第12回
ハーヴェイとハーカウェイに連れられ、私たちは客用寝室に向かっている。いくつもの扉。観葉植物と椅子の並んだ、小さな休憩用のスペース。飾られた絵画。人形館、とそのままのネーミングであるこの建物には、いくつ部屋があるのか知れない。
螺旋状の階段を上ってきたので、二階の部屋に通されるらしい、ということは判る。しかしそれだけだ。私は感動的なほどに方向音痴なのだ。ひとりではさっき音楽を聴いた会場に戻ることもできないと思う。
「トビアスがあとで挨拶したいって言ってた」と双子の片方が言い、「僕らの音楽を楽しんでいただけたなら嬉しい、だって。お客さんにはずいぶん格好をつけるんだ」
「トビアス?」私が問うと、
「指揮者。さっきの、一応はあいつの楽団だから」と双子のもう片方が教える。
確か少年だった。ほとんど後ろ姿しか見ていなかったけれど。音楽の記憶のほうがずっと鮮明だ。
「愕いちゃった。懐かしいけど少し怖くて、冷たいものが這いあがってくるみたいな音だった」
「私は、なんかよく判んなかった」と佳音。「でも歌ってた人形の女の子、好きだな。伊月は判ってくれるよね、この感覚」
「プリシラ? うん、佳音が好きだってのは判るよ」
「プリシラっていうんだ。名乗ってたっけ?」
私はかぶりを振って、双子のほうを示し、
「私と一緒にいたほうの子が教えてくれた」
どちらがそう言ったのか、今の私にはもう判らない。双子は頭の中身まで共有しているのではないかと、根拠のない思い込みすら生じた。
「ここだよ」
双子の片方が扉の前で立ち止まり、引き開けた。なかを覗き、うわあ、と声をあげてしまった。
洋風ホテルの一室のような部屋である。床には複雑な紋様が織り込まれた絨毯が敷かれ、長いソファが置かれている。机に大きな本棚、酒瓶の詰まったキャビネット、浴室まであった。なにはどこに置いてある、好きに使っていい、といった双子の説明を聞きながら、私たちはすっかり旅行気分になった。
「同じ部屋が隣にあるから、ひとりずつ好きなほうで」と言い残して、双子は出て行った。
私たちはふたりして残った。せっかくなのでキャビネットのお酒を飲もう、とすぐさま意見がまとまった。どちらが特別に酒好きというわけでもなく、場の高揚感がそうさせたのだと思う。
ヴィンテージものらしいワインを選び、コルクを抜いた。ふたりで飲みかわした。ワインは鮮やかな赤色をしていた。
「私たち、いっつもお酒飲んでるよね」
「ね。未成年なのに」
「それを言わない。伊月ん家、いつ行ってもお酒あるもんね。どういう闇のルートで入手してんの?」
「秘密」と答えて、ふと疑問が生じる。確かに私の部屋には、お酒のストックが山のようにある。好きに飲んでいいものだ、という認識もある。しかしそれらが、どこから湧いてきたのか判らないのだ。
佳音はそれ以上詮索しなかった。グラスを干したので、おかわりを注いでやる。
ほどよく酸味のきいたワインと、あえて素朴なものを選んだおつまみと、女子高生には分不相応な部屋の煌びやかさが、瞬く間に私たちを酩酊へ誘った。
「あれで一緒に寝るわけ?」と佳音がダブルベッドのほうを向いて言う。相当に酔っているらしく、声が不思議なヴァイブレーションを帯びた。
「二部屋あるって言われたじゃん」
「動くのがだるくなった」
「じゃあ私があっちに行く」
「いつも同じ部屋で寝るのに」
「同じベッドでは寝てない。それともソファで寝ればいいの?」
佳音は答えず、またワインを口いっぱいに含んで飲みくだした。ふふ、と小さく笑みを洩らす。彼女はするりと立ち上がって、
「シャワー浴びてくるから待ってて」
「けっきょくこっちを佳音の部屋にするの?」
「どっちでもいい。とにかく待ってて」
私の返事を待たず、彼女は浴室へと向かった。私は言われた通りに待った。そのうちワインがなくなったので、新しい瓶を持ってきて開封する。
