第15回

「夢に佳音ちゃんが出てきたの?」

 私が目を覚ましたとき未散さんはすでに起きていて、パジャマ姿でベッドに腰掛けていた。朝の挨拶に続いてそう問われ、私は首を傾げてしまった。なぜ佳音? 回路が繋がるまで、少し時間がかかった。

「……寝言? 私、言ってました?」

 未散さんはくすくす笑って、はっきりと答えてくれなかった。

 普段はそれほど寝言が酷いわけではない――と思う。我が家に何度となく泊まっている佳音や緋色からも、そういった苦情が出たことはない。あるいはあまりにも重症で、ふたりとも慈悲の心から黙っているだけなのだろうか。

「ごめんなさい、うるさかったでしょうか」

「うるさくないない。たまたま伊月ちゃんよりちょっとだけ早く起きたら聞えただけ」

 では明け方だ。どんな夢を見ていたのか――。

「たぶん、出てきたんだと思います。佳音の夢って、これまであんまり見たことがないんですけど」

「そっか。なんかね、切実な感じで呼んでたよ、かのんーって」

 寝床を片付け、一階で朝の支度をさせてもらった。歯磨きをしていると、台所に立った未散さんが、

「朝ご飯、いつもは和風? 洋風?」

「食べないことが多いです。食べるときはコンビニのスティックパンとか」

「あたし、ご飯抜くと絶対エネルギー切れになるんだ。食べたいから勝手に作るね。いらなかったら残して、あたしが食べるから」

 トーストにハムエッグ、サラダ、コーヒーの朝食を、二階の部屋で一緒にとった。食べ残しはしなかった。未散さんはハムエッグを卵二個分、トーストは五枚食べていた。

「とても気になるんですけど、どうやって体形を維持してるんでしょう」

 あたし? と三杯目のコーヒーに入れたミルクをかき混ぜながら、未散さんが応じる。

「なにもしてないよ」

「緋色も同じこと言ってました。ずるいと思います」

「緋色ちゃんはギター弾いて歌ってるんだから、有酸素運動してるじゃん。あたしは本当になにもしてないもん。あたしのほうがずるい度が高いってことか」

 しばし腕組みしたあと、彼女はぱっと顔色を明るくし、

「でもキャロルの散歩はしてる! お店にいるときだけだけど」

 毎日ジェフの散歩をしている佳音はどうなるのだろう。ミニチュアブルテリアのキャロルより、バーニーズマウンテンドッグのジェフのほうが体力を使いそうだけれど。

「そういえばキャロル、昨日はいませんでしたね」

「不定期出勤なんだよ。看板犬は体調第一だから、週三くらいかな。マスターが出張するときに一緒に連れてっちゃうことも多いし、実はそんなにお店にいないんだ」

 朝食が済むと、未散さんは卓上の目覚まし時計を見やり、

「いつもならぼちぼち、お店を開ける準備の時間。今日は定休日だけど、伊月ちゃんさえよければ覗いていってほしいな」

「ぜひ」

 そういうわけで未散さんに続いて、お店へと繋がるドアをくぐった。「あれ」と彼女が声をあげたので、私も立ち止った。

「キャロルいるじゃん」

 眼鏡やサングラス、時計などが陳列してある棚の下のスペースに、ブルテリアのキャロルがうずくまっていた。未散さんに気づくなり、盛んに尾を振って近づいてくる。とたとたとた、という感じの、ちょっと不器用そうな歩き方だ。遊んでほしいのか、後ろ足で立ち上がって彼女に飛びつく。

 柱の裏側に人影があった。椅子に身を沈めている。

「マスター、帰ってくるなら連絡してよ。ご飯作ってないよ」

 未散さんがキャロルを抱き上げて、詰め寄った。マスターと呼ばれた人物が、大儀そうに立ち上がる。

 真っ白い髭をたくわえた老人だった。丸いボストン眼鏡に、仕立てのよさそうなジャケットを身に纏った、洒脱な印象のお爺さんである。祖父が生きていたらこのくらいの年齢だろう、となんとなく思った。

「食事は済んだ。自分の店に、いつなんどき帰ってこようと私の自由だ」

 年齢を感じさせない、しっかりとしたバリトンだった。マスターの言い草に「これだよ」と未散さんがピンク色の舌を覗かせる。悪戯気な表情だ。ふたりのあいだで何度となく繰り返されたやり取りなのだろう。

「そちらのお嬢さんは」とマスター。

 未散さんは私の肩を引き寄せ、「あたしのお友達。長壁伊月さん」

 マスターの視線がこちらを向いた。眼鏡の下で、瞳を不思議と輝かせている。歩み寄ってきた彼は、けっして大柄ではなかったが、強い存在感を私に感じさせた。私と向かい合うと、本物の孫に呼びかけるような調子で、

