第33回

 病室には佳音のお母さんの姿があった。私たちに気づくと、わざわざ立ち上がって歩み寄ってきてくれた。新顔の彰仁くんが、少し緊張気味に「佐久間です」と挨拶する。

「同じバンドの」と緋色が自分と彰仁くんを交互に指差すと、お母さんはすぐさま納得したらしく、

「ルビー・チューズデイね。佳音がいつも、自分のことみたいに話すから」

 仕切りのカーテンをお母さんが少し開けてくれる。私と緋色は中に入った。彰仁くんだけが外に残った。

 ベッドを覗き込んだ。

 しばらく外出していないせいか、もともと色白だった顔がますます白くなっていた。呼吸は――ある。胸が小さく上下している。

 静かに眠っている佳音を眺めながら、私は泣き出しそうになってしまった。両手を胸の上で組み合わせ、脚をギプスで固定されて横になっている彼女は、とても儚げな少女に見えたのだ。自分がずっと親しくしてきた、くるくると表情を変える快活な女の子と同じ存在だと思えないほどだった。

「様子は、どんな感じですか」と緋色が訊ねる。お母さんは小さく吐息して、私たちを手招いた。顔を近づけると、小声で、

「原因はまだ判らないの。佳音、起きてるあいだは元気にしてるけど――」彼女は語尾を不明瞭にさせた。曖昧に言葉を切ると、ベッドに向きなおって、

「佳音、伊月ちゃんたちが来てくれたよ」

 佳音は小さく身じろぎし、眼を開けた。ぱちぱちと眠たげに瞬きをしてから、

「おはよ。おはよの時間? 何時?」

「もうすぐ六時半。夜のだよ」と腕時計を見て教える。

「そう。来てくれてありがと」

 覚醒すると、佳音は普段の佳音に戻ったようだった。そう思いたかった。

 ともかく彼女が動いたり話したりしたことに、私は安堵したのだった。プリシラの話を聞いてから、大慌てで様子を見に来たのである――彼女もまた眠ったまま目を覚まさない、などということになっていないかと不安に駆られて。

「せっかくお友達が来てくれたんだから、お母さん、ちょっと外すね。飲み物だけ買ってこようか。みんな、なにか好きなのを」

「スタバのキャラメルのやつ」と私たちが遠慮する間もなく佳音が言い、指を三本突き立てた。「三つ」

 お母さんが頷き、「佐久間くんは? それでいい?」とカーテンの外に出ていった。ありがとうございます、では同じもので、などと彰仁くんが答えている。すぐにお母さんの気配が遠ざかった。

「まさかの四人目が。して佐久間くんとは」外に耳をそばだてていたらしい佳音が、声を潜めて私たちに問いかけてきた。「どっちだ」

「どっちとは」と私。佳音は薄笑いして、

「見れば判るかな。佐久間くん、カムイン」

「入っていいの」と彰仁くんの声。

「直視はしない感じで。いちおう病人だからさ、ちょっとビジュアルに不都合が」

 本当に顔を背けたまま、彰仁くんがカーテンの内側に入ってきた。真面目な人だ。

 彼を一目見るなり、佳音はすぐさま笑顔になった。「そっちか」と唇を動かすと、お母さんとそっくりの仕種で私を手招き、やはりお母さんそっくりの小声で、

「緋色の彼氏、かっこいいじゃん」

「ルビー・チューズデイのベーシストだよ。前にお見舞いに来たとき、ちょっと話題になったでしょう?」

「だからベースが彼氏なんでしょ」

「付き合ってるって話はなかったよ。緋色、ベースはやめといたほうがいいって私にも言ったし」

「盗るなって意味じゃない? 彼氏のこと好き好き大好きなんだ」

 佳音は私から顔を離し、彰仁くんを見上げると、心底楽しげな口調で、

「佐久間くん、うちの杯が平素より大変お世話になっております。友人の瀬那佳音でーす」

「そういうのじゃないから」と即座に緋色が呆れ声で言う。「あんたも否定して」

「なにを。杯のことなんか俺はなんとも思ってないからなって? なんとも思ってなくないから否定できない」

「わお」と佳音がわざとらしく喜ぶ。緋色は頭痛を堪えるように蟀谷に手を当てた。

「なんだってそういう――同じバンドのメンバーとしてこう思ってるって意味なら、最初からそう喋って」

 彰仁くんは穏やかな、しかしはっきりした口ぶりで、

「歌ってるおまえは、いつもの倍くらい綺麗だと思ってる」

 今度こそ「おお」と私まで感嘆してしまい、佳音と二重奏になった。緋色は顔を真っ赤にして、彼を睨みつけた。危うく声を張り上げそうになったところを、ここが病室だからと思いなおして呑み込んだ――という感じだ。

