第9回

 ――終演後の物販で、私たちはルビー・チューズデイのCDを買った。いわゆるスプリットシングルで、違うバンドの曲も収録されていたが、そちらは碌に確認もしなかった。

 退場する人でごった返してきたので、私たちも早々に撤収する。

 夜空の下にまろび出て外の空気を吸ってからも、未散さんはずっと昂奮していた。打ち上げに行こう、と声を弾ませて、手近なファミリーレストランに私を引っ張り込んだ。

 すぐさま店員を手招いて、夕食を済ませた後とは思えない量の料理を注文する。この人も緋色並みに健啖らしい。そのくせ揃ってスリムなのはなぜ?

 向かいの席で、彼女は買ったばかりのCDを取り出した。ジャケットをまじまじと眺めて微笑んでいる。さっきはよく見なかったが、アートワークは作風からして、緋色のお兄さんの友人だという美大生のものだろう。

 唐突にケースを押し付けられた。反射的に受け取って、なにごとかとテーブル越しに見返せば、

「緋色ちゃんのサイン貰ってきて」両手を合わせている。「シルブプレ」

 シルブプレはたぶんこの使い方が正しい。なんだか我がことのように照れくさくて、私は曖昧な笑みを返した。

「未散さんから頼んでも、普通にしてくれると思いますよ」

「畏れ多くなっちゃった。お店に来たらどうしよ、ちゃんと接客できないかも」

 両手を頬に当てている。こういう仕種をしていると、ずるいと感じるほど可愛らしい。

「そのとき直接してもらえばいいのでは。CDにでもTシャツにでも」

 未散さんはぶるぶると首を振って、「無理無理、絶対無理」

 頑なにそう主張するので、ひとまず私はCDを自分の鞄にしまった。

 本日二度目の夕食を終え、並んで店を出た瞬間、はたと気づいた。絶望的な心地で腕時計を覗き、脱力する。覚悟してはいたけれど、それでも道端で崩れ落ちてしまいそうになった。

「どうかした?」と未散さん。

「電車。終電過ぎちゃった」

 自分の迂闊さを呪った。終演までいた場合、ちょっと急がないと帰りの終電に間に合わないことを思い出したのだ。普段なら緋色のバンドが終わったタイミングで出てきてしまうことも多いから、こういう事態には陥らないのだが。

 未散さんはしょんぼりした顔になって、

「ごめん、あたしが付き合せちゃったせいだね」

「未散さんのせいじゃないです。私がちゃんと気にしてなかったから」

 夜の路上を見廻す。まだ明るくて騒がしい。

 ネットカフェ。カラオケのフリータイム。朝まで過ごす方法はいくらでもある。どうせ夏休みだし私は独り暮らしだ。大丈夫大丈夫、と胸の内で繰り返す。年齢確認? どうにかなる。大丈夫大丈夫。

「ねえ伊月ちゃん。もし厭じゃなかったら、あたしん家に泊まってもいいよ」

 無理やり塗り重ねた「大丈夫」の壁がその一言で崩れ、光が差し込んだ。私は頭を深々と下げ、「お邪魔させてください」

 ライヴハウスから歩いて十分ほどの距離に、未散さんの部屋、および「スーベニールなんとか」はあった。「着いたよ」と示された建物が一見、民家でもアパートでもなく、端的に言って「アパレルショップ」という雰囲気だったので、私は困惑してしまった。背の高い窓に三方向を囲まれていて、ラックに架けられた衣類、棚に並んだ眼鏡や時計、靴、そのあいだに配置された観葉植物などが覗いている。

 未散さんが平然と硝子戸を引き開けて入って行ったので、私も追従する。大きな姿見の隣にあったドアをくぐると、両側に雑用品らしい箱が積まれた廊下に出る。その奥の細い階段を上ったところにあるのが、彼女の部屋だった。

 子供部屋ほどの広さだ。私のアパートよりも圧倒的に狭い。家具と呼べるものはベッドとちゃぶ台、小さな棚、壁一面に備え付けられたクローゼットだけで、生活空間としてはものが少なすぎる印象だった。寝に帰ってくるだけの部屋ならまだしも、これで暮らしていけるのだろうかと心配になってしまう。

