第22回
窓から外を覗き込むと、人形の街を見下ろせた。くねくねと捻じれながら伸び上がる建物が密集し、窮屈そうに感じられる。歩いていたとき以上に雑然として見えて、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのようだ。
「ただいま本船は、ねじまき塔駅を出ました。次は空中庭園へと向かいます」
さっき上ってきた階段はねじ山というわけだ。確かに逆さに突き出したねじの形である。
船は深呼吸するように上下しながら、ゆったりと空を進んでいく。そう高い場所を飛んでいるわけではないので、道を行く人形たちがときおり船を見上げて指差したり手を振ったりしている様子も判った。窓から身を乗り出して応じている乗客もいた。
「一周して戻るのに、どれくらいかかるのかな」
独り言半分、少年への問いかけ半分で発すると、「時計の針一回りだよ」と女の子の声が聞えた。前方からだ。首を伸ばして見廻してみたが、乗客の誰かが答えてくれたという感じでもない。
「自己紹介が遅れたね。私はこの船の舵取りのアルマだよ。一番前で竜の角を握っているよ」
竜の頭に跨っていた人形は飾りではなかったらしい。私は声のしたほうに向かって、「ありがとう。安全運転してね」
「どういたしまして。基本的にこの船は安全だよ。遊覧船だからね」
空中庭園は、青々とした木々に囲まれた、石造りの群島だった。小さな島と島のあいだに橋が渡されていて、すべてが繋がっている。遊歩道や屋根付きベンチのある島、花が咲き乱れている島、刈られた垣根の迷路がある島などさまざまだ。下からなにかに支えられているのだろうが、船の窓から眺める限り宙に泛んでいるようにしか見えない。何人かの人形がひょいと下船した。乗ってくる人形はいなかった。
船が庭園を離れ、窓の外の景色はまた背の高い建物の屋根ばかりになった。
「さっき降りた人形たちは、この船が戻ってくるまでは帰れないの?」と私は少年に訊ねた。
「空中庭園はとても人気のある場所だから、いろんな船が通るんだよ」
「ほかにも遊覧船があるんだ」
「もちろん。亀の甲羅の船とか、二枚貝の船とか、鯨の船とか」
挙げられたものに想像を巡らせながら、「そっちも楽しそうだね。みんな船旅が好きなの?」
「遊ぶのが好きなんだよ。この国ではみんな楽しく遊ぶんだよ」
「あなたはどういう遊びが好き?」
少年の丸い眼が輝いた。彼は即座に、
「もちろん、デイジーと遊ぶのが一番さ」
予期していた答えではあった。この国に住む人形たちの基準はやはりデイジーなのだ。私は細く息を吐きだしてから、
「デイジーとはどういう遊びをするの?」
「それはデイジーの気分にもよるけど――最近は毀されることが多いね。僕を毀しているときのデイジーはとっても楽しそうなんだ。デイジーが楽しいと僕も幸せなんだ」
双子と同じ価値観だ。「ほかのみんなもそうなの?」
「当然だよ。僕らはみんなデイジーの人形だもの。君だってそうだろ?」
私は慌てて頷き、「そうだね」
少年から眼を逸らして窓の外に視線をやると、遠くの屋根に小さな影が見えた。最初、煙突かなにかだと思ったのだが、どうやらそうではなかった。二本足で立った人影が、じっとこちらを見ているようなのだ。
「あれ、なんだろう」
唐突に走り出した。あっという間に加速して――飛んだ。大きく黒い翼を広げ、急上昇する。建物の群れを飛び越して、こちらへ近づいてきた。この船とは比べ物にならない速さだ。瞬く間に距離が縮まっていく。
途端に影が消えた。空気をリズミカルに打つような音だけが響く。鳥の――巨大な怪鳥の羽ばたきのようだ。
窓の下からぬっと、なにかが突き出してきた。私は咄嗟に、身を庇うように腕を交差させた。
腕の隙間から一瞬だけ見えた。黒い仮面。一見鳥をモチーフとしているようなのだが、長くカーブした鋭い嘴と、角のような突起が一対生えており、それはまるで――。
