第25回

 ドロテアの話が終わった。訊き返したいことはいくつもあったが、

「まず質問に、私の知る範囲でお答えします。あなたたちの感じた気配はおそらく、黒い月の呪いによるものです」

「それはなんだ」とドロテアが寒々しい眼を見開いて私を見据える。

「私も、居合わせたわけではないので詳しいことは判りません。人形の幽霊たち――人形の街には墓地があって、死んだ人形たちの幽霊がいるんです。彼らが、私に教えてくれました。かつて人形の国に黒い月が訪れて、デイジーを狂わせた。その呪いは今でも続いているのだと。デイジーはそのせいで、自分の所有する人形たちを毀すようになったのだそうです。私もこの国に来てから何人かの人形と接触しましたが、全員が、デイジーに毀されることを望み、楽しむような価値観を持っていました」

 なんだと、とドロテアは唸るように言い、

「それが真実だとしたら、赦されることではない」

 ドロテアの髪の蛇がいっせいに鎌首をもたげ、牙を剥き出した。

「私とて人形の主だ。主が己を慕う人形を毀すような真似を、見過ごすわけにはいかない」

 冷たい声だった。ドロテアが怒りを鎮めるように、長く息を吐き出す。やがて蛇たちも温和しくなった。彼女はこちらに身を乗り出してきて、

「もう少し詳しく教えてもらおう。黒い月のためにデイジーは発狂した。その月が出ているあいだはもっと恐ろしいことが起きていたのだろうが、今やその月は去り、人形の国は表向きには平和を保っている。しかし呪いとして、持ち主が人形を毀す、狂った価値観が残った。そういうことだな? では、黒い月が退いたのはなぜだ?」

 ドロテアの呑み込みの速さに、私は愕いた。しかし考えてみれば、彼女も長く人形の国にいるのだ。蛇たちによる独自の情報網も持っているだろうし、自身の鋭敏な感覚を通じて察していたこともあったに違いない。私の話がそこに上手く嵌ってくれたのだろう。

「信じていただけるか判りませんし、私自身も本当なのかなと思っているくらいなのですが、悪しき月を祓ったのは人間の来客――私の祖父だったそうです。そして近いうちに訪れる黒い月の復活を止めてほしいと、幽霊は私にそう言いました」

「なるほど」とドロテアは低い声で言い、「おまえの祖父が一度この国を救ったというわけか。信じよう。おまえが普通の人間ではないとは、薄々感じていた」

「平凡です。私にはなんの力もありません」

 ドロテアはふふ、と小さく笑い、

「私はただの人間にも、ただの人形にも興味はないのだ。おまえは人形の国の異変に気づき、月の呪いのことを知り、この私に伝えてくれた。それがおまえの力でなかったら、誰の力だ? おまえは特別な人間だ。おそらく祖父と同じように、再びこの人形の国を救うのだろう」

 私は俯いた。本当は、佳音と共に一刻も早く元の世界に帰りたいだけなのだ。自分が人形の国を救うという話は、まるで現実味を伴わない。パープルヘイズもドロテアも、なにか見込み違いをしているのだ――そう思いたかった。

