第38回

 逃げて、と私は声を張りあげようとしたが――叶わなかった。唯一ほとんど無傷だった、双子の片割れの掌が凄まじい勢いで飛んできて、私の顔に貼り付いたのだ。

 口と鼻をすっぽりと覆われた。完全に呼吸ができない。

 シャドウェルとポーリーが私の名を連呼する。競うように手を伸ばして、引きはがそうとしている。しかし掌は万力のように締め上げてくるばかりで、まるで外れない。

 彼らの背後で、彼らの顔をした霧が、ゆらゆらと嘲笑うように舞い踊っている。必死にそちらを指し示して知らせようとしたが、掌と格闘するのに必死になっている彼らには届かない。

 肺の空気が空っぽに近づいてきた。息ができない。胸の内側がぎりぎりと痛み、頭が熱せられたように白む。それでいて軀は小刻みに震えている。

 このままでは死ぬ。じきに死ぬ。

 意識に霞がかかりはじめた。

 唐突に、地面が大揺れに揺れた。地震? と思う間もなく、地中から巨大な触手めいたものが複数、土煙を纏って飛び出した。

 そのうちの一本が鞭のようにしなって私の顔面を掠めた。途端に圧迫感が去った。肺に空気がなだれ込んでくる。私は咳きこんだ。軀を折り、何度となく。

 ようやく顔を上げた。

 青と白と紫の鱗に覆われた、二匹の大蛇が身を躍らせていた。鎌首をもたげながら、宙を漂うふたつの黒い霧の塊を睨みつけている。

 シャドウェルもポーリーはその様を見上げながら唖然としている。彼らには、唐突に地面から蛇が現れたようにしか見えていないのだ。

 人形ふたりの顔をした霧が、大蛇に突進した。

 ところがその軀に触れる直前で――砕け散り、単なる微小な粒子へと還ってしまう。

「その程度の低級な呪いが、この私に通用すると思うか?」

 低く、どこか嘲笑するような女の声がそう言った。

「小賢しい。本体が隠れているな。蛇の感覚を誤魔化せるものか」

 大蛇が身を低くし、一見なにもない場所へと突っ込んだ。再びその首を持ち上げたとき――蛇は双子の片割れをぐるぐる巻きにして捕えていた。変身をする前の、ゴシック・ロリータ風の少女の姿だ。力なく頭を垂らしている。気を失っているのだろうか。

 声を出そうとして、また咳きこんだ。情けない擦れ声になったが、今度はようやく、

「ドロテア?」

 双子の片割れを掴まえていないほうの蛇が、舌をちろちろと出し入れしながら頭部を私の肩のあたりの高さまで下げた。怖々とだが、その頭を撫でてみる。

 先ほどと同じドロテアの声が、

「おまえのおかげで壁のなかの様子はよく判った。この気狂い沙汰を終わらせてやらねばな。約束通り、私が力になってやる」

「やっぱりあのときの、蛇の子を通して――?」

「すべて見せてもらった。ずいぶんと危険な目に遭ったようだな。間に合ってなによりだった」

 シャドウェルとポーリーはぽかんとしていた。混乱しているのも無理はない。

「ドロテア――蛇の王か」とようやくシャドウェルが発する。

「その通りだ、道化師。偉そうな口を利いたわりに、おまえたちは主人を危険に晒したな? もう少しでこの娘を死なせるところだった。どう申し開きをするつもりだ?」

 重々しい声で詰問され、シャドウェルは俯いた。

「なにもない。あなたが来なければ、俺たちは主人を失っていた。護衛として失格だ」

 ポーリーも頭を垂れ、

「私も。一時の油断で、取り返しのつかない事態を招いた。言い訳のしようがない」

 ふん、と鼻を鳴らすような音がした。ドロテアの声が私に向け、

「持ち主に似て素直な連中だ。さて、どうする? 所有者にはむろん、失態を演じた己の人形を罰する権利がある。もしおまえが手を下せないと言うのなら、私が代わって罰してやろう。おまえの指示さえあれば、今すぐに」

「ドロテア」と私は蛇の頭部に向けて呼びかけた。「お願いがあります。まずは姿を見せてください。命の恩人であるあなたに、きちんとお礼をして――それから、私の考えをお話しします」

「いいだろう」返答と同時に、また地面が揺れはじめた。私の眼の前、二メートルほどのところの土が地割れを起こしたようにぱっくり割れたかと思うと、長い指が出てきた。両手で押し広げられた地面が、さらに闇色の空間を増していく。

 穴のなかから、蛇の頭髪に縁どられたドロテアの頭部が覗いた。彼女は上半身を持ち上げ、続けて脚をずるりと滑り出させた。

 初めて会ったときと同じ女性の姿で、ドロテアが地上に出現した。私の眼の前に立ち、唇の端を吊り上げる。

「久しぶりだな」

「お久しぶりです。私たちを助けてくださって、ありがとうございました。三人全員がこうして無事でいられるのは、あなたのおかげです」

「全員?」とドロテアが可笑しげに言う。「私が助けたのはおまえだけだ。ただの人間にもただの人形にも、私は興味がないと言ったはずだ。しもべ人形のことはどうでもいい」

「あなたがそう思われるのは自由です。でも私だって凡人です。友達の助けがなかったらなにもできない、無力な小娘でしかありません。もし私に特別なところがあるとしたら、それは素晴らしい友人に恵まれたというただ一点です。そのことにだけ誇りを持っています。ほかにはなにもありません」