……肩から鷲のような羽を生やし、また奇怪な仮面をかぶっていて、正体がよく判らない。■■を勾引かす悪漢? しかしその手足、軀つきは優美な肉食獣のようにしなやかで、仮面の下には美少年、あるいは女性の貌が隠されているのではないかと想像させるようだ。……
「グリフィンだ!」と乗客の誰かが叫び、私の幻視――デジャ・ヴめいた感覚は断ち切られた。
次の瞬間、だん、と衝撃が走った。悲鳴。船が僅かに傾いた。影がぐんぐん遠ざかり、やがて空中で止まった。グリフィンが遊覧船の横腹を蹴り、その反動を利用して飛び離れたのだ。船と一定の距離を保ちながら、並行して追いかけてくる。
人形たちが雪崩のように押し寄せ、窓から身を乗り出した。
「奴を殺せ!」
「ありったけの物を投げろ」
「撃ち落とすんだ」
偏った重さのせいで船がまた傾いた。私は必死の思いで前の座席の手摺に縋りついた。
人形たちは意にも解さない様子で、本当に窓から次々と物を投げつけはじめた。怒号と共に、靴や、荷物を入れたままの鞄や、空き瓶が宙を舞う。
しかし遠すぎた。グリフィンの元にはひとつも届かないまま、ばらばらと落下していくばかりだ。
人形たちの攻撃などどこ吹く風で、グリフィンは軽やかな身のこなしで船を追ってくる。速さといい滑らかさといい、常識を遥かに超えていた。空中から何の予備動作もなしに屋根へと下り、別の屋根へと飛び移ったかと思えば、次の瞬間には翼を広げて舞い上がっている、といった調子で、私などには魔法使いなのだとしか思えない。流麗でいて予測できないその動きに人形たちは翻弄され、苛立ち、ますます怒りを募らせている。
「グリフィン、盗人め」とアルマの忌々しげな声が船内に響いた。「今度こそ息の根を止めてやる」
床に押し付けられんほどの落下感――いや、船が急速に浮上したのだ。空を駆け上がるその凄まじい勢い。遊覧船の殻を破り、竜の船が本性を剥き出しにした瞬間だった。
「奴を生きて帰すな」
人形たちが太い雄叫びをあげた。叫び声はやがて、殺せ、殺せ、殺せ……という合唱へと変わっていく。
私は狼狽していた――彼らの豹変ぶりに。和やかに遊覧飛行を楽しんでいたはずの人形たちがみな、瞳を爛々とさせながら熱狂した声をあげている。その残酷なシュプレヒコールを、私は聞いていられなかった。
「食らえ」アルマが絶叫する。船内に連続的な衝撃が走った。人形たちがよろめく。私の鼓膜はびりびりと震えた。何本もの細い煙が、ひゅるるるる――と長く尾を曳くような音を立てながらグリフィンへと向かっていく。
真っ白い閃光が空を照らし出した。凄まじい破裂音。
時計台からもうもうと煙が立ち上っている。グリフィンの姿はどこにも見えない。
当たった? 爆発に巻き込まれた?
だん、だん、だん、と三度、立て続けに打撃音が響いた。アルマが新たな弾丸を放ったのかと思ったが、違った。あああ、と泣き叫ぶような声に振り向くと、人形が三人、腕や足をナイフで壁に釘付けにされていた。
傍にいた人形が駆け寄り、引き抜こうと手を伸ばす。なにが起きたのかまるで判らぬまま、私はただ茫然とその様子を眺めていた。
鋭い風に頬をなぶられた。そう感じた。仲間を助けようとしていた人形もまた悲鳴を上げ、どさりと後ろざまに倒れた。その掌にもナイフが突き刺さっている。
反射的に頬に手を触れた。血は出ていない。ただ切れた髪の毛が数本、指先にくっついていた。
空中にまた黒い影が生じた。近い。グリフィンだ――やはり先ほどの爆撃を躱していたのだ。交差させた両腕の指のあいだに挟んだナイフが、私の眼にも確認できた。
船が大きく傾ぐ。軀が強く引っ張られるような感覚と共に、グリフィンの姿が遠のいた。「ちくしょう。あいつ、ナイフ投げの技を持ってやがる」アルマが毒づいた。「これじゃ近づけない。かといって莫迦でかい大砲の弾じゃ遅すぎるし――」
「落ち着け」と声を張り上げながら、搭乗員のルースが客室にやってきた。「みんなよく聞いてくれ。グリフィンのナイフ投げは脅威だ。本船は奴から距離を取る」