「――そうか。よく顔を見せておくれ」

 一心に見つめられるのは気恥ずかしかったが、私もまた亡き祖父を前にしているような心地になった。奇妙な懐かしさと、くすくす笑いの発作がこみ上げてくる。頬が緩みそうになるのを我慢して、初対面の人に向けるべき真面目な表情を作った。

「長壁……長壁伊月さん。あなたがそうか」

「そうってどう?」と未散さんが首を傾げる。マスターは片眉を釣り上げながら「少し静かにしていなさい」と彼女を制した。

 マスターに瞳を覗き込まれたような気がした。彼は小さく吐息した。

「あなたには、新しい護りが必要だ」とマスターは意味のよく判らないことを言った。「差し上げたいものがある。こちらへ」

 マスターがレジの置いてある台に向かう。手前側が硝子張りになっており、その下に複数の仕切りがあった。指輪やイヤリングなどが整然と収められている。そのなかからなにかを取り出し、掌に乗せて私に差し出す。

 最初、船の錨かと思ったが、違った。下弦の月を象った、小振りなネックレスだ。細やかな彫りが施されていて、光の具合によって影ができる。銀色のようにも、角度によっては青みがかっても見える。

「未散」とマスターが呼びかけた。未散さんはネックレスを受け取ると、私の背後に廻り、チェーンの長さを調節して首にかけてくれた。

「似合うよ」未散さんが私を鏡の前へ誘導する。

 胸元の小さく繊細な輝きに、私はうっとりとした。見れば見るほど、それは素敵なアクセサリーだった。少し高貴な人間になった気さえした――モデルが私でも。

「善き月のしるし、と言うのですよ。この石は、持ち主が決して忘れてはならないことを思い出させてくれる力がある。ぜひあなたに、この石の主になっていただきたい」

 言われる前から所有者気分でいた私は、そこで初めてはっとした。お店で商品を勧められたのだから、欲しければお金を出して買わねばならないのだ。当たり前の話である。

「とっても綺麗だと思います。でも今……持ち合わせがなくて」

 昨日の時点で、残りの所持金は三千円くらいだった。財布を開くまでもない。取り置きしてもらってお金を下ろしに行こうかとも考えたが、今の自分に手が出る値段ではないような気がする。思い悩む私に向け、マスターは微笑して、

「あなたに差し上げたい、と申し上げたのです。受け取ってくれますかな」

 言い聞かせるような口調だった。緋色にアルバイトを紹介してもらおうか、でも貯まるまでに売れてしまうかも、と思考を展開していた私は面食らった。差し上げる、という言葉の意味を反芻し、慌てて、

「でも、頂くわけには」

「いいじゃん、もらっときなよ」と未散さん。「いっつもこうなんだ。売らないって言ったら絶対売らないし、逆にやるって言ったら絶対押し付けるんだよ。商売する気あるのかな、この人」

 私はマスターを見返した。穏やかな表情。冗談で言っているわけではないようだ。

「あの……今日初めて来た私に、なぜこれを譲ってくださるんでしょう」

 マスターは微笑み交じりに、しかし迷いない調子で、

「石は持つべき者が持たないと働かないからですよ。私は単に、石の声を聞いたにすぎない。この店に置いてあるものはすべてそうです。本来の持ち主のもとに届くまで、一時的に預かっているだけ。よろしいかな」

「では私は、石の声に従うべきなんでしょうか」

「その通りです」

 私はもう一度、鏡のなかの私と見つめ合った。善き月のしるしのある側に人生を寄せたいと思った。自分を納得させるべく頷き、なるべくはっきり聞えるように、発した。

「ありがとうございます。持ち主としてふさわしい人間になれるように努力します」

「やったあ」と我がことのように、未散さんが声をあげた。「そのまま着けてく? ちょっと待っててね。付属品、用意するから」

 収納用の小箱と手入れ用の布をまとめて、小さく可愛らしい袋に入れてくれた。私に手渡そうとして、店員としての本分を思い出したかのように、

「お出口までお持ちします」

 キャロルもついてきて、私を見送ってくれた。「マスター、変わった人でしょ」と未散さんは笑い、「また今度、ゆっくり見に来てね。あたしのお勧めもいろいろあるんだ」

 長壁さん、と奥からマスターの声。

「どうせ未散からは伝わっておらんでしょうから、この店の本当の名前をお教えしましょう。よろしければ、覚えて帰っていただきたい」

 立ち止まり、振り返った。確かめようと昨日決めたのに、すっかり忘れていた。

「Souvenirs D'un Autre Monde」

「スーベニール・ダン――」と聴き取れた範囲で私が復唱しかけると、マスターが自ら出てきて、ドアの隣に掲げてある看板を見上げた。私の視線も上を向く。彼は見事な発音で、フランス語の店名を繰り返すと、

「違う世界からのお土産、または別世界への追慕という意味なのですよ」

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