第29回

 ――落下していく。その強烈な感覚と共に、目覚めた。

 寝汗でTシャツがじっとりと湿っている。髪がめちゃくちゃに乱れて、唇の端あたりに貼り付いていた。寝覚めとしては最低の部類だ。

 ぼんやりしている場合ではない。やるべきことがあった。私は布団を跳ね除けると、部屋の灯りを点けてすぐさま机に向かった。

 卓上には、「月蝕」の頁を開いた歌詞カードと、まっさらなノートを置きっぱなしにしてある。昨日の夜、緋色と電話で話したときのままだ。

 歌詞通り夢がなにかのヒントになるのではないかと思い、覚醒と同時に、覚えていることをすべて書き出すつもりだったのだ。

 ペンを握ってみて愕然とする。なにひとつ、夢の中身を思い出せないのだった。

 怖い夢だった、という漠然とした感覚はある。しかしそれだけだ。夢のストーリーも、登場人物も、なにも泛んでは来なかった。

 私は深く溜息をついた。夢が関わっているという確信めいた予感はあるのに、肝心の中身をなにも覚えていないのでは――。

 机に置いてあったスマートフォンのランプが点滅しているのに気づく。緋色から連絡が入っていた。ベーシストの彰仁くんに予定を確かめてくれたのだ。今日の夕方以降はふたりとも空きだとあったので、迷わずそこを指定して返信した。

 夢を覚えていなかったのは残念だが、他にも調べておくべきことはある。シャワーを浴び、着替えて支度を済ませると、引き出しから善き月のしるしを取り出して着け(相変わらず不器用なのでホックを止めるのに手間取った)、アパートを出た。

 電車に乗ってスーベニール・ダン・オータ・モンドに行った。お店の出入り口横には犬用の杭があったが、キャロルは繋がれていなかった。夏の昼間なので、涼しい店内に避難しているのだろうか。

「あ、伊月ちゃん。いらっしゃい」と未散さんが迎えてくれる。私の首元に善き月のしるしがあるのを彼女は喜んで、

「それ、すっごく似合うよ。やっぱり伊月ちゃんが貰ってくれてよかった」

 私は照れ笑いしてから、

「マスターはいますか? ちょっと訊いてみたいことがあって」

「ごめんね。ここ何日かずっといないんだ。キャロルも連れてっちゃって。連絡先とかもいっさい言わないし、いつ帰ってくるかも知らせないし――駄目な店主ですみません」

 そう謝った未散さんの口ぶりは、どこか奥さんか保護者のようだった。商売っ気がなさそうなマスターに代わって店を切り盛りしているのは、実質的には彼女なのかもしれない。

「マスターへの質問ってことで、私が伝えようか?」

「そうしてもらえると助かります。訊きたいのは、この石のことなんです」私は善き月のしるしを指さして、「これはどこで仕入れたどういう石なんでしょう。詳しく知りたいんです」

 うーん、と未散さんは悩んだような声をあげて、

「仕入れ先のことって本当に謎なの。商品についてお客さんに説明できなきゃ店員の意味がないでしょって言ってるのに、そんな必要はないって言い張って教えてくれないんだもん。持つべき者が現れるのを待てばいいって。それじゃお店の経営が成り立っていかないじゃんね」

 持つべき者、という言葉に気を引かれた。あのとき確かにそう言って、マスターは私にこの石を譲ってくれたのだ。ならば石はなんらかの働きをするはずだ――彼の見込み違いでなければ。

「スーベニール・ダン・オータ・モンドというのは、違う世界からのお土産という意味だと、マスターが言ってましたよね。違う世界っていうのはどこを指しているんでしょうか」

「アリス・リデルの不思議の国」

と未散さんが言い、私は「え?」と彼女を見返した。

「違う世界って実は、あたしたちの世界と地続きになってるのかもしれない。妖精はいないんじゃなくて、眼を持ってる人にしか見えないだけなのかもしれない。あたしたちの身近な場所に、もしかしたらあたしたち自身のなかにだって、不思議な世界は存在してる」

