第39回

 耳を澄ませてみて、いや違う、と思いなおした。ドロテアは先に「判った」と言った。すなわち外界の音を聞いたわけではないのだ。蛇特有の感覚を駆使して、なにかを掴んだ。 

 だとすれば、私も自分に取り憑いているはずの白蛇の力を借りれば、なにか判るということだろうか?

(その通りだ)

 と頭の中でドロテアの声が響いた。彼女の声だとはっきりと判るし、言葉としての認識も可能だが、耳を通じて聞える音とはまったく違う。自分が知覚していた世界に新たな層が重なったような、なんとも奇妙な心地だった。

 困惑のさなか、(これが蛇の感覚なんですか)と問いかけを言葉にしようとしたが、唇を動かす前にドロテアからの返答がまた脳裡に届いた。

(そうだ。なかなか便利なものだろう? あくまでおまえに取り憑いている小さな蛇一匹の力だから、私の感覚には遠く及ばないがな。さて、こいつの中身をそれで探ってみるといい。なかなか面白いことが判るだろう)

 私はドロテアから意識を離し、双子の片割れのほうへと向けた。外界の音を出来る限り感覚から締め出す。なにか新しい声が聞えたような気がしたが、まだ小さい。

 落ち着け。ならばドロテアの言うとおり探ってみることにしよう。どうすればいい? 蛇の力を借りるならば――そのまま蛇の姿を想像するのはどうだ。その頭部を人形の内部へと探り入れるようなイメージを作り出す。

 じわじわと双子の片割れに近づけていったとき、感覚が不意になにかに触れた。触れたことが判った。それはすぐさま、ドロテアのときと同じように声となり、私の頭に流れ込んできた。

(私たち、デイジーに見捨てられて死ぬのかな。死んだら遊べなくなっちゃってつまらない。もっと遊びたい。やっぱり助けてもらおうよ)

(莫迦なこと言わないでよ。人形は所有者を裏切らない、捨てられるなら受け入れるのが人形の定めでしょう? こいつらはデイジーを悪く言ったんだよ。敵なんだ)

(でも死にたくないよ。三回も失敗した人形を、デイジーは許さない。今度こそ、私たちを消しちゃうよ)

(だったら死んだほうがいい。この蛇の化け物なら、自分に所有権がない人形でも殺せる力があるんじゃない? こいつに私たちを殺させよう)

(厭だ、まだ遊んでいたい。消えたくない)

(駄目だ、死ぬよ。今すぐ死ぬ。死ぬんだよ)

 まったく同じふたつの声。正反対の主張。ハーヴェイとハーカウェイは確かにそういう双子だが、なぜ今ここで言い争いが聞える? どう見てもこの場にいるのはひとりだ。もうひとりが隠れているとしたらドロテアが必ず気づくはずだ。

 まさか――。

(今、ふたつの声が聞えているな? おまえにはただの声だろうが、私にはその波動まで、はっきり感じ取ることができる。別の個体であれば、波動は必ず違う。どんなに似ていようが、まったく同じということはない。しかしこのふたつは同一だ。波動からのみ判断すれば独り芝居と言わざるを得ないが、にしては出来過ぎている。人間のおまえは、これをどう考える?)

(私は――)とドロテアに応じかけたが、いったん思考を中断する。頭の中の声への集中を切らさないよう意識したまま、今度は口を動かしてみた。

「私は」ちゃんと声になった。一度深呼吸してから、あ、あ、と発声してみる。大丈夫、喋れそうだ。

「ドロテア、あなたがそう感じるならそれが真実なんでしょう。だとすれば、可能性はふたつです。まずひとつ。双子には複製された魂が宿っているという説」

 私はポーリーとシャドウェルに、いま起きていることを手短に説明した。蛇の感覚については理解しがたい部分もあるだろうと思ったが、彼らは受け入れてくれたようだった。

「そういう技術が、この人形の国に存在する?」

「いや、まったく聞いたことがない。おそらくは存在しないだろう」

 即座にそう言ったシャドウェルに、ポーリーも同調して頷いている。

「ありがとう。私もそう思う。人形の魂っていうのは、持ち主と関係を取り結んだ記憶で、その人形の核となるもの。軀は人形修理者の手で修理できても、魂はひとつしかない。魂を複製できないという事実自体が、人形とそのほかの人型のもの、たとえばロボットを隔てている――私はそんな気がする。だから複製された魂説は却下」