人形たちが口々に反論する。
「逃げるのか」
「ここまでやられて、黙っていられるか」
「あいつを殺すまでやるわよ」
「奴の手足を蛇の玩具にしてやれ」
静かに、とルースが乗客たちを制した。彼は大きく両腕を広げ、
「逃げるなどとは言っていない。われわれは断固としてグリフィンと戦う」
ルースはそこで言葉を切った。喝采が起こる。人形たちが静まると、彼は力強く、
「この船にはただひとり、グリフィンに対抗できる者が乗っている。そう――妖精の射手だ」
船内がまた騒がしくなった。ルースが靴音を高らかに響かせながらまっすぐ私の元に近づいてきて、
「妖精の射手。グリフィンに一泡吹かせられるのは、あなたしかいない」
人形たちの首が一斉に、ぐるりとこちらを向いた。人形の眼、眼、眼――。
咽の奥で起きた悲鳴を、私はかろうじて呑み込んだ。細く浅い自分の呼吸音を意識した。人形たちは誰ひとりとして瞬きすらせずに、じっと私を見つめつづけている。
答えられなかった。射的屋での曲芸はまぐれだ。これまで狙撃などやったことはない。あれだけの相手に太刀打ちできるわけはなかった。
それにグリフィンは人間だ。メッセージを書きつけた招待状。素性の知れない人物だが、この国の秘密を掴み、私たちに警告してくれようとした。どれだけ人形たちに憎まれていようとも、撃ち殺すことなどできない。
「お願いだよ、妖精の射手」
「グリフィンを殺してよ」
「いますぐ殺して」
どうすればいい。どうすれば――。
人形たちがひそひそと囁き合いを始めた。なぜグリフィンと戦ってくれないんだ――グリフィンが怖いのかしら――本当は妖精の射手なんかじゃないんじゃ――。
「イズは妖精の射手だよ。僕は見たんだ」ずっと黙っていた少年の人形が立ち上がって声を張った。「ふたつの妖精の的を一発の弾で撃ち落としたんだ」
ルースもまた前に出てきて、
「彼女のフリーパスを私は確かに見た。あれは妖精の射手にのみ与えられるものだ。彼女は妖精の射手に違いない」
人形たちのざわめき。
「本物の妖精の射手なら、戦ってくれるよね」
「グリフィンは悪い奴だよ。正しい人形は、グリフィンを憎むものだ」
「グリフィンと戦えないなら――イズは正しくない人形なの?」
これ以上は引き延ばせないと悟った。ここで戦う意思を見せなければ、人形たちは間違いなく私を疑いはじめる。
「判ったよ、やってみる」私は言い、ベルトに挟んであったパチンコを抜き出してみせた。人形たちの喝采を手振りで制すると、私は席を立ち、窓の外を窺った。グリフィンは距離を維持したまま、こちらの様子を窺うように飛びつづけている。
「みんな窓に近づかないで、隠れてて。ルース、乗客の安全を確保して」
やる、と言ったからには妖精の射手らしく振舞わねばならない。お腹の底に力を入れて、そう命じる。
「承知した」とルースが頷き、指示を出しはじめた。人形たちがぞろぞろと客室を後にし、私ひとりになった。今度は前方に向かい、
「アルマは私の言うとおりに船を動かして。まずは障害物の少ない、もっと開けた場所にグリフィンをおびき出して」
「了解!」と威勢のいい声が響き、船が進路を変更した。グリフィンは迷うことなく船を追ってくる。「『蛇の吐息』の上空でいいかな? あそこならただの荒れ地だ。ほとんどなにもない。パチンコで狙うならあそこがベストだよ」
「そうして。到着したら私のタイミングで甲板に上がる」
「判った。この船に妖精の射手が乗ってるだなんて光栄だよ。ようやく奴をばらばらにして、手足を蛇どもにくれてやれると思ったら、もう待ちきれない」
鞄から地図を出して、「蛇の吐息」の場所を確認する。確かに荒れ地のようで、建物や施設などを示す記号はいっさい載っていなかった。
「手足を蛇の玩具にする」「手足を蛇にくれてやる」といった表現を、乗客もアルマもしていたのが気になった。人形の国特有の言い回しなのだろう。蛇というもの自体が、忌まわしさの象徴として扱われているのかもしれない。