佳音はときおり、理由を告げずに強情を張ることがある。深く事情を問えば機嫌を悪くするし、かといって決して譲ることはない。十年以上の付き合いになるのに、私にはいまだに、そういう彼女の心理が判らない。待つあいだ、私は機械的にワインを飲みつづけ、莫迦なことに意識を飛ばしてしまった。
――気がつくとベッドの上だった。いつの間にかパジャマに着替えている。髪に指を通してみると、お風呂に入った後らしくしっとりとした感触があった。眠っていたのはそう長い時間ではないようだ。
佳音の姿はなかった。隣の部屋に移ったのだろうか。
まあいいや、と思う。私はそのまま再びベッドに横になった。人形の国では目新しいことばかりで、少し疲れてしまったようだ。体温がすっと下がり、軀がゆるゆると眠りに移行していく感覚があった。ぼんやり意識が暗転する。
こつん、と音がした。軀の左側、すなわち窓際からだ。そのせいで私は一瞬、眠りから引き戻されたのである。外からノックされたような感じの、少しくぐもった音だった。また寝入りそうになったところで、もう一度、こつん。
夢の断片が、まだ脳裡にほんの少しだけ残っていた。黒い大きな鳥が、翼を広げている。しかしそのシルエットがどこか人間のようにも見え、私は愕く。その不思議な生き物を、ただ呆然と見送る――。
起き上がり、カーテンを開けた。月光のおかげでそれなりに明るいが、見渡せる一切が水色を帯びている。人形の国様式、としか形容しようのない奇怪な建物の影と、背の高い樹木の緑が目に入った。
寝床に戻りかけたとき、視界の隅でなにか、黒い塊が跳ねているのに気づいた。鳥だ、と意識が判断した瞬間、その影はぱっと飛び去ってしまう。
はっとした。窓枠になにか白い――おそらくは紙切れが挟まっている。最初からそこにあった、という可能性は考えなかった。外から差し込まれたのだ。
そっと手を伸ばし、引き抜いた。人形の国への招待状だ。私と佳音が持っているものと同じ。
裏返す。文章が走り書きしてあった。
「取引に応じるな」
右下隅に刻まれたデイジーの名前が、線で消してある。その上に、新たな署名があった。
Griffin――グリフィン。
ノック。今度は出入り口のドアからだ。私は反射的に、その謎めいた手紙を枕元に備え付けられた棚にしまい込み、靴を履いた。ドアを開いた。
佳音だった。彼女もパジャマを着こんでいる。
「あ、ちゃんと生きてた」
「ごめん、さっき起きた。私、酔っぱらって寝ちゃったんだね」
彼女はなぜか薄ら笑いして、
「それしか覚えてないんだ」
「なにが。私、なにか変なことした?」
「忘れてるならいいよ、別に。それよりさ、ちょっと冒険の旅に出ない? この人形館にはきっと、なんか隠された秘密があると思うんだよね」
思うんだよね、と言いつつ自信たっぷりの口調だ。私は吐息した。
「なんでそんなに元気なの。明日でいいじゃん、ちゃんと双子に案内してもらって」
「判ってない。こういうところは夜、こっそり探検するからスリルがあって面白いんだよ。伊月がまだ死んでたらひとりで行こうと思ってたけど――ほら、出発」
私はしぶしぶ頷き、部屋の奥に取って返した。「上着。どこ行ったっけ」
佳音が入ってきて、まるで迷わずにクローゼットを引き開けた。ちゃんと私のカーディガンがかかっている。パジャマの上から羽織り、寝室を出た。
廊下には暖色の電燈がともされており、歩くのに苦労はなかった。ここにも赤い絨毯が延々と敷かれていて、ほとんど足音が立たない。窓を見つけて覗いてみると、月の光に洗われた、別の棟が目に入った。
駅からの道すがら、ラナークが説明してくれたのを思い出す。人形館の中央、ちょうど背骨の位置に廊下が走っており、そこから肋骨のように複数の棟が伸びている。南端にはホールがふたつと、別館。北側に図書館。これだけ覚えていても、感覚的に自分の向きや位置を把握するという芸当が私にはできない。ただ言葉として残っているだけで、実際に歩き回る際に使うのであろう脳の部位とリンクしてくれないのだ。
