第19回
帰り着いた自室はいつもよりがらんとしていた。
ひとりだと実感した途端に、視界の色彩感覚が失せていくような気さえする。佳音はひとまず元気だった、安心した――緋色や未散さんと一緒の時間は心の底からそう思えて、軀の隅々までぽかぽかしていたのに。
漢文の教科書を開いてみても、文庫本を捲ってみても、まるで頭に入ってこない。これが私の弱いところだと自覚しつつ、居ても立ってもいられなくなってしまう。お風呂から上がり、夜十時を過ぎたあたりで、限界を迎えた。
私はけっきょく、机の前に坐り込んで緋色に電話を架けたのだった。
「もしもし」とワンコールもしないうちに出てきたので、愕いた。私は思わず、
「今大丈夫? スタジオにいるとか、録音の邪魔とか、そういうことない?」
「自分ちでぼけっとしてただけだから、平気だよ。どうしたの?」
「佳音のこと。元気そうにしてたけど、なんか心配になってきて」息をついた。続けて、「私、ほんとに心配性で駄目だね。すぐ退院して、ジェフの散歩も行けるようになって、またいつも通りに戻るって思っていたいのに」
「駄目じゃないよ。私だって、凄く不安だから。検査結果が出るまで、きっと碌に眠れない」
「緋色でも、そういうことあるんだ」
「あるに決まってる。人前で平気な顔してるのは、ただの強がりだよ。判るでしょう?」
「判らなくはないけど――」
私は小さく息を吸い込み、
「緋色は私より強いと思う」
そうだね、と彼女は言い、
「フィジカルな意味では、たぶんね。いざとなったら暴力を行使できる。でもそれだけ。本当の格闘家にも、本当の音楽家にも、本当の人間にも、ぜんぜんなれてない」
「私だって本当の人間になんかなってない。緋色は強いよ。みんなも。大丈夫だって言ってくれるのは、いつも緋色や佳音や未散さんなんだもん」
僅かに間が開いた。緋色は長々と吐息し、
「大丈夫だって信じてなきゃ、口に出してなきゃ、自分は沈没しちゃうって判ってるんだ、私。莫迦みたいに験担ぎするのもそのせい。335があれば大丈夫、アセロラ飲んどけば大丈夫、髪がこの色だから大丈夫って」
緋色が緋色なりの方法で、緊張や不安に立ち向かっていたのだと、このときになって私は気づいた。彼女の努力や技術や身体能力を裏側から支えていたのは――祈りだ。
「嵐で船が沈んでも、手を取って水底を行けるよ。そうじゃない?」
私が「水底の航海」の歌詞を引いたので、緋色は照れたように笑った。
「あの曲は私が作った。歌詞もひとりで書いたんだよ。いつもなら速水さんや片桐さんに相談するんだけど、あれは完成するまで見せなかった。没にされると思ってたのに、ふたりとも凄くいいねって――お世辞でも嬉しかったな。知ってるだろうけど、うちのバンドって、最初の頃は全篇英語詞ばっかりだったんだよ」
「私は今のほうが好き」
「恥ずいけど――そう言ってもらえると嬉しい。私が歌詞を書くと、だいたいあんな感じになっちゃうんだ。君がいて僕がいて、ふたりとも、なんか得体のしれない、いかれた魔法を信じてるの。それで私は、精神年齢が五歳で止まってる人間にしか歌えない歌をうたう」
「アクセル・ローズは何歳で成長が止まったんだっけ。三歳?」
「確か二歳」
私たちは声を揃えて笑った。
「ねえ緋色、ダンボ観たことある?」
「ディズニーの? 象が飛ぶやつだよね、鴉の羽根を貰って。あるけど――細かいとこまでは覚えてない」
「その知識で充分。仮にそういう能力が生まれつきあったとしても、象が空を飛ぶ、その最初の羽ばたきは絶対に魔法だって、私は思う。ダンボはきっと、ずっとずっと魔法の羽根のことを忘れない」
「ダンボ、最後にはひとりで飛べるようになるんじゃなかったっけ?」
「私の中ではそうなの。緋色はずっと、魔法の羽根で居つづけてくれるよね」
彼女は少しだけ沈黙し、
「そう信じてくれるなら」
左手がマウスに接触し、パソコンがスリープ状態から戻った。立ち上げたままだったようだ。メディアプレイヤーも開きっぱなしになっていて、ルビー・チューズデイの最新スプリットシングルのジャケット画像が大写しになっている。
私は左手に端末を持ちかえ、棚からCDを取った。歌詞カードを抜き出す。改めて読み返してみようと視線を走らせる。
はっとした。同時に収録されているバンド、エクリプスの曲。その歌詞が、見開きの右頁にある。
読んだ。胸騒ぎがした。
初めて聴いたとき、なにか引っかかったような気がしたのは、このせいだったのだ。
この胸の裂け目を覗いてごらんよ その眼で
突き立てた刃の甘やかさを想い
君の軀を盗み 遠い街へ連れてく
淡い世界 塗りつぶして 夢の中へと沈める
僕のそばに
白い膚に走る 傷の記憶が誘う
虚ろだった 瞳の奥 夜の底まで彷徨う
