第32回

「大丈夫?」と緋色が私の肩をゆすった。フラッシュバックに見舞われた私は、よほど青褪めた顔をしていたらしい。

「平気。ごめんね、続けて」

 箸で唐揚げを掴み上げようとしたが、情けないことに手が震えてしまって上手くいかない。緋色が見かねたように自分の箸で唐揚げを取り、私の口元へと持ってきた。

「あーんして」

 いつもの三人きりならどうということはないのだが、彰仁くんと同席している手前、少しだけ気恥ずかしい。私は遠慮がちに口を開けて唐揚げを受け取った。

「おいしい?」

「おいしい」

 答えてから、私は口元を紙ナプキンで軽く拭った。彰仁くんも薄く笑って、

「俺も食わないと勿体ないな。このままだとぜんぶ緋色に食われる」

「あんたにはしてあげないから」と緋色。

「頼んでない。おまえの勢いで食わされたら胃袋が破裂して死ぬ」

 彰仁くんはプラスチックのフォークをフライドポテトに刺すと、ケチャップをつけて頬張った。食べるペースはずいぶんゆっくりのようだ。小さく盛った炒飯にもほとんど手を付けていない。

「なんだっけ。そう――人形を演じてる以外にも、プリシラにはおかしな面があった。俺にとっていちばん謎だったのは、作詞作曲の仕方だ。なんのアイディアもないと言ったくせに、次の日になるとちゃんと持ってくる。曲が降りてきたから聴いて、っていきなり歌いだすんだ。どうやって作ってるのか訊いても、ただ寝て起きたら完成してたとしか言わない」

「天才的」と緋色がつぶやき、「ミステリアスなイメージを壊したくなくて隠してたんじゃないの?」

「俺も最初はそう思ったよ。でも違った。楽器もほとんどできなければ理屈も判らないままで、ただ頭のなかにある曲を歌って出力してる感じだったな。でも細かなアレンジ――このタイミングでこういう音が欲しいってところまで厳密に決まってるらしくて、絶対に譲らないんだ。俺はバンドで必要な楽器は一通りできるし、音のサンプル捜しにもとことん付き合ったし、合わせるときも目立とうとしなかったし、なにより逆らわなかったから、あいつには都合がよかったんだろうな。我を張る奴から順に首になって、俺が最後まで残った」

 他の楽器もできるんだ、と感心してしまった。できる、と明言するからには、ベースほどではないにしても、それなりの腕前なのだろう。

 自己主張しないマルチプレイヤー。どのバンドでも重宝される人材だろう。それにしても彼、作詞作曲もできるのだし、自分がフルにイニシアティヴを取りたいという気持ちはないのだろうか。

 そんな私のおせっかいな考えを読んだように、彰仁くんはきっぱりと、

「そこまで居残れたのはたぶん、相性というか、俺のスタンスが大きかったんだと思う。自分が見込んだフロントマンに寄り添うほうが性に合ってるんだよ。必要とあれば曲も作るしパフォーマンスもするけど、それはあくまでバンドをよく見せるためであって、俺自身はできるなら袖に引っ込んでいたいくらいなんだ」

 私は緋色のほうに視線をやった。表面的には相変わらずポーカーフェイスだが、やはり嬉しいのだろう、なんとなくそういう雰囲気を発している。自分が直接褒められたわけでもないのに反応するのはちょっと、と躊躇っている感じにも見えたので、

「見込んだフロントマンだって」

「ん? んん」とおかしな声をあげてから、緋色は慌てたようにストローを咥えてジュースを飲みはじめた。半分ほど入っていた中身が一息に空になって氷が音を立てると、彼女はようやく唇を離して、

「ありがと」

「どういたしまして。プリシラと一緒に出来なくなったのは残念だけど、ルビー・チューズデイでも勝るとも劣らない音楽をやれてる。このバンドに入れてよかったと思うよ、本当に」

「じゃあよかった。私からリーダーに伝えとく」と緋色は言い、すぐさま話題を引き戻すように、「それでけっきょく、プリシラの作曲の秘密はなんだったの? 私もかなり興味あるんだけど、同じコンポーザーとして」

 彰仁くんは吐息した。

「俺には最後まで判らなかったっていうのが正直なところ。寝て起きたらもう完成してるって言われてもさ、小人が手伝ってくれたのか? としか」

「私も一回ぐらいそうやって作ってみたいな」

彰仁くんは頷き、なにかを思い出すように視線を宙に泳がせてから、ただ本人が言ってたのは、と発した。

「自分は取引したんだって。そう言うんだ」

「取引?」緋色が繰り返す。

「誰と? 音楽の神様と? ってみんなで笑ってたけど、確かにあいつは、そういう類のものに取り憑かれたのかもしれない。じゃなかったら説明できないことが山ほどあった。今にしてわりと本気でそう思うよ」

 淋しげな口調だった。懐かしむような、惜しむような。私は思わず、

「ねえ、彰仁くんはプリシラとずっと上手くやれてたんでしょう? それなのにどうして、エクリプスは解散しちゃったの? ふたりきりでは続けられなかったの?」

 途端に彰仁くんの表情が硬化した。訊くべきではなかったのかもしれない。謝罪して取り下げようかと思いかけたころ、彼はぽつりと、

「病気だよ」

 私は彼の顔を見返した。

「原因はまったく不明。最初に出た異変は手だった。片手が動かなくなったんだ。これも起きたらいきなり、だったらしい」

 緋色が私に視線を寄越した。不安げなまなざし。私も連想せずにはいられなかった――佳音のことを。

「いくら検査しても判らずじまいだった。でもプリシラは、ほかはぜんぶ正常だからって、そのままバンドを続けたがったんだ。ヴォーカルだけ担当してればいいからって。手ぶらでステージに立つのは厭だって言い張って、それまではずっとギターを抱えてたんだけど、音はほとんど出してなかったから、音楽的な支障は確かになかった。けっきょく、俺は付き合うことにした。それが間違いだったのかもしれない。医者に判らないことが素人の俺に判るはずないのは理解してる。でも俺があそこで突っぱねて、無理やりにでも治療に専念させていれば、プリシラはああならずに済んだんじゃないかって」

 彰仁くんの声が次第に小さくなる。彼はごめん、とつぶやいてから、

「あるときプリシラのお姉さんが――姉がいたってことさえ、俺はそのとき初めて知ったんだけど――連絡してきた。槙奈が昏睡状態に陥った、と。今でも回復してない。ずっと、眠ったままだ」

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