「お店の二階に住んでるの。通勤時間二〇秒だよ、いいでしょ」

「はあ」と頷いた。マンション一階に並ぶ店舗のひとつが自分の勤務先で、その上の階に部屋を借りている、ならば話は判る。明らかにそうではなく、店舗として使っている建物の空きスペースをむりやり部屋の形にした、という感じなのだ。

「じゃあ下のお店がスーベニール……ですか?」

「そう、スーベニールなんとかです。興味があったら帰る前にでも覗いてみて。明日は休業日なんだけど、まあいいや。マスターもいないし、あたしの独断で特別な顧客のためだけに店を開けるのだ」

 看板かなにかが出ていたのだろうが、暗くて判らなかった。明日確かめようと決める。

 狭くてごめんね、と言いながら、未散さんは部屋の中央にあるちゃぶ台を壁際に寄せた。彼女が手早く用意してくれた寝床は、私が佳音や緋色を泊めるときに作るものとほぼ同じ構造だった。

 トイレやお風呂は一階だという。交代でシャワーを浴びることにする。さすがに裸にバスタオルというわけにはいかないから、貸してもらった未散さんの古いパジャマを着て部屋に戻った。

 彼女もパジャマ姿でベッドに腰掛けていた。私が浴室にいるあいだに用意してくれたのだろう飲み物の入ったマグカップが、部屋の隅のちゃぶ台にあった。座布団に坐る。

「服、それで平気? 適当なのが見つからなくて」

「ちょっと大きいけど、大丈夫です。急に押しかけてすみません」

 袖と裾はさすがに長いのだが、折り返せばちゃんと着られる。ウエストは――彼女、私より細いのではないだろうか。ゴムが入っているので窮屈には感じないけれど、なんだかそんな気がする。

「いいって。あたし、ライヴって初めて行った。ルビー・チューズデイが初めてで、本当に最高だったよ。ちなみに伊月ちゃんの初ライヴはいつ?」

「人生初、という意味ではストーンズです。中学生でした。ただその前座がビリー・シーンとリッチー・コッツェンで、私にとってはもうその時点でメインアクトに近い人たちだから、ほんとの初めては彼らかも」

「ストーンズってローリング・ストーンズ?」と未散さん。

「そうです。ルビー・チューズデイってストーンズの曲から採ってるんです」

 へーえ、と彼女は声を洩らし、

「あとでちゃんと聴いてみる。なんかそういう繋がりがあるとさ、些細なことでも嬉しくなるんだ、あたし。ルビー・チューズデイってファンクラブあるのかなあ。あったら入れてほしいな」

「まだ無いと思います。Tシャツもグッズも作ってなくて、物販で売るのも音源だけ。練習と曲作りが優先っていう方針らしいです」

「ストイックなんだね。いつかできたら入ろう、会員番号二番で。やっぱりプロになったときかな? 緋色ちゃんってプロになるんだよね?」

「少なくとも私と佳音はそう思ってますけど――緋色って『なるんだ』とか『やるんだ』とかって話、あんまりしないんですよ。いつの間にかやってて、その成果だけ見せてくるっていうか」

 だからその、と私は言い淀んで、

「私たちが知らないうちに、緋色が遠くに行っちゃうんじゃないかって思うことがあります。きっと、小さい内輪の世界に留まっていていい人間じゃないから」

 三人でいるときには考えないようにしていた、それでもずっと胸の内にあったことを口にした。

「遠く、ねえ」と応じた未散さんの口調はけろりとしていた。

「もし緋色ちゃんがすっごいスターになったって、別の星に行っちゃうわけじゃないでしょ。一緒に宿題やったり、おうちで同じ鍋をつついたり、夜中までお喋りしたり、当たり前だった日常からちょっと離れちゃうだけ。それはそれで淋しいけど――世界が断絶したりはしないんだよ」

