第31回

 番号を確認して薄暗い部屋に入り、荷物を置いて電気を点ける。ビルの地下にあるカラオケボックスである。

 個室で、長く居座れて、他人を気にする必要もなく、泣き喚こうが怒鳴ろうが迷惑にならない、よって密談には最適、というのは緋色の弁だ。バンドの簡単な打ち合わせなどにも利用しているらしい。なるほど、という感じがする。

 彼女も彰仁くんもまだ来ていなかった。ジュースを飲みながらぼんやり坐っているのも勿体ない気がしたので、ひとりで歌うことにする。曲はスピッツの「スカーレット」にした。

 右手をマイクに伸ばしたとき、気づいた。

手の甲に傷跡がある。私はぎょっとし、そのまま固まってしまった。

 傷は薬指の付け根あたりから、手首の近くまで伸びている。痛みはまったくない。ほとんど完全に塞がってはいるが、まだ新しい傷のように見えた。

 眠っているあいだに引っ掻いた、という大きさではない。鋭利な刃物か、硝子片のようなものでざっくり切ったような跡なのだ。これだけの怪我をして、身に覚えがないということは考えられない。

 昨日の夜までは、絶対にこんなものはなかった。だとしたら――いつ付いた傷なのだ。

 扉が開いた。私は反射的に右手を背中側に廻した。

「あ、スカーレット」部屋に入ってきた緋色が少し嬉しげに言う。「歌わないの?」

「ああ、うん」と私が曖昧な返事をしているあいだに演奏が終わってしまった。三分ほどの短い曲なのだ。

 画面が音楽番組形式のコマーシャルへと変わり、女性アイドルが自分たちの新曲の宣伝をしはじめた。私は端末を引き寄せて、音量をゼロにした。

 部屋がしんと静まり返ると、緋色の背後から、元エクリプス、現ルビー・チューズデイのベーシスト、佐久間彰仁くんが姿を見せた。少しゆるめのTシャツと細身の黒いパンツという格好だった。彼はふたりぶんのグラスの容器を乗せたお盆をテーブルに置き、

「ちょっと遅くなった。ごめん」

「ううん、大丈夫」

 観客としてライヴで見たことはあっても、言葉を交わすのはこれが初めてだ。長身痩躯で繊細そうな顔立ち、という印象は変わらなかったが、漠然と想像していたより穏やかそうだと感じた。私は彼に向きなおって、

「時間取らせちゃってごめんね、来てくれてありがとう」

 彰仁くんは私の向かいに、緋色は隣に腰を下ろした。彰仁くんと簡単な自己紹介をしあう。ルビー・チューズデイの他にもバンドを掛け持ちしているそうだ。

「いま並行して活動してるバンドはデラメアっていうんだ。そっちでは俺も何曲か作曲してる。楽器はベースと、ときどきキーボード」

「デラメアって、ウォルター・デ・ラ・メアから採ったの?」

 イギリスの怪奇小説家の名前である。彰仁くんは眼を丸くした。

「元ネタが判る人に初めて会った。だから正式にはデ・ラ・メアって切って発音するべきなんだけど、誰もそう呼ばないから普通にデラメアで通してる。ルビー・チューズデイとはまた違った感じで……そうだな、キュアーとか聴いたことある?」

「キュアー、好き。さっきも『ディスインテグレーション』、電車で聴いてた」

「あれをもう少しハードロックに寄せたというか……よかったら聴いてくれると嬉しい。ライヴも定期的にやってるし」

 同志を得たとばかりに饒舌になりかけた彰仁くんに、緋色が視線を送って、

「女の子紹介するとは言ったけど、そういうのじゃないからね」

 今度は私のほうを見やり、

「伊月も。バンドマン、特にベーシストはやめといたほうがいいよ」

「判ってるよ」と先に彰仁くんが応じた。「今日呼ばれたのは、なんか真面目な話なんだろ」

 私は頷いた。どこからどう話したものか悩ましく、ぼやぼやしていると、

「ごめん。俺、少し腹が減ってるんだ。途中で店員に入ってこられるのもなんだし、先に注文だけ取っちゃってもいいかな。せっかくだし食いながら話そう」

 壁に備え付けてある電話のいちばん近くにいた緋色が、受話器を取った。平然と五人分くらいの料理を頼んだ彼女に向かい、彰仁くんが呆れ顔で、

「少し、って言っただろ。この時間からそんなに食えないよ、俺は」

「私は食べられる」

「それでおまえ、帰って夕食が用意してあったらどうするんだ。お祖母ちゃんがさ、今日はひいちゃんの好きなカレーにしたよ、とか言ってきたら」

「それも食べるよ。ていうか、なんで知ってるの?」

「なにを。カレーが好物って隠してたか?」

「じゃなくて。莫迦にしてる?」

「したつもりはないよ。『ひいちゃん』って呼ばれてるほう? 速水さんも片桐さんも知ってるよ、おまえが酔っぱらって勝手に喋ったんだから」

 私はくすくす笑いの発作に襲われた。緋色にお祖母ちゃん子な一面があるのは知っていた。ふだん両親の話はほとんどしないのに、お祖母ちゃんのことはよく話題にする。しかしその呼び方は――。