止まらないで
あの月の欠片を奪ってあげるよ この手で
横たわった君の器にくちづけて
タイトルは「月蝕」。どちらが先は判らないが、エクリプスというバンド名そのまま。
月の欠片。自分の名前の一部が出てくれば、気になるのは当たり前だ。しかしそれだけではない――なにか別の意味があるはずだ。私は直感していた。
そう、マスターが石を譲ってくれたときのように。下弦の月を象った石。なんと言っていた? 伊月だから、ではないに決まっている。思い出せ。
スーベニール・ダン・オータ・モンド。訳ははっきり覚えている。違う世界からのお土産。あるいは別世界への追慕、だ。
「違う世界」とはいったいどこを指しているのか。これはおそらく、重要なヒントだ。
ひとまずそう思い込むことにして、もう一度、頭から歌詞を読み返す。似たような表現を捜した。遠い街? それでは判らない。違うような気がする。
夢の中。きっとこちらだ。淡い世界、つまりはこの現実を塗りつぶすような、夜の底での眠り。
しかし、「違う世界」はただ眠っただけで辿りつける場所ではないように思えた。きっかけは――傷の記憶。刃を突き立てた胸の裂け目。それを覗いて、誘われた。なんらかの、特別な夢の世界へと。
すると……「軀を盗み」とはどういうことだろう。夢での邂逅ならば、軀は不要ではないのか。
軀に対応する語は「器」しかない。軀は魂の器。眠っているあいだに抜け出して、夢の世界へ行く。だがそれだけならば、なんの新規性もない。
「君の軀」や「月の欠片」を奪い、「君」を夢の世界へ呼び寄せた「僕」とは何者なのか。私の手許にある石との関係は。あれは奪われた月の断片なのか。それとも……。
思い付きが泛んでは消え、結びついては離れる。質量の伴わない空想。けっきょくすべてが思い違いで、単純に月や夢といったゴシカルなフレーズを羅列しただけの詞にすぎないのだろうか。
「伊月?」とスマートフォンの向こうから緋色の声がして、私は我に返った。ずいぶん長いあいだ黙りこくっていたのに、切らずに待っていてくれたらしい。
「ごめん、ちょっと考えてた」
「うん、別にいいよ。私も――考えてたから」
私は深く息を吸い込み、
「突然だけど、新しいCDに、ルビー・チューズデイと一緒に入ってたバンドがいるでしょう? エクリプス。交流あるの?」
「バンド自体との交流はないね。エクリプスはもう解散してるし」
「いつごろ?」
「わりと最近。ただね、うちの新しいベースの彰仁、あいつがエクリプスにいたんだ。当時からやっぱり上手くてさ、正直言うと目を付けてた。だからあいつが解散して暇になったって言い出したとき、すぐさま入れって口説いたの。スプリットになってるのはその縁かな」
クレジットの部分を確認しようとしたが、ブックレットの右頁には歌詞以外なにも書かれていない。左側のルビー・チューズデイの頁にはサポートを含めたメンバー全員の名前が載っているのに。
その事実を伝えた。緋色は認識していた。
「いつもそうだったよ。だから私も、彰仁以外のメンバーの素性って知らないんだ。露出が極端に少なくて」
「覆面バンドみたいな?」
「実際、それに近かったみたい。ただそのへんの事情ってあんまり興味なかったから、詳しいことはちょっと」
「曲は彰仁くんが作ってたのかな」
「あいつも作詞作曲できるし、楽曲への貢献度で言ったら少なくなかったと思うよ。でも自分が中心になって、コンセプトからなにから組み上げるってタイプじゃない」
私はもう一度歌詞カードに視線を落とし、タイトルを確かめた。
「『月蝕』っていう曲があるよね。誰が作詞したか判る?」
「いや、知らない。彰仁ではないと思う。依頼やリクエストに合わせて作風を変えた可能性がなくはないけど、少なくともあいつが自発的に書きそうな詞ではないね」
電話を持ったまま頷いた。そのあたりの感覚は、活動を共にしている緋色のほうが正確だろう。
「もし気になるなら、あとで訊いとく」
「――お願い」
「判った。なんなら直接話したほうがいいか。とりあえず私から確かめてみて、改めて伊月とあいつと私で席を設ける。それでどうかな」
「うん、ありがとう。そうしてくれると助かる」
しばらく返事がなかった。予定を確認しているのかと思っていたら、向こうから唐突に、
「伊月」
「なに?」
「特殊能力の話、覚えてる?」
私は沈黙した。するとあっさり、
「ならいいや」
と遮られてしまった。
「ごめんね、大事な話だった?」
「別に。でも忘れないで。どんなことがあったって、私が助けになるよ。暴力と、得体のしれない、いかれた魔法で」
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