 絶対、と自信満々に、未散さんは付け加えた。

「こっちがどんなにシリアスに別れを覚悟して見送ったって、相手が繋がっていたいって思ってれば関係ないんだよ。物理的に、距離が遠くはなるかもしれない。でもそれだけ。船で飛行機で新幹線で、飛んでくるだけの話。なんの前触れもなしに、顔が見たいからって地球一周してきて、こっちは愕いたり呆れたりするの。それから一緒に笑うの。それでもう、同じあの頃に戻ってる」

 私は笑った。緋色ならやりかねない。きっとその場には佳音もいて、私がぽかんとしているのを面白がるのだ。

 私の反応を見た未散さんは自慢げに胸を張り、

「あたしはグローバルでインターナショナルな視野を持った人材なのだ」

 また笑った。そこで未来予想図の話は途切れ、話題は緋色のトレードマークである赤い長髪に移った。

「――髪も前は普通だったんです。それが誰にもなんにも言わずに、いきなりあの色にしちゃって。え? って顔してたら、これ変かなって。そういう問題じゃないでしょう?」

「女子高生が唐突に真っ赤ってアバンギャルドだよね。そのころの緋色ちゃん、見てみたいな」

「たぶん携帯に写真はありますけど――勝手に見せたら怒るかな。秘密にしてくれますか」

「するする」はしゃいだような声をあげて、隣に移ってきた。

「ちょっと待っててください」スマートフォンを操作しながら、自分でも感動するほどに莫迦みたいな写真しか撮っていないことに、今さら気づく。ブログを持っていたとしたら絶対にアップしたくない、それでも懐かしくて愉快な思い出たち。

 春ごろ、三人で旅行した際の写真があった。緋色がいちばん大きく写っているものを選ぶ。

 マーベルコミックに出てくるアイアンマンの巨大な像の前で、おそらく佳音に指示されたのだろう、同じポーズを決めている。髪の黒い彼女は、こうして見るとだいぶ印象が違った。羽織っているレザーライダースは、今でも愛用しているものだけれど。その日インナーに着ていたTシャツがたまたまブラック・サバスで、「あーい、あむ、あいあんまーん」とつぶやいて笑っていたのを思い出す。

「うわあ、可愛い」とスマートフォンを覗き込んだ未散さんが言う。「緋色ちゃん、背高いよね。モデルさんみたい」

 私は思わず、「それは未散さんもです」

 あたし? と自分の顔を指さす。「嘘だあ」

「初めて会ったときからそう。お洒落で素敵な人だなって」

 彼女は頬を赤くしている。この程度のことはさんざん言われて慣れっこなのだと思っていたのだが。

「そんなん初めて言われた。ごめん嘘。佳音ちゃんに言われたことはあるけどね、びじーんって。でもほら、佳音ちゃんって、冗談で言ってるのか本気で言ってるのかよく判んないとこがあるでしょ?」

「確かにありますけど、でも客観的に事実だし」

 真面目に答えたつもりだったのだが、未散さんはうーん、と首を傾げて、

「あたし、もうちょっと――なんていうのかな、日本人受けする見た目ならよかったなって、子供のころは思ってたの」

「シャルロット・ゲンズブールみたいな感じですか」

 思い付きを言ってしまってから、はっとする。彼女が「ハーフだから」「ガイジンだから」というだけの理由で理不尽な目に遭ってきた可能性に、ようやく思い至ったのだ。

「ごめんなさい」と俯いた私に、

「伊月ちゃんは優しいね」と彼女は微笑んだ。

 この素敵な微笑みで、荒波を乗り切ってきたのだろうかと思う。強い人なのだ。とても強くて、私なんかよりずっと優しい。

「ここに人呼んだの初めてなんだ。よっぽどのことじゃなきゃ、普通こんなとこ住まないし、人も呼べないでしょ?」不意打ちのように問われ、即座に否定できなかった。未散さんは快活に笑って、

「実際、その通りなんだ。マスターに拾われたようなもんだから。ちょっと、事情がありまして」

 そこで言葉を切り、彼女らしくない逡巡