「それで?」とドロテアは先を促した。「おまえは私になにを求める?」

「シャドウェルとポーリーを、私は罰しません。ふたりは私を守るために戦ってくれました。これからもそうします。私たちは一緒に戦います」

「ほう。それがおまえの、所有者としてのあり方なのか」

「そうです」

 ドロテアは私を見、それからシャドウェル、ポーリーの順に視線を流した。

「判った。おまえたちは寛大な主を持ったようだ。忠実に手助けしてやることだ――主がこちら側にいる間はな」

 シャドウェルとポーリーが頷いたのを確認すると、では次だ、とドロテアが地面から突き出したままの大蛇たちを見上げながら言った。双子の片割れを掴まえていた一匹が、するすると頭を下げる。彼女のひび割れた頬に、ドロテアが長い指で触れた途端、

「触るな、蛇の化け物」

「ずいぶんと強情だな。躾がなっていない、と言うべきか。ここまで来て己の立場をわきまえていないらしい。いかにも頭のいかれた支配者の持ち物だ」

「――私たちの主を悪く言わないでよ」

 ドロテアは頬をなぞる指先を止めない。頭髪の蛇たちも双子の片割れの顔に近づき、ちろちろと炎のような舌先を出し入れする。

「見上げた忠誠心と褒めてやりたいところだが、実質それは洗脳だ。今のおまえの主は人形の所有者に、そしてこの国の支配者に相応しくない」

「だからなに? あんたがこの国を乗っ取るの? 醜い蛇でいっぱいにするの? そんなの、絶対に許されるもんか」

「それも悪くない。奴を玉座から引き摺り下ろして、私の蛇たちにくれてやってもいい。私ひとりなら、確実にそうしていただろうな。しかしそれでは納得しない者がいるようだ」

 ドロテアが私を見た。こっちへ来い、と眼で合図される。双子の片割れは近づいた私に向かい、噛みつくように、

「なに、あんたが支配者になりたいの?」

 私はかぶりを振った。

「そんなつもりはないよ。私はただ、この国にかけられた月の呪いを解かなきゃいけないって思うだけ。それは、あなたたちのご主人を助けることにも繋がると思う。だから、なにか知ってることがあったら教えてほしい」

 双子の片割れは私を睨んだ。唇は引き結んだままだ。

「こう考えられない? あなたはデイジーを裏切るわけじゃない。助けるために話すの。デイジーが今のままで、本当にいいと思う? 人形たちが幸せになれると思う?」

「いいとか悪いとかいう問題じゃない。持ち主が楽しかったらそれが楽しくて、人形にとってはそれが絶対なの。あんたにもそう教えたはずだよ」

 頑なな口調で、双子の片割れが言う。

「話にならないな」

とドロテアが割り入った。

「口を割らせたいだけなら、私に任せる気はないか? 人形には人形の痛点というものがあるのだ。私はそれをよく知っている。自分を殺そうとした相手に情けをかけてやるまでもあるまい」

「もう少し、待ってください」

私が制すると、ドロテアはそれ以上なにも言ってこなかった。代わってシャドウェルが進み出てきて、

「ではこう言おう。おまえは俺たちとの遊びに負けた。ドロテアが現れたのは計算外だったし、彼女が来なければ俺たちの負けだったが、結果的には俺たちが勝ち、おまえは負けた。人形が遊びで負けたとき、只というわけにはいかないはずだ」

「じゃあ私の軀でも魂でもくれてやる」

双子の片割れはシャドウェルに視線もくれず、私に向かって吐き捨てるように発した。

「あんたを殺すつもりはなかったけど、あんたからすれば死ぬ思いだったんだろうね。私が憎いでしょう? 好きにすればいい。どうせ私は遊びの下手な人形だよ。あんたをグリフィンに攫われて、向こう側から連れ戻すこともできなくて、今度はあんたの人形に負けた。遊びの下手な人形がどうなるか、あんたも見たでしょう?」

「私はああいうことはしない。あなたを毀しても楽しくないし、毀す側が苦しかったら毀されるあなたも苦しいんでしょう? 勝者として――って私はなにもしてないけど、あなたに望むのは、デイジーについて知ってることを話してもらうことだけ」

 双子の片割れが表情をゆがめ、小さく呻き声を上げた。感情の表出というより、痛みを堪えているような感じに私には見えた。しかしドロテアが彼女を痛めつけているわけでもないようだ。

 呻き声は断片的に続いている。双子の片割れの瞳が小刻みに揺れ動いているのに私は気づいた。

 なるほどな、とドロテアが低い声で言った。彼女は私に視線を送ると、

「こいつは少々変わった人形のようだ。内側で厄介なことが起きている。私にはそれが判った。聞えた、と言うべきかな。おまえも聞いてみるといい」

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