遠いが、贅沢は言えない。私が壁に背中を預けて坐り込むと、シャドウェルとポーリーが左右に寄り添ってくれる。

 私は祈りながら眼を閉じた。

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