「もうひとつ質問だ。月の呪いを解くにはどうすればいいと思う?」

「……水色の月を完全に取り戻す必要があるんじゃないでしょうか。今は半分しかないでしょう?」

 短い沈黙があった。それからドロテアは満足げな声で、

「われらと同じ意見のようだ。土の下から出てきて、真っ先に気がついた。あの忌まわしい気配には月が関係していたらしい、と」

「でもそれ以上のことは、ごめんなさい、私には判りません」

 ドロテアは高笑いし、明瞭な口調で、

「私にだって判らないさ。だが、われらが邂逅したことで、確実になにかが前へと進んだ。そうだろう?」

 意外な前向きさに愕いた。ドロテアは嬉しげに微笑んでさえいるように見える。

「そうかもしれませんが……自分がどうしたらいいのか、見当もつかないんです」

「では私から頼みごとをしよう。おまえはこれから壁の内側へと戻り、そこで起きていることを見聞きして、私に伝えてほしい」

 頼みごととは言うが、実際はほぼ命令である。イエスと答えるしかない。

 ふと思った。彼女に会いに、また戻ってこないといけないのだろうか。再びひとりでここまで来るというのは――。

 不安に襲われた私の先回りをするように、ドロテアは短く、

「戻る必要はない」

 彼女はまた、しゅうしゅうと蛇の言葉を発した。長机の下あたりから、小指の先ほどの大きさしかない白い生き物が這ってくる。虫かと思ったが、ちゃんと蛇の形をしている。

 机の上で、小さな蛇はきょろきょろと周囲を見廻すような動作をした。身をくねらせながら、するすると私のほうへ近づいてくる。

 私のすぐ目の前まで来ると、軀をぐっと縮め、ぴょん、とこちらへ跳躍した。身を躱す間もなく、蛇は私の胸元に飛び込んで――消えてしまった。

 なんの感触もなかった。軀に触れる寸前に消え失せたとしか思えなかった。

 ドロテアは困惑している私に向け、

「おまえに一匹、蛇を取り憑かせた。おまえの見たことは、その子を通して私に伝わる」

「え」指先で咽から胸のあたりを擦ってみた。なにも変化はない。普通の軀だ。どこにどんなふうに取り憑いているのか――。

 さて、とドロテアは言い、すっと立ち上がった。「そうと決まれば、おまえを壁の向こうへ送っていかねばならないな。おいで」

 私は命じられたままに、若干ぎくしゃくした動きではあったが、ドロテアに歩み寄った。私と向かい合うと、彼女は私の頬を両手で挟み、口づけせんばかりに顔を接近させて、

「勇敢な娘だ。いざというときは必ず、私が力になってやる」

 ドロテアは手を離し、二、三歩後ろに下がった。髪の毛の蛇が猛獣のたてがみのように大きく広がっている。

「おまえが気に入った。私の本当の姿を見せてやろう」

 そう言うなり、ドロテアの髪の毛の蛇が伸び、ますます伸び、その軀をすっぽりと包み込んだ。数えきれないほどの蛇が寄り集まり、分厚い層を成していく。壁の蝋燭の灯りを跳ね返しながら這い回る蛇たちの動きは、おぞましくもどこか蠱惑的で、私は眼を逸らせなかった。

 再び蛇たちが左右に分かれたときには、ドロテアの姿はそこになく、代わりに、双眸を爛々とさせ、耳まで裂けた口に鋭い牙を生やした、巨大な首だけがあった。

 これが本当の顔?

 かろうじて女性の面影を留めてはいるが、その顔立ちは人間のものとは掛け離れていた。能面の真蛇のような四白眼で、顔全体が鱗に覆われている。白と青と紫がまだらになった、毒々しい色彩だ。口からは二股に分かれた太く長い舌が覗き、独立した生き物のようにぬらぬらと蠢いていた。

 首がびっくり箱のように高々と持ち上がり、天井近くから私を見下ろした。支えている胴体もまた完全に大蛇のものに変化してしまっているようで、手足の痕跡はもはやどこにもない。メデューサとヒドラが合成したような、その悪夢めいた姿に、私は声をあげることもできなかった。

「恐ろしいだろう。元々が邪神像だからな」

 咽の奥で複数の声が重なりあったような、奇妙な声音だった。ドロテアはずるずると長い軀を引きずって、私を包み込むように蜷局を巻く。

 頭髪の蛇の一匹が、背中と膝の下に滑り込んできたかと思うと、私は軽々と宙へ持ち上げられていた。反射的に身を固くする。

 ドロテアの背中というべきか首筋というべきか、蛇が生えている付け根のあたりに乗せられた。彼女が少し頭を下げて、私の坐った場所が水平になるようにする。

「掴まっていろ」

 ドロテアが言い、次の瞬間、彼女の巨体が滑るように走りはじめた。あっという間に神殿の階段を上りきり、外へ出る。その勢いのまま、私たちは城壁へと突進していった。

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