佳音は手当り次第といった調子でドアに手をかけているが、いずれも施錠されているようだ。そのまま中央廊下まで来てしまった。
佳音はこちらを振り返り、淀みない口調で、
「私が思うに、あとは似たような構造の棟が、コピペしたみたいに続いてるだけだね。さっきいたのが南ホールだから、あとは別館か図書館。さてどうする」
「どうするって言われても」私は口ごもり、「そこは隊長のご判断に任せます」
「人形の図書館って、どんな本があると思う?」
「ホフマンの『砂男』とか、リラダンの『未来のイヴ』とか、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』とか?」
「じゃあいいや。先に別館に向かおう」
なんとなく不満だったが、着いていくと宣言した手前、反論するのも躊躇われた。それにもし逸れてしまったら、自力で部屋に帰りつける可能性はほとんどないのだ。
私たちは中央廊下の近くにある階段を下りた。踊り場に至る直前、唐突に佳音がこちらを向き、唇に人差指を当てた。さっと屈みこんで手摺の影に隠れた。左手で手招いている。私も足音を忍ばせて彼女の隣に身を滑らせた。覗いてみな、と口を動かしたのが判った。
言われた通りにした。ぼんやりした影が見える。人影――といっても人形には違いないのだが。
「あんたたち、なにしてんの」と声が飛んできた。二重唱? 重なりあった声だ。私はびくりとして頭を引っ込めた。たんたん、と軽やかに階段を上がってくる音がする。
ハーヴェイとハーカウェイだった。
「トイレは部屋にあるでしょ」
「それとも夢遊病なの?」
「お腹が空いて眠れないの?」
「それも部屋にある」
双子が口々に言う。佳音がそれを遮り、
「私たちさ、ちょっと探検してるの。駄目かな」
「別に駄目じゃないけど」
「でも適当に歩いてても面白くないよ」
「面白いものが見たければ案内してあげる」
「秘密の場所だよ」
よし、と佳音がピースサインを突き出す。こっそり探検するから面白い、という自説はどこに行ってしまったのだろう。
双子はお互いに顔を見合わせて、小声でなにか相談事を始めた。私たちをどこに連れて行くか議論しているようだ。始めのうちは静かに囁きあっていたが、
「そんなのつまんないよ」
「そっちこそつまんない」
と次第に声を荒げはじめた。双子は私たちに向きなおり、これもまた二重唱で、
「別々のところに行く。好きなほうについてきて」
「それって、たとえばハーヴェイと私チーム、ハーカウェイと佳音チームみたいに分裂するってこと?」
双子は深く頷いた。
「どこに行くの?」と佳音。
「どこだっけ」と双子の片方が首を傾げ、もう片方と話しはじめる。すぐさま喧嘩になり、再び「そんなのつまんない」の言い合いになった。心なしか一度目よりうるさい。
ふたりとも、と私が割り入ると、双子は同時に相手に指を突き付け、「だってこいつが」
「判った、判ったよ」と佳音が呆れたように声をあげた。双子の、近くにいたほうの首に腕を廻して、「私がこっち」
「ちょっと待って。逸れたら――」
「大丈夫だって。ちゃんと朝までに部屋に送り届けてくれるよ。ね?」
双子がまた頷いた。私と組むことになったらしいほうが、私の傍らに立って袖を引っ張る。
「早く行こうよ」下へ連れていくつもりのようだ。
私は佳音たちのほうを見やった。こちらの組とは正反対に、階段を上っていくらしい。彼女は私に手を振り、「合流したら教えっこしよう」
「早く」と人形がまた私を急かす。佳音の姿はもう見えなかった。仕方なく歩きはじめた。
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