第23回

 着地の衝撃――地面に触れて一瞬跳ねあがった船が、船腹を地面にこすり付けるようにして滑っていく。けたたましい音を立てながら、ドリフト走行じみた勢いでカーブし、やがて停止した。

 船はだいぶ斜めになっているものの、倒れずに踏ん張っている。錐揉み回転の末にぺしゃんこになる惨事は回避できたらしく、私は深く安堵した。

 手摺と一体化させんばかりの強さで握っていた掌を、ゆっくりと離す。赤く跡が残っていたが、大きな怪我はないようだ。開いたり閉じたりしてみる。ちゃんと動くことに感動し、泪が出そうになった。

 船は草地に着陸していた。城壁からはだいぶ離れてしまっているが、船体への衝撃のことを考えたら、ここがベストな選択だったのだろう。私は甲板から梯子をつたって地面に降り、船の正面へと廻った。「アルマ? 大丈夫?」

「あ――え――」と寝惚けたような応答。気を失っていたのかもしれない。「アルマ?」

「莫迦。下りちゃ駄目だ」途端にアルマの絶叫が降ってきて、私は身を固くした。「ここは『蛇の吐息』なんだ。これだけ派手にやらかしたら間違いなく――」

 しゅうしゅうと息を吐き出すような音が背後からした。半ば反射的に振り返ってしまって、心臓がひっくり返るかと思った。

 巨大な蛇の化物がこちらを見下ろしていた。高くもたげた鎌首だけで、ゆうに三メートルはある。開いた口にはずらりと牙が並んで、ちろちろと毒々しい紫色の舌を覗かせていた。頭部の横には襟巻蜥蜴を思わせる襞があり、金属同士を擦りつけるような鳴き声があがるたびに、左右に広がって震えている。全身は細かな鱗で覆われ、月光を浴びて艶めいていた。

 その横にもう一匹、蛇と鶏の中間のような生物がいた。極端に大きな頭部には鶏冠と喉垂れがあり、嘴には鋸状の牙が生えている。爪のある太い後脚で軀を支えており、体高は二メートルほどだが、長い尾を含めると全長四、五メートルはありそうだ。

 バジリスクとコカトリス――なのだろう。なにせここは人形の国、クリーチャーのフィギュアだって立派な人形なのだから、いても不思議ではない。

 思考は冷え切り、冴え冴えとしてさえいたが、軀は完全に硬直して、まったく動いてくれなかった。武器はパチンコしかしないし、戦うのは論外である。かといって、逃げて逃げおおせる可能性もないだろう。

 不用意に船を下りるべきではなかった。私は自分の浅はかさを呪った。

 甲板の上ならもう少し、時間稼ぎは出来たかもしれない。もっとも、壊れた船を包囲されてしまったら、それまでだろうけれど。

 怪物たちがじりじりと近づいてくる。私は固く眼をつむった。

「ドロテア」アルマの叫び声に、眼を開く。

 二体の怪物たちが道を開けるように、左右へ退いた。そのあいだを、驚くほど長身の女性が歩いてくる。

 外観は人の形をしているが、ギリシア神話のメデューサのように、髪の一本一本がすべて蛇で出来ている。幽鬼のように白い膚。冷たい双眸。蛇の頭部を模した奇怪な冠を被っているのは、彼女が蛇たちの長である証だろうか。

「デイジーの人形か。われらの地を侵すとは、なんのつもりだ」

 アルマが船の舳先から飛び降りてきて、私の隣に着地する。「グリフィンにやられたんだよ。あの忌々しい盗人のせいで船が落っこちて、仕方なくここに不時着したんだ」

「ほう」とドロテアは眼を細め、「その大層な船が、盗人一匹に落とされたと」

「そうなんだ。悔しいけど、盗人一匹に負けたんだよ。ドロテア、あいつを殺してくれない? もし殺してくれるなら、デイジーに掛け合ってもいい。あんたをデイジーの人形として迎えるようにって――」

 アルマの訴えは最後まで続かなかった。ドロテアが髪の一本を伸ばし、信じがたい速さで彼女の軀に巻きつけ、宙へ高々と持ち上げたのだ。

「おまえたちの主は、たかが盗人一匹始末できずに、この私に泣きついてくるのか? 互いの棲み処に足を踏み入れないという誓いを、忘れたわけではなかろうな」

「忘れてない――忘れてないよ――でも緊急事態なんだ。急を要する場合にはその限りじゃないって――そうだろ?」

 ふん、とドロテアは鼻を鳴らし、興味を失ったかのようにアルマを放り出した。どさり、と音を立てて彼女の軀が落下する。

「今さら蛇でなくなるのは御免だ。自分たちで方を付けることだな。デイジーにそう伝えろ」

 起き上がったアルマに向けてドロテアがそう言い、続いてしゅうしゅうという音がその唇から発せられた。

 これはきっと蛇の言葉なのだ。ドロテアが怪物たちになにかを命じているのだろう。

 音がやむと、彼女は普通の言葉で、

「おまえが城壁に帰りつくまでは手出ししないようにしてやる。そのがらくたも特別に、一緒に帰してやろう。われらの寝床に置き去りにされては邪魔で仕方ないからな」

 船ががたがたと揺れたかと思うと、ほんの少しだけ地面から持ち上がった。眼を凝らすと、船腹の下でなにかが無数に蠢いているのに気づいた。

 ぞくりとした。小さな蛇の群れなのだ。

 アルマは心底厭そうな眼で自分の船を見つめたが、さすがに文句は言わなかった。私に向きなおり、「長居は無用だ。さっさと帰ろう」

 頷いて、彼女に追従しようとした途端、私の眼前にバジリスクとコカトリスが飛び出してきた。明確に進路を遮られた格好だ。

「ひあ」と声がひっくり返った。ドロテアが悠然と歩み寄ってきて、私の傍らに立つ。

「どういうつもりだよ」と先に行きかけていたアルマが振り返る。睨みつけるような眼をした彼女に向かい、ドロテアは断定的な口調で、

「帰すのはおまえと船だけだ。この娘は置いて行ってもらおう」

「ふざけんな。妖精の射手だぞ」

「そんなことはどうでもいい。なに、取って食いはしないさ。ただ訊きたいことがあるだけだ。話が済めば送り返してやる」

 ドロテアの髪、蒼白い蛇が私の肩に絡み付いて、ぐいと引き寄せられた。髪の毛一本とはいえ、どう見ても生きた大蛇だ。その怪力。

 首筋を這う舌の感触。

「アルマ、お願い。言う通りにして」卒倒しそうになりながら、どうにか懇願した。自分の唇がとめどなく震えているのが判る。

 アルマが舌打ちした。憎々しげに拳を握ると、次の瞬間、彼女は大音声で吠えた。

「莫迦鳥も、糞蛇も、みんなくたばりやがれ」

 長く息を吐き出すと、彼女は私に背中を向け、荒野を走り去っていった。一度もこちらを振り返らなかった。

 アルマの後姿が遠ざかって、米粒ほどにしか見えなくなると、首に巻きついていた蛇が離れて、私の軀はようやく自由になった。二匹の怪物たちも下がった。力が抜けて、そのまま地面にへたり込んでしまう。

「さて」とドロテアが満足げに言う。彼女は唇を湾曲させ、「着いておいで。歩けないなら蛇に運ばせてやるが、どうする」

 息を止めて、足腰に力を込めた。どうにか立てた。膝ががくがくと笑っているが、私は出来る限りきっぱりと、「歩けます」

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