第28回

 身を強張らせながらも、必死で相手の軀にしがみついた。風に煽られ、ばたばたと雨に打たれるような音を立てながらドレスがはためく。恐る恐る視線を落とすと、人形館の屋根ははるか下方へと去っていた。

 遊覧船での飛行とは比べ物にならない恐怖感だ。なにしろ足の踏み場がない。生身のまま空中を彷徨っている――その感覚が私を怯えさせ、軀が勝手に震えはじめた。

「暴れないでよ。落ちたいの?」

 仮面に遮られているせいか籠ったような声で、グリフィンはそう私に命じた。少年のものとも少女のものとも取れる、性別不明の響き。

「じっとしてる。落とさないで」

 黒尽くめの服をぎゅっと握りしめると、びりびりと痛みを感じた。右掌を切っていたことを、ようやく意識した。おそらくまだ血が止まっていない。そう気がついた途端、手に力が入らなくなってきた。

 グリフィンの腕が私の腰に廻って、下から支えられる。黒い鷲のような翼を羽ばたかせて、空中で体勢を立て直すと、またすぐさま加速する。人ひとり抱えたままだというのに、滑るような速さだ。人形の街の奇妙な建物の群れを、あっという間に飛び越していく。

「月がだいぶ翳ってきた。あんまり時間がない」

 グリフィンの言葉通り、眼前に見える蒼く巨大な三日月は細まり、大部分が黒く欠けていた。この国に来たばかりのときは確かに、下半分くらいは残っていたはずなのに。

「あなたはまだ取引していない。今なら元の世界に帰してあげられる」

 え――? と一瞬、思考が空白になった。

「待って。教えて。取引ってなんなの」

「デイジーは人間に望むものを与えて、その代わりに軀の一部を奪うんだ。奪われたままでいると、そのうち全身を人形に変えられる。そうやって人間を支配するのが奴の目的」

 じゃあ最初から――招待状を送ってきたのは、私たちを人形にするためだった、ということなのか。


 ……私自身です。鏡に映ってるっていうか――ピンホール? あんな感じで逆さになってるんです。それだけならまだ判るんですけど――どう見ても人形の姿で。……

 

 頭のなかで、聴きなれた声が響いた。佳音の声だ。続いて、脳裡にある光景が泛びあがる。黒い裂け目のあいだから覗き込んだ向こう側には私がいる。人形の姿になって。

 背筋が冷たくなった。私も見ていたのだ――人形になった自分を。

「元の世界に帰りたい。帰れるの?」

「私の言うとおりにしてくれれば」

 どっと安堵がこみ上げたが、グリフィンの言葉には一点、引っかかったところがあった。

「でもさっき、あなたは、って言ったよね? 佳音は? 佳音も一緒に帰れるんだよね?」

 沈黙。グリフィンは吐息して、

「あの子はもう取引した。だからあなたと一緒には帰れない」

 そんな――と声が洩れた。私の動揺を読み取ったのだろう、グリフィンは言い聞かせるように、

「軀のパーツを奪われたままじゃ帰れないんだよ。でも大丈夫、私が隙を見て取り返すから。後から必ず、友達も帰してあげる。約束する」

「取り返すって?」

 グリフィンは小さく笑い、どこか自嘲的に、

「だから盗むんだよ。奴らが私のことを盗人呼ばわりするのはそういうわけ。取られたものを取り返してるだけなのに、随分な言われようだ」

 そうだったのか、と思う。グリフィンが盗む「デイジーの所有物」とは、契約した人間が代償として奪われたパーツのことだったのだ。

「本当はもっと早く帰すべきだった。でもあなたたちがずっと人形館にいたから、私も迂闊に手が出せなかったんだ。遊覧船に乗ってくれたときはチャンスだと思ったけど――失敗した。あそこで船が墜落しなければ上手くいってたのに」

「ちょっと待って。船を落としたのはあなたじゃないの?」

「私じゃない。私は人形の手足を狙って動きを封じただけで、船自体への攻撃はしてない」

「じゃあどうして墜落したの? アルマは動力部をやられたって言ってたけど」

「さあね。船の動力部なんか、いちばん厳重に守られてるところでしょう? 動力部を見つけ出して、何重にもなってる装甲を破って……そんな暇があったと思う?」

 まあいいや、とグリフィンは自ら話題を打ち切った。

「とにかくあそこでヘマしたから、人形館に突入せざるを得なくなった。私にとっても危険な賭けだったんだ。でも今度はあなたを救い出せた。次は友達も助ける。絶対に」

 自信に満ちた口調でそう言うと、グリフィンは徐々に高度を下げはじめた。着陸するつもりらしい。

「だからあなたは安心して帰って。そしてもう二度と、人形の群れに近づかないで」

「待って」

 私はグリフィンを制した。唇が震えている。しかしここで決めなければ、もう機会はないのだ。深呼吸して、それからなるべく明瞭に聞えるように、言った。

「やっぱり私、このまま帰るわけにいかない」

 は、とグリフィンは強く息を吐いた。言葉を失ってしまったらしい。

「莫迦なこと言わないで」とようやく、愕然とした調子でグリフィンが応じる。仮面の上からでも、困惑しているのが見て取れた。

「莫迦でもなんでもいい。でも佳音を置いていけない。私は残る」

「あなたひとりで残ってどうするの? 私が助けなかったら、今ごろどうなってたと思う?」

「それは判ってる。でもパープルヘイズ――人形の幽霊と、ドロテアが私に言ったの。おまえは人形の国を救うんだって。ぜんぜん信じられないけど、私になにか、ほんの少しでも力があるなら、逃げ出すわけにいかない」

「幽霊と蛇の親玉の言うことでしょう? どうしてそう莫迦正直に信じられるの? あいつらだって人形の国の住人なんだよ。適当に言いくるめて、あなたを留まらせようとしてる可能性だってあるでしょう?」

「そうかも」と私は素直に認めた。「ここであなたの言うことを聞いて帰るのが、たぶん正解なんだと思う。帰らなかったら、きっと死ぬほど後悔する」

「だったら帰りなよ。私のことが信用できない?」

 私はグリフィンの服を握る掌に力を込めて、

「信用する。命の恩人だもん。でも佳音を置き去りにして帰ったら、死んだ後も絶対に後悔する。だから残る」

 グリフィンの仮面がじっと私を見下ろした。私は眼を逸らさずに見つめ返した。やがてグリフィンは小さくかぶりを振り、

「そう。じゃあ望み通りにしてあげる」

 黒い翼が大きく広がり、途端に私たちは急上昇した。凄まじい速さで、もと来た方角へと転じる。過ぎ去ったはずの風景が眼下に甦り、すぐさま飛び去っていく。

 蒼白い月光は衰え、ただ弱々しくあたりを照らすばかりになっていた。やがて視線の下を、また人形の街の景色が支配しはじめたが、その建物の影は黒々として、異形のオブジェが地から突き出しているようにしか見えない。

 人形館が迫った。ずっと黙っていたグリフィンが、鋭く、

「せめて墓場に落としてあげる。幽霊と上手くやることだね」

 途端に宙へと投げ出され、ふっと重力が消えた。私の軀はぐんぐん勢いを増しながら、どこまでも、どこまでも、深い闇に向かって――。

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