 ポーリーが腕組みして、

「……じゃあもうひとつの説は?」

 と私に先を促す。私は軽く咳払いし、

「双子の魂はひとつしかない説。言い換えれば、ひとつの魂をふたつの軀で分け合ってる。シャム双生児の逆バージョン。そう考えるといろんなことに説明がつくような気がするの」

 シャドウェルとポーリーは丸く眼を見開いたようだったが、ドロテアはほとんど表情を変えなかった。

「人形の魂は、最初に宿ったものとは違う軀に移動することもできるし、複数の魂がひとつの軀で共生することもできる。シャドウェルの存在がそれを証明してる。だったら、半分ずつの魂がふたつの軀を操ることがあってもいいんじゃない? まずこれで、双子の意見が決して一致しないことの説明になる。ひとつの魂を二分割したから――表と裏、陰と陽、言い方はなんでもいいけど、とにかく正反対の性質を持つふたつに分離してる」

「でも……半分だけの魂って、それじゃ不完全なわけでしょう?」

 ポーリーが首を傾げる。

「そう。だから双子は、人形としていちばん重要なものが欠けてるの。人間との記憶を、普通の方法では保持できない。これは、人形の存在意義に関わってくる問題。傷として軀に残さないと覚えていられないっていうのは、人間でいったら大事なことは刺青にでもして刻んでおくほかない、っていう状態でしょう? そんなことになってるのは魂が不完全だから」

 私は双子の片割れを見やった。不完全な魂――その瞳はまだ、小刻みに震えている。

「私たちが人形館を探検してた夜、あなたは私をこの墓地に連れてきたよね。だから私はポーリーと、まだ幽霊だったシャドウェルに会えた。あなたの良心がそうさせたんじゃないかって思うの。でもその代わり、あなたの悪心は佳音を連れていった。そして佳音はデイジーと契約させられた――違う?」

 幽かな感覚が私の中に流れてきそうになった。しかしそれを掴まえる直前に、

「うるさい!」

 と双子の片割れが顔を上げて怒鳴り、感覚は掻き消された。

「良心も悪心もあるもんか。私はただの莫迦な人形だよ。ぐずぐず喋ってないで、さっさとこの蛇の化け物に私を始末するよう命令したら?」

 泣き出しそうな顔になってそう吐き出し終えると、彼女はぽつりと、

「殺してよ。もう人形でいる価値がない」

 ドロテアの髪の毛の蛇が、双子の片割れの顔の周りで身をくねらせた。

「波動が変わった。どうやらデイジーがこいつの所有権を放棄したらしいな。自分で手を下すまでもない、ということか。どこまでも気に食わない奴だ」

 双子の片割れが項垂れた。ドロテアの言った通りなのだろう。

 魂を引き裂かれ、軀を毀されつづけ、私たちと戦うことを強いられて、敗北の末に棄てられた、可哀相な人形――。

「今ここにいる、死にたがりの魂を『悪心』、まだ生き延びたいと願っていたほうを『良心』とでも呼ぼう。良心も悪心も、もとはひとつの魂だから、片方が消えればもう片方も消える。片方を生かせばもう片方も生きる」

 ドロテアはゆっくりとした口調でそう言うと、私のほうを向いて眼を細くした。

「さて、どうする? 悪心の言うとおり、私にも人形の魂を消し去る力がある。デイジーと同じようにな。ここでこいつを消滅させておくのが得策だと思うが、どうだ?」

 私は息を吸い込んだ。

「無茶を承知でお願いします。あなたの力で、双子の魂を元通りにしてあげることはできませんか?」

 なに、とドロテア。やはり意外な申し出だったようで、彼女は表情を険しくし、

「私が邪神だということを忘れたわけではないだろうな」

「もちろん忘れてはいません。でもあなたは、邪神であると同時に蛇の神です。どの時代、どの場所でも蛇だった。そう仰っていましたよね。ギリシア神話の怪物メデューサの血は、左半身のものは毒でしたが、右半身のものには蘇生の力があったといいます。医術の神、アスクレピオスはそれを使って大勢の英雄を救いました。蛇は医療のシンボルなんです。そして古代ギリシアにおける蛇の夢は、癒しの力を持つとされています」