「お待たせ」とそこへ佳音のお母さんが入ってきた。途端に場の空気が変容して、私たちはいっせいに礼儀正しさの仮面をつけたようになった。

 お母さんが飲み物の入った紙のホルダーを佳音の枕元に置いた。ひとつずつ取り出して、私たちに手渡す。受け取った順にお礼を言って頭を下げた。全員に行き渡ると、

「佳音。じゃあお母さん、一回帰るから。なにかあったら連絡して」

「ん。ジェフにちゃんとご飯あげて」

「はいはい」

 カーテンに手をかけたお母さんがふと思い出したように、

「そういえばあんた、みんなにあれ見せた?」

「まだ見せてない。あとで見せるよ」

 お母さんがいなくなると、私たちはベッドの近くに置いてあった折り畳み椅子を引き寄せて坐った。私は飲み物を啜りながら、

「あれってなに?」

 佳音は枕元を探った。暇つぶしに読んでいるのであろう文庫本の山を横に取り除け、下から小振りなスケッチブックを取り出した。白紙の頁を開き、挟んであった鉛筆を握る。

「せっかくだし――佐久間くん、下は彰仁くんだっけ。こっち向いて」

「どっちでも好きなほうでいいよ。ところで直視しないほうがいいんじゃなかったっけ」

「そうでした。横顔でいいや。お隣の、いちばん好きな顔を見つめてて」

 緋色はぷいと顔を背けた。私までつられて、彼女を見つめてしまう。高く通った鼻筋と、反りを打った長い睫毛。普段から海外のミュージシャンを意識した格好をしている彼女だが、顔の造形もそれ風で、まったく違和感がない。同じステージに立ち、隣り合って見るこの横顔は、どれだけ華々しいだろうか――と彰仁くんの胸中を勝手に想像していた私である。

「完成」と佳音がスケッチブックをひっくり返した。私たちの視線はいっせいにそこへ吸い寄せられた。

 精緻な絵だった。写真に迫るほどの正確さで、この短時間でさらさら描いたものとはとても思えない。

「ちゃんと今ここで描いたんだよ」と佳音がしたり顔で言う。「彰仁くんとは正真正銘、今日が初対面だからね。事前に描いておくってトリックは使えない」

 彰仁くんはスケッチブックを受け取り、その絵を眺め渡した。鏡を見ているかのような心境だったのだろう、深々と吐息して、

「凄いな。神業だよ」

 私と緋色は唖然としてしまっていた。こんな特技があったなんて――。

 芸術系の授業では私と緋色は音楽、佳音だけが美術を選択しているので、高校に入ってからは彼女の絵を見ていない。小中学校時代はよくノートに落書きをしていたが、ちょっとイラストの上手な(そしてモチーフの趣味が独特な)女の子、という程度で、ここまでの技術はなかった。

「いつの間にこんなに上手くなったの?」私が問うと、佳音は鉛筆を弄びながら、

「入院してから」

「そんな短期間でここまで上達したの? どうやって?」

「えーとね、練習は、特にしてない」

 え? と私は佳音の顔を見返した。

「本当にしてないんだよ。なんかね、寝て起きたら描けるようになってた。嘘じゃなくて。こう――なんか降りてきた? そういう感じ。自分でもよく判んないんだけど」

 寝て起きたら描けるようになっていた……。

 動かなくなった脚。

 取引――。

 彰仁くんの顔を盗み見た。表情がはっきりと強張っている。私と同じことを考えていたのだ。

 彼はスケッチブックの頁を捲った。はたと手を止め、それから眼を見開いた。嘘だろ、と声を出さずに唇だけ動かすのを、私は見た。

「緋色。伊月さん。ちょっと」

 私たちは彰仁くんの背後に廻りこんだ。絵が視界に飛び込んできて、途端に息を詰めた。

 先の似顔絵と同じタッチの、鉛筆のみで描画された少女の絵――それはプリシラと瓜二つだったのだ。

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