 未散さんは幼子に物語るような調子でそう続けると、急に笑顔になって、

「――ってマスターが言ってたよ。あくまでお店のコンセプトってことなんだろうけど、とにかくそういう思想でもって、この店の商品はセレクトされてる……らしいよ?」

 今度は私が、悩んだような声をあげてしまった。陳列された品物をぐるりと見渡す。その謎かけめいたコンセプトを頭のなかで反芻すると、ますます頭が混沌としてくる。

 未散さんがアイスコーヒーを出してくれた。店内の長椅子に坐らせてもらい、ちびちびと飲みながら考えを巡らせた。

 オータ・モンド、すなわち「違う世界」を「月蝕」の歌詞と絡めて考えたのは、ほとんど直感というか、こじつけのようなものではあった。しかしどちらにも「月」が関係していて、それらと私の関わりもまた、名前が「伊月」だからに留まるものではなさそうだ――というのも確かだ。

 マスターがなぜ私に石をくれたのか、石を持つべき者と判断した理由はどこにあったのか、知りたいことは無数にあったが、不在ではどうしようもない。

 未散さんも、善き月のしるしについての知識はほとんどないという。ただし、特別な石だから自分の許可なしに売ってはならないと、マスターに厳命されていたそうだ。

「そうだ、伊月ちゃん。関係ない話なんだけどさ、ちょっと見てほしいものがあるんだ」

 石についての会話が途切れたタイミングで、隣に坐っていた未散さんが立ち上がり、店の奥に引っ込んだ。戻ってきた彼女は、なにか丸っこいものを胸元に抱えていた。

 ぬいぐるみだった。太った道化師の姿をしていて、ユーモラスな表情だ。遊園地のお土産売り場にでも並んでいそうな感じだった。

「これ、あたしが作ったの。初めてにしてはいい感じじゃない? とりあえず形にはなってるし、顔もまあまあ可愛いでしょ?」

 ぬいぐるみを受け取って、まじまじと眺めてみる。道化師らしく帽子をかぶり、化粧が施されているという設定なのだろう、デフォルメの効いた顔立ち。白と紫を基調とした派手な衣装を着こんだ軀はクッションのように柔らかく、抱くと胸元にすっぽり収まってしまうくらいの大きさだった。

「可愛いと思います。でも、なんで道化師なんですか?」

 最初は道化師じゃなかったの、と未散さんはくすくす笑いながら言い、

「ちょっと気恥ずかしいといえば気恥ずかしい話なんだけど、子供のころ、テディベアを抱いて寝てたのね、あたし。その子のこと、すごく仲良しの友達だと思ってたんだよ。それを思い出して作ってたんだけど――なんかぜんぜん違う面白い顔になっちゃって、まるで道化師みたいだなって思ったら、そんな感じに」

 だから丸々としているのか。確かにテディベアならこんな軀付きだ。

「だからね、無理やりだけど、あたしの友達だった熊ちゃんの一部が、その道化師には宿ってるんだって思うの。子供のころ大好きだったものを、違う形で、自分の手で甦らせたんだってね。そう思ったら少しだけ誇らしいっていうか、作ってよかったなって気がした。もっといっぱい作って、もっと上手になって、賑やかしにでもお店に置いてもらおうかなあ、なんて」

「素敵です。きっと人気商品になります」

 私はまたぬいぐるみの道化師を見つめた。どこかで見たことがあるような気がしてきた――もしかすると私自身のなかに、こういうキャラクターが棲んでいるのではないかと思った。

「私がお客さん第一号になっちゃ駄目でしょうか。これ、買いたいです」

 未散さんは丸く眼を見開いて、

「ほんと? でもそれ、試作品だよ? もっと出来のいいやつ、なんだったら、伊月ちゃんの好きなやつをまた作るけど」

「これがいいです。記念すべき第一号が」

 未散さんは頷いてくれた。値段を聞いたら、思っていたより遥かに安い。ほとんど材料費にしかならないのでは? と思ってしまうくらいだった。

 ぬいぐるみは、お店の袋ごと私のバックパックに入った。店の出口まで私を送りながら、「マスターが帰ってきたら、石のこと聞いておくから」と未散さんが改めて言ってくれる。手を振って歩き去ろうとしたとき、

「あ」と未散さんがなにかを思い出したような声を発した。私は振り返り、

「どうかしました?」

「えっとね、どうしようかな。言ったほうがいいのかな」頬に人差指を当てている。「ぬいぐるみ、いちおうね、名前があるの。でも新しい持ち主に新しい名前を付けてもらったほうがいいのかなあ」

「教えてください。参考までに」

 未散さんは微笑し、

「シャドウェル。変わった名前でしょう? でもシャドウェルなんだ、あたしのなかでは」

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