第18回

 病室は三階だという。受付で名前を告げ、面会人であることを示すバッヂを受け取る。真っ白い廊下を歩み、エレベーターに乗った。先導は珍しく私だ。子供のころは病弱で、何度もここに連れて来られたからだ。

 結果から語れば、病室に辿りつく前に、私たちは佳音と出くわした。広い談話室の一角に、ひとりで坐っていたのである。病室捜しに真剣になっていた私は最初、その存在に気づかずに素通りしかけた。「伊月ちゃん、佳音ちゃんいたよ」と未散さんに言われてようやく、彼女を認識したのだった。

「みんなお揃いで、来てくれてありがとね」と、佳音は笑顔を保った。「長野旅行は駄目になっちゃったけど、普通に元気だし。すぐ復活できると思う」

 どういう言葉をかけようか、どうやってお見舞いの品を渡そうか、悩みに悩んでいた最中の、突然の遭遇だったので、私は全身の力が抜けてしまった。なんだ、いつもと一緒じゃん、心配させないでよ――と短絡的に発しかけたほどだ。

 佳音のほうでは慎重にタイミングを見計らっていたのだろう。私たちが静まるのを待って、彼女は自ら、机の下から右脚を出して私たちの眼前に晒した。空気が張り詰めるのが判った。

 一瞬、義足かと思った。膝から下がまるきり、杖に置き換わってしまったように見えたのである――佳音が少し脚の角度を変えてくれたので、膝を折り曲げた状態で固定しているだけだと知れたのだが。

 最近の松葉杖ってハイテクなんだよ、と得意げに佳音が解説する。直接脚に装着するタイプの杖で、これを使えば手ぶらで歩行できるのだという。

「今回のことがなければ、私たぶん一生知らなかったよ。まあ当然、普通のよりはお金かかってんだけど、そのぶん高性能。もうちょっと訓練すれば、これでジェフの散歩にも行けそう」

 実際のところ、ジェフの散歩はお母さんが行ってくれているそうだ。私と未散さんが声を揃えて「手伝おうか」と申し出ると、「すぐ治るから」と笑いながら断られた。

 私たちが花とクッキーを渡すと、佳音は無邪気に喜んだ。約束通り、花が私と緋色から、クッキーは未散さんから、ということにする。佳音はたぶん気づいていたのだろうが、知らん振りをしてくれた。枕元に飾って先生や看護師さんに自慢する、退院したら持ち帰って部屋の窓辺に置く、とはしゃいでいる。

 花屋で聞いたプリザーブドローズの説明をそのまますると、

「いろいろ進歩してんだ。また賢くなってしまった」と大仰に頷いていた。

 談話室の片隅にあった自販機で人数ぶんのジュースを買い、私たちはしばらく雑談に耽った。傍目にはきっと普段通りの私たちで――それはおそらく、全員がことさら普段通りに振る舞おうとした結果だったのだと思う。

 新生ルビー・チューズデイの活動に、佳音は大いに興味を示していた。私も観たかった、行ければよかった、としきりに残念がる。

「新しいベースってどんな奴?」

「上手いよ。ベース始めるきっかけがイエスのクリス・スクワイアだったからって、メインではリッケンバッカー使ってる。やっぱり死んだときは、すっごいショックだったみたいで――」

「あの長い楽器、そういう名前なんだねえ。背が高い人だから、とっても似合ってた。普段はどんな感じの人なの?」

 佳音が聞きたがっているであろう方向へと、どうにか話を誘導しようとする未散さんの努力が涙ぐましい。リッケンバッカーという楽器のことはもちろん、その愛用者であるクリス・スクワイアもレミー・キルミスターも知らないだろうに、緋色の話にしきりに相槌を打っている。あ、ポール・マッカートニーなら判るだろうか。

「どんな奴?」と業を煮やしたらしい佳音が身を乗り出して訊いてきたが、私も一度ライヴを観ただけなので、人物についての知識はまったくない。そう正直に答えると、佳音は笑い交じりに溜息をついて、「緋色」と彼女の話を遮り、

「私も未散ちゃんも専門的なことは判んないからさ、ここからは質問に答える形式で」

 そういうわけで私は、ルビー・チューズデイの新ベーシスト、佐久間彰仁くんが私たちと同じ十七歳の高校生二年生で、身長は一八二センチで、体重は不明だが細身で、好物はラーメンで、女の子にきゃあきゃあ騒がれるような感じではないが整った顔立ちをしていて、今のところ彼女はおらず、好みのタイプは「真面目で優しい人」だと自分では言っているが、それは建前で、本当は面食いだと緋色は睨んでいる、といった情報を得ることに成功した。

 だいぶ話し込んでしまった。佳音が壁にかけてある時計に視線をやり、

「ぼちぼち部屋に戻るね。ほんとは戻りたくないんだけど。四人部屋だから、残りの三人のうち誰かひとりは必ず寝ててさ、鼾とか寝言がうるさいの。二十四時間ぶっ通しだもん、頭おかしくなるよ」

 佳音が立ち上がろうと椅子の背凭れを掴む。隣に坐っていた緋色が手を貸した。未散さんも歩み寄り、両側から佳音を支える。いちばん遠くにいた私は出遅れて、その様子をぼうっと眺めていた。

 そのまま三人四脚のように歩きだしかけたが、佳音がふと思い立ったように、

「ごめん。やっぱ伊月、手伝って。緋色と未散ちゃんに挟まれるとさ、ほら身長差が」

「この体勢、逆にきつい?」と緋色。佳音と両側のふたりとでは、身長が十五センチ以上違う。

 佳音はかぶりを振り、

「きつくはないけど――捕まった宇宙人に見える」

 笑ったのは私ひとりだった。緋色と未散さんは「なにそれ?」という表情を泛べつつ、指名された私のために場所を開けてくれた。彼女に肩を貸してやると、佳音は満足げに、

「こういうので笑うから、伊月好き」

「あれ、ただのエイプリルフールネタだったらしいね。宇宙の暗号も、ドイツ語の鏡文字だったって」

「『我々はこの星が大嫌いだ、早く帰りたい』」

 あはは、と快活に笑ったあと、佳音は小さく、私にだけ聞えるくらいの声で、

「帰りたいよ、伊月」

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