 私はドロテアを見据えた。

「蛇には死と再生、両方の力があるんです。だからあなたは、この国を救おうとする私たちの手助けをしてくれる。ただの邪神ならば、ここまで私たちの味方になってはくれないと思います。私はそう信じます」

 ドロテアはしばらく私を冷え冷えとした眼で見返していたが、やがて、

「おまえにはつくづく驚かされる。遥か昔のことを思い出した。確かに、そんなことがあったかもしれない」

 思わず口元がほころんだ。ドロテアもほんの少しだけ――笑っているように見える。

「何千年ぶりだろうな、これは」

 ドロテアの髪の毛の蛇が伸びて、有無を言わせぬうちに双子の片割れの軀をすっぽりと包みこんだ。蛇たちがぬらぬらと蠢き、同時に、一匹が鎌首をもたげて宙をさまよう。

 その一匹が空中でなにかを掴まえるように、がちん、と歯を噛みあわせたかと思うと、するすると群れの中に頭を突っ込んだ。しばらくすると、波が引くように蛇たちが双子の片割れの軀から離れた。

 彼女はぐったりしたままだ。ドロテアは小さく息を吐いて、

「成功したかどうかはまだ判らない。眼を覚ますまで、こいつは私の神殿で預かっておこう。厳重に見張りを立ててな」

 双子の片割れに巻き付いている大蛇が、轟音と共に地中へと潜っていく。彼女の姿が少しずつ地面に引きずり込まれ、やがて見えなくなった。

 その穴から、銀色の光を放つなにかが飛び出した。かしゃん、と軽い音を立てて落下する。穴は急速に塞がり、地面はほとんど元通りになりつつある。

歩み寄って拾い上げた。

 鍵束だった。双子の片割れが持っていたものだ。人形館から墓地へ通じる隠し通路を開けるのに使っていたものだろう。

「やれやれ、くだらないことに時間を費やしてしまったな」

とドロテアが言い、それから地面を示した。

「人形館の地下には通路がある。デイジーの城へと通じていると考えて間違いない。おまえたちはそこを通って行け」

「地下通路……。それは本当なのか」

 そう問いかけたシャドウェルに、彼女は自信に満ちた口調で答える。

「蛇が地中のことを語っているのだ。人形には知りえぬことでも、われらには判る」

 朗報だ。楽な道ではないだろうけれど、遊覧船よりは現実味がある。小さな頷きで意思を確認し合った私たちを横目に、ドロテアは地面から首を突き出している、しもべの大蛇の鱗に指を這わせながら、

「しかしわれらは別行動を取らせてもらおう」

「なにか考えがあってのことでしょうか」

 問いかけを装ったが、本当は一緒に来てくださいと懇願したかった。ドロテアは私の心理を見透かしたように、

「おまえの力になるとは約束したが、私はおまえのしもべではない」

「すみませんでした。あなたの力に甘えていたようです」

 私が頭を下げると、ドロテアは小さく笑みを泛べ、

「理由は他にもある。城には人形の結界が張り巡らされている。地下道の先には、人間であるおまえにしか解けぬ結界があるのだ。それを解いてもらいたい」

「人間でないと解けない結界……」

「そうだ。人形にも、われら蛇にも、この国の住人には触れられぬ結界だ。私がかつて人間の世界にいたとき、同じような力を感じたことがある。あれは人間の呪術だ」

 自信はまるでなかったが、私は頷き、

「判りました。どうにかやってみます」

「よし。ではうまくやることだ」

 その言葉と同時に、しもべの蛇が、ドロテアの白い軀を覆い隠すように蜷局を巻きはじめた。そのまま音を立てて地中へと潜り込んでいく。

 地響きのような轟音に紛れて、小さな、小さな声が私の脳裡に響いた。

(おまえに助言しておこう。この声が聞えるおまえは、相当な蛇の感覚の使い手だ。だが使い方に気を付けろ。おまえの感覚は鋭敏だが、決して強靭ではない。その点ではこの私に遠く及ばない)

(ありがとうございます。それは理解しているつもりです。なるべく労わるようにします)

 ドロテアの姿はとうに地中に消えている。声はますます小さくなり、本当に幽かな波動としてしか捉えられなくなった。

 繋がりが切れる直前、ドロテアは私にこう告げた。

(最後にもうひとつ。おまえより多くを持つ者はいくらでもいるが、おまえが持つものを使えるのはおまえだけだ)

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