第30回
スーベニール・ダン・オータ・モンドを出てからは、漫然と駅のファッションビルを散策したりして時間を潰した。最初に入った書店で長く居座るつもりだったのだが、けっきょく数冊をぱらぱら捲ってみただけで、それほど時間が経たないうちに店を出てしまった。
楽器店に向かい、自分では弾けもしないエレキギターを眺める。深紅のテレキャスター、ムスタング……と、やはり赤い楽器の前で足が止まってしまうあたりは、刷り込みの力というほかはない。
それから自然とレンタルDVD店に向かいかけて、ひとりで可笑しくなってしまった。これは私たちが三人で来たときのお決まりのコースなのだ。私が本を買い、緋色が楽器を見て、佳音が得体の知れないB級ホラー映画を借りる。三人とも見たいものが違うのに、私たちは決して別行動を取らないのだ。固まったまま順番に、それぞれが行きたい店を巡るのである。
佳音が退院したら、また一緒に来よう。そのときは、ホラー映画の鑑賞にいくらでも付き合おう。
緋色との約束の時間までには少し余裕があったが、私はファッションビルから駅へと抜けて、電車に乗り込んだ。時間が中途半端なせいか、列車は空席が目立っている。
隅の座席を選んで坐り、イヤフォンを嵌めてオーディオプレイヤーにシャッフル再生を命じた。キュアーの「ディスインテグレーション」のイントロが流れはじめる。
ベースの太くゆっくりしたリズムに乗せて歌われる、ポップなのにどことなく愁いを帯びた旋律と、そこに絡む幻惑的なキーボードと、残響が甘く尾を引くようなギターの音色。
それほど長時間乗るわけではないのに、なぜか猛烈な眠気に襲われはじめた。ここで眠ったら乗り過ごしてしまう危険性が大なのだが、睡魔は抗いがたいほどに強まっている。
列車が停まり、女性らしき人影が乗車してきた。席はがらがらのはずなのに、なぜか私の真正面に坐る。
その膝のうえに、ゴシック・ロリータ風の衣装に身を包んだ少女の人形がちょこんと乗っていた。頬に割れ目が走っている。修理にでも出すのだろうか。
人形を抱えて電車に乗る人というのも珍しい――いや私だって鞄のなかにシャドウェルを入れているのだから人のことは言えないのだが、それにしても人形を持ったふたりが同じ車両で向い合せるというのは、どの程度の確率なのだろう、などとぼんやり考えた。
いつの間にか音楽は終わり、イヤフォンは沈黙していた。それだけではない。外界の音、電車の振動音さえもなかった。静寂の世界に呑み込まれてしまったかのように、いっさいの音が消え失せている。
やがてどこからか小さな声が聞えてきた。細くて高い少女のような声音。耳を澄ませると、抑揚をつけて歌っているようなのに、印象としては平坦で無機質だ。人間の歌声というより、オルゴールが鳴っているような感じに近い、とでも言おうか。
車内の音楽では無論ない。オーディオプレイヤーにそういう曲を入れていたわけもない。だとしたら誰かが歌っているはずだ。
信じがたい眠気のなかで、私の視線は向かいの席の人形に吸い寄せられた。その薄く小さな唇が、幽かに動いている。
ね、む、れ、よ、い、こ、よ。
眠れよい子よ――。
人形の子守唄。
今にも意識を失いそうになったその瞬間、軀の前で抱えている自分のバックパックがごそごそと蠢いているのに気がついた。中途半端に開いたファスナーから、オーディオプレイヤーのコードが伸びている。
ファスナーが内側から開かれた。道化師のシャドウェルがいつの間にか袋から脱走し、鞄のなかで私のオーディオプレイヤーを抱えているのが見えた。
彼は鞄を覗いている私に向けて片目をつぶってみせると、スイッチを操作した。
途端に、歌声――。
色彩を忘れた世界にふたりきりでも
目覚めの鐘 遠く鳴らしていた
がらくたの欠片を拾って築くような
馬鹿げた日を ずっと願っていた
風に吹かれて 消えてゆくもの
手を繋いで見ている
ルビー・チューズデイ。緋色の声にはっとし、眠気が吹き飛んだ。規則的な電車の振動と、流れていく窓の外の景色。
向かいの席にはもう、人形も女性もいなかった。がらんとした車内にひとりきりだ。
バックパックを開けて、また中身を覗いてみる。オーディオプレイヤーはシャッフル再生になったままだ。ルビー・チューズデイの曲がたまたま流れてきても、まったく不思議ではない。
シャドウェルは袋の外にいた。袋は口を留めていたテープが外れて横倒しになっている。軀が丸っこいので、ちょっとした振動で転げ出してしまうことは当然あるだろう。
私はしばらくのあいだ、じっと俯いて考え込んでいた。電車で短い居眠りをして、夢を見た。普通に考えればそれだけのことに違いない。
しかし――。そうと割り切れない気持ちが、胸のなかで燻っていた。
私は、本当に人形の子守唄で眠らされそうになったのではないか。眠りに落ちる間際のところで、シャドウェルが助けてくれたのではないか。
不意に「月蝕」の歌詞が泛んだ。フレーズを繰り返し、頭のなかでなぞる。歌詞はほとんど完全に暗記してしまっていた。
淡い世界 塗りつぶして 夢の中へと沈める
僕のそばに
背筋がうそ寒くなった。これはやはり、符合……ではないだろうか。
私は席を立った。また居眠りしてしまうのが怖くなったのだ。
吊り輪を掴んだまま、ただ祈るような気持ちで、目的の駅に到着するのを待ちつづけた。
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