「知らなかった?」と彰仁くんが私に問う。「言わないほうがよかったかな」

「別にいいよ」と緋色が素気なく言い放つ。平静を保とうとしているらしいが、頬には幽かに赤みが差している。「事実だし。でも伊月、佳音には言わないで。絶対それで呼びはじめるから」

 やがて食べ物が来た。フライドポテトや唐揚げ、サラダ、炒飯などがテーブルにずらりと並び、部屋は宴会場のような有様になった。緋色は次々と皿を引き寄せながら、

「私からは、ほとんどなにも知らせてないから」

 ならば先入観がなにもない状態で話してもらったほうがいいかもしれない。私はコーラで唇を湿らせると、

「エクリプスの『月蝕』っていう曲について訊きたくて。作ったのは誰?」

 少量を取り分けたサラダをつついていた彰仁くんが顔を上げた。

「エクリプスの話か」

「厭なら、無理にとは言わないけど」

 彼は小さく掌を振り、

「そういうわけじゃないよ。ただ、知ってることはそんなに多くないからさ」

「メンバーだったのに?」

「うん。『月蝕』は、というよりエクリプスの曲は、作詞も作曲もヴォーカルがひとりでやってたんだ。ほかのメンバーは必要に応じて集められるだけだったから、バンドというより実質ソロプロジェクトに近かったかな。俺も雇われベーシストみたいな立場。わりと頻繁に起用されたから、ほかの連中よりは多少長く居た計算になるけどね」

「そうだったんだ。ヴォーカルの名前は? どういう人?」

 彰仁くんは少し迷ったように口を噤んだが、やがて、

「プリシラ。もちろん芸名だけど、みんなプリシラって呼んでた。純然たる日本人だよ。エクリプスがメンバーの内情を明かさずに覆面形式でやってたのは知ってる? ステージの外でもその延長だった。プリシラはとにかく個人情報を出したがらなかったし、メンバーにもそう要求した」

「じゃあ本名は判んないの? 名前すら知らない奴とやってたわけ?」と緋色が口を挟む。彰仁くんはかぶりを振り、

「さすがに名前ぐらいは聞いたよ。鷹取マキナ」

 取り出したボールペンで紙ナプキンに槙奈、と書きつけて、私たちに見せる。

「これがなんでプリシラになるのかは、ごめん、俺にも判らない。本名とは関係なさそうだしね」

「スペルは?」と私は訊ねた。「それともカタカナでプリシラ?」

 彰仁くんはボールペンの先をしばらく彷徨わせたあと、下に書き加えた。Priscilla。

「確かこうだった。このプリシラっていうのはただの芸名じゃなくて、なんていうのかな、キャラクターみたいなもので、あいつはそれを演じてた。プリシラとしての自分を元に作品を作るんだ」

「ボウイのジギー・スターダストみたいな?」と私。

「そんな感じかな。ただ、あいつの熱の入れ方は尋常じゃなかった。鷹取槙奈としての自分より、プリシラとしての自分が本物だと信じてるみたいだった。どのくらい入れ込んでたかっていうと――見てもらったほうが速いな。ちょっと待って」

 言うと、彰仁くんはポケットからスマートフォンを抜き出して操作しはじめた。やがて目当ての画像を見つけたらしく、私たちのほうに突き出してくる。

 緋色とふたりして画面を覗き込んで、言葉を失った。

 写っていたのは、完璧といっていいほどに均整の取れた、拵え物のような顔立ちの少女だった。あらゆる色素を人工的に抜き去ったと思うほどに膚が白い。

 美しいには違いなかったが、同時に恐ろしくもあった。ここまで人間のにおいのようなものを希薄化させることができるものだろうか。

「これ、弄ってる?」と緋色が怪訝な顔をする。

「画像を? それとも整形してるかって意味?」

「どっちも」

「画像はまったく弄ってない。本人を真ん前にして俺が撮った。それでもこういう写り方をするんだ。現実のプリシラもこのまんまだった。整形は――訊いたことはないな。生まれつきこの貌だったら逆に怖いから、たぶんしてたんだとは思うけど」

 彰仁くんはスマートフォンを一度自分の手許に引っ込め、新たな画像を表示させてまた私たちに見せた――。


 ……小振りな木製の椅子の上に坐った■■は、片側の肘掛けに体重を預けるように傾いで、脚を反対側へだらりと伸ばしている。骨格の浮いた、痩せ細った軀。関節の位置にある球体。肩幅が狭いせいで相対的に大きく見える頭部と、色褪せたような髪。……

 

 ……息を詰めた。真っ白い膚を晒した■■■■■が、舞台の中央に歩み出たのだ。完全に裸身の、■■■■■■だった。痩せた軀。色素を抜いたような長い髪。虚ろな瞳。

 どこかで見た。自分の記憶の奥底に棲んでいる■■だ――そう直感したのだが、理由も、無論その正体も判りはしなかった。私はただ陶然と、その姿を見つめていた。……


「判った?」と彰仁くんが低い声で言う。「これはジャケット用にって作ってきた写真だ。写ってるのはもちろんプリシラだよ。あいつが演じてたのは、人形なんだ」

「人形……」

 怖気が走った。そう、人形展に行ってからというもの、なにかがおかしいと思っていた。あのときの記憶が不明瞭なのを、酔いが残っていたせいだと思い込もうとして、ずっと眼をつぶっていたのだ。

 人形。月。夢。きっとすべてが繋がっている――私の知らないところで。

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