人形の街を囲んでいる巨大な城壁を飛び越す。だだっ広い荒野の風景が、視界を占領した。壁の内と外で、ずいぶんと様子が変わるものだ。所々に岩山が見えるくらいで、ほとんど障害物はない。
グリフィンはまだ着いてきている。私は席を立ち、客室を抜けて、梯子をよじ登った。ハッチに手をかける。思ったより重かったが、どうにか蓋を跳ね上げて頭を甲板に突き出した。
風がごうごうと唸りながら、髪を揺らす。勢いをつけて軀を持ち上げた。
薄らとだが、もう月が出ていた。グリフィンの影を見とめると、私は立ち上がって、慎重に甲板の中央まで歩いた。
相手からもこちらの姿がはっきり見えているはずだが、ひとまず攻撃してくる気配はない。私は浅く呼吸した。自分が警告した相手をいきなり殺すような真似はしないだろうと踏んではいたにしろ、やはり姿を曝すのは怖かった。
「グリフィン! 私は妖精の射手のイズ。私たちは呪わしい影に、狂気と暴力には屈しない。困難を退けて、必ず無事に帰る」
決闘の前口上のような調子で、声を張り上げる。人形たちに聞えている可能性を意識しながら、私は言葉を選んでいた。呪わしい影、のところで、広げた腕を伸ばしてさりげなく、月の欠けた上半分を指す。
黒い月の呪い。人形を毀す狂気。グリフィンには伝わるはずだ――私と佳音は、人間の世界へと帰る。
「私たちは、いかなる取引にも応じない」メッセージを受け取ったことを知らせる。「私たちは戦う。平和を取り戻すために」
パチンコに弾を番えて引き絞った。真の敵は月の呪いだ。共に人間である私たちが対立する意味はないことを、グリフィンも承知しているはず。威嚇射撃で撤退するか、あるいはやられた振りをしてくれれば――。
爆発音が轟き、船が大揺れに揺れた。危うく転びかけたが、どうにか体勢を立て直す。パチンコも弾も取り落とさすに済んだ。視線を上げる。グリフィンはまだ同じ位置に泛んでいるばかりだ。
なにが起きた?
「動力部をやられた。この船はもう駄目だ」
私の声なき問いに応じるように、アルマの絶叫が響き渡ってきた。下方からもうもうと色濃い煙が立ち上り、私とグリフィンのあいだを遮る。一瞬、ほとんどなにも見えなくなった。
船が力なくよろめいた。グリフィンの姿はもうない。「墜落する前にどうにか城壁まで寄せる。蛇の玩具になりたくなかったら、全員内側に飛んで」
ふらふらと蜉蝣のように宙を漂いながら、船は城壁へと近づいた。屹立した壁は黒々として、衝突したら最後、粉々に砕け散るだろうと思われた。
「早く飛んで、船が落ちる前に早く」
絶え間なく煙を吐き出しつづけ、ぐらぐらと振動しながらも、船は壁の天辺に横付けの姿勢を取った。決してぶつからず、それでいて飛び移るのが不可能ではない、絶妙な位置だ。
窓から人形たちが次々に飛び出し、城壁のうえに降りた。最後に船を出たルースがこちらを見上げながら、「隠れていた乗客は全員避難した。アルマ、妖精の射手をこっちに」
ルースが両腕を伸ばして身構えている。飛び込もうとした瞬間、船は大きくバランスを崩し、私はタイミングを失した。
「ちくしょう。後生だ、言うこと聞いてよ」
またしても爆発。身がぐいと引っ張られ、放り出されそうになる。城壁が遠のき、船が荒々しく宙を旋回した。甲板の手摺にしがみついているのが精いっぱいだった。
「あ、あ、あ――」とアルマの声。背の高い建物が月明かりに照らされて水色に輝く街に対して、壁の外の荒野は暗く翳って見える。ふたつの世界の狭間に泛んでいるようで、私はその奇妙な感覚に呆然となった。「くそ、もう浮上できない。やむを得ず『蛇の吐息』に不時着する」
ドレスが風にはためき、髪がたなびいた。船は落下寸前のジェットコースターのように、ゆっくりと前向きに傾いだ。私は固く眼をつぶり、手摺を握る手に力を込めた。
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