第16回

 曲が「クリムゾン・キングの宮殿」からトーリ・エイモスの「ア・ソルタ・フェアリーテイル」に変わった。アルバム『スカーレッツ・ウォーク』の二曲目。

 先に出てきたキング・クリムゾンはもちろん、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやガンズ・アンド・ローゼズ、最近見つけたスカーレット・ユース、ブラッド・セレモニーといったバンドの曲も入ったこのプレイリストは私が作成したもので、緋色が来たときはよく流している。

 場所はいつものように私の部屋。ただし今日は、佳音がジェフ含む一家総出で長野に行ってしまっているために不在の、ふたりきりでの勉強会だ。私たちはテーブルを挟んで向かい合い、夏休みの課題に取り組んでいる。

 大好きだというトーリ・エイモスが流れているのに、緋色は不機嫌顔だった。手許を覗いてみて、その理由が知れた。

 古文の問題で悩んでいるらしい。くっきり折り目を付けて開いた頁を、恨みがましい眼で睨みつけている。さっきからずっと、手は動いていない。

 やがて彼女は「もう知らん」と吐き捨て、問題集を私のほうへ押しやった。

「どこで混乱してるの」

 私は緋色が指差した問題文に視線を落とした。平家物語の合戦の場面だった。

「其後矢だねのある程射つくして、打物ぬいてたたかひけるが、敵あまたうちとり、弓手の膝口を射させて、たちもあがらず、ゐながら討死してんげり」という部分に傍線が引いてある。

「弓手の膝口を射させ、ってなに? 自分は矢を射尽くしたから、部下の弓兵に射させたってこと? でも次の文ではいきなり、立ち上がることもできず討ち死に、ってなってる。意味が判んない」

 英語ではさんざん彼女のお世話になっているので、ここは助け船を出さねばならない。私は少しだけ、古文と漢文が得意なのだ。

「まず助動詞『さす』の基本的な用法は、使役か尊敬。ここだと、緋色が言ったように使役だね。つまり何々させる。ただ、部下に敵の弓兵の膝口を射させたんじゃなくて、敵の弓兵に自分の膝口を射させた、って意味になるのが、この問題の厭なところ」

「なにそれ。こいつ、自暴自棄になったの?」

「もう少し聞いて。この『さす』は使役の助動詞だけど、訳し方としては受け身なの。だから『膝口を射られて』になる。矢を撃ち尽くして、刀を抜いて戦って、敵をたくさん討ち取ったけど、弓兵に膝を撃たれて、立ち上がれなくなって、討ち死に、だったら自然に意味が通るでしょ?」

 緋色は眉に縦皺を寄せた。

「なんでそんな言い方をするわけ? 射られて、でいいじゃん」

「武士って、凄くプライドが高いんだよ。自分のミスで敵にやられた、みたいな言い方はしたくないわけ。本当の俺は強いけど、おまえの矢に当たってやったんだ、おまえに射させてやったんだ、っていう感じで、だから使役なの。これは軍記物語でだけ使われる特別な表現」

 緋色は理解の表情を泛べかけたが、また仏頂面を作り、「くだんないプライドで後世の、罪のない女子高生を苦しめるなっての」

 彼女は問題集を引き寄せ、解答を書き込んだ。すぐさまシャーペンを置き、「ああ、本日の古文は終わり。せいせいした」

 憑き物が落ちたような顔をしている。今日の予定だと休憩を挟んで漢文だよ、と指摘しようかと思ったが、やめておくことにした。

 さすがに昼間からアルコールはまずいと思ったのだろう、緋色は持参したアセロラドリンクを飲んでいた。赤いものが手許にないと元気が出ないらしい。

「宿題はだいたい予定通りだね。チームワークの勝利だ」と満足げだ。「あとはメリハリ付けて遊んで、バンドして、私はそれで休み終わっちゃうかなあ。伊月はなんか予定あるの?」

「今のところは特に。花火大会にナンパされに行こうって誘われたけど、断っちゃった」

「誰に」

「沖田さんたち。あんまり話したことないのになんで? って思った」

 そんなの決まってるよ、と緋色が笑う。「メンバーにナンパされやすそうな子がいなきゃ話になんないでしょ。可愛くて真面目で温和しそうな感じの。条件にぴったり」

 自信満々な口調だ。私は困惑し、

「私、ナンパなんかされたことないけど」

「それはね、だいたい私と一緒に歩いてるせい。伊月に声かけたそうな奴は山ほどいるんだけど、私が絶対ナンパしてくんなって顔して追い払ってるから」

 そうなのだろうか。まるで気づかなかった。異性からのその種の視線に果てしなく疎いという自覚はあったけれど――そんなに頻繁に?

「嘘だと思ったら、ひとりでそれっぽい場所うろうろしてみな。いや、やっぱやめたほうがいいな。ほんとに危ない」

 緋色は冗談めかして人をからかうタイプではない。今後は気をつけようと思う。

 会話が途切れた。緋色は問題集や参考書を閉じ、自分の鞄にしまった。私も自分の勉強道具を所定の位置へと戻す。

「そうだ緋色、これ見て」立ち上がったついでに、机の引き出しから小箱を出してテーブルに持って帰った。緋色が身を乗り出す。

 蓋をそっと持ち上げ、チェーンをつまんだ。三日月のネックレストップが彼女の眼の前に来るように掲げる。

 マスターから譲られたその石の輝きを、緋色はじっと見つめて、

「へえ、珍しいね。アクセ、普段あんまりしないよね?」

「貰ったの」

 緋色は唇をすぼめ、「彼氏いたんだ。ナンパの話、蹴るわけだ」

「違うよ。スーベニール……ダン・オータ・モンド。未散さんのバイトしてるお店のマスターがくれたの」

「なんだ。あの店――正式名称、初めて聞いた。あそこのマスターってお爺ちゃんだもんね。でもくれたって、只で? 良さげなやつだけど……向こうも商売なんじゃないの」

 やはりそう思うのが自然だ。私はマスターの言葉を思い起こしながら、

「なんかね、石は持つべき者が持たないと働かないんだって言ってた。私が持ち主になるべきだって」

「あの石は、シータが持たないと働かないんだ」緋色が『天空の城ラピュタ』の科白を諳んじた。私たちは顔を見合わせて笑った。

「これ月だよね? 伊月だから?」と緋色。「安直すぎるか」

「私もよく判んなかったんだけど、くれるっていうから貰っちゃった。素敵だなと思って」

 緋色は顔を傾け、いろいろな角度から石を観察している。そうして見ると色合いが変わるのだ。

「ね、ちょっと着けてみせてよ」

「自分ちなのに。なんか恥ずかしい」

「いいじゃん。私もしてるし」と緋色が胸元のネックレスを示す。鍵をモチーフにしたデザインかと思いきや、鍵頭に当たる部分は絡み合った蛇の頭部で、そこから伸びた胴、折れ曲がった尾の先が鍵の形を模している、という凝った作りのものだった。ミュージシャンらしく、彼女はシルバーアクセサリーの愛好家なのだ。

 首の後ろに手を廻したが、不器用すぎて上手くホックが留まらない。「貸して」と後ろに廻った緋色が手を伸ばしてきたので、彼女にやってもらった。

「どう?」

「さりげなく上品に見える」

 嬉しくなった。着けたままでいることにした。

「そういえば、このネックレスって名前があるんだよ。マスターが言ってた。善き月のしるし」

 善き、月の、しるし、と区切って、緋色が発声する。「じゃあ悪しき月もあるのかな。ダークサイド・オブ・ザ・ムーン。ムーン・マッドネス。バッド・ムーン・ライジング」

「さあ。あそこのお店に置いてあるものって、マスターがあちこちから仕入れてきた一点物らしいから、ブランドとかも判んないし。ちゃんと訊いてみればよかった」

 ちょうど曲の変わり目になった。一瞬の空白。次いで流れてきたイントロに、私は耳を吸い寄せられる。

 緋色がぱっと立ち上がり、「ちょっと、なんで」と泡を食ったようにパソコンに駆け寄った。「なんでこれ入ってるの」

 ルビー・チューズデイの新曲、「水底の航海」。ライヴ後の物販で購入したCDを取り込み、私はすぐさまこのプレイリストに追加したのである。

「クリムゾン、ヴェルヴェット、スカーレット、ブラッド、そこにルビーが入るのは順当な流れじゃない?」

「勘弁してよ。このプレイリスト、すっごい好きだったのに。リクエストできないじゃん」

 歌が始まる前に再生をストップしてしまった。「ああもう」と本気で恥ずかしがっている。

「ライヴ、凄くよかったって未散さんが言ってたよ。ルビー・チューズデイのファンになったって」

「それはありがたいんだけど――お願いだから、私がいるときは流さないで。反省は自分たちでするから」

 私はしぶしぶ、その場でパソコンに向かってルビー・チューズデイの楽曲をリストから外した。緋色はその一部始終を、目を逸らさずに見ていた。

 作業が終わってふと、このCDがスプリットシングルだったことを思い出す。私は緋色のほうを見やって、

「一緒に入ってたバンドの曲、聴いたことなかった。そっちはかけてもいい?」

「エクリプス? ならまあ」

 バンド名すら初めて知った。選んで再生する。重々しいギターに、うっすらと鍵盤の音色が重なった、昏い曲だった。ミドルテンポだが、ベースとドラムの動きは激しい。やや長めのイントロの後に、女性による高音のスキャットが入る。

 歌が始まった。同じ人物の声のようだが、今度は低く、けだるげな歌唱である。

 曲調が変わる。伸びやかな旋律が歌われる……。

 なにかが引っかかった。不思議な切迫感。曲が終わっても、その感覚は胸に残った。

「ベースしか聴いてなかった」と緋色が感想を洩らす。彼女なりの注目点があったのだろう。リピートしようかと思ったが、シャッフル再生が継続していてビョークの「オール・イズ・フル・オブ・ラヴ」が始まってしまった。緋色が「これ好き」と喜んだので、そのままになった。

 テーブルに置き放しになっていた緋色のスマートフォンが振動しはじめた。彼女はちらりと画面を確認し、

「長野で優雅な休日を過ごしてる人だ」

 どしたの、と緋色は明るい調子で電話に出た。「そっちはどう?」と問いかけて――愕いたように唇を開く。

「嘘でしょ」緋色の眼が私を捉える。その不安げな揺らめき。

彼女はいったんスマートフォンを遠ざけ、「佳音が入院したって。向こうで急に――それで今、こっちの病院にいるの?」

 電話に戻った。うん、うん、と小さく頷き、「また連絡して」

 緋色はスマートフォンを置き、私に向きなおった。

「長野で、朝起きたらいきなりだって。意識ははっきりしてるし、命に別状はないみたいだけど――」

「どこがどうしたの」

「脚。右脚が、急に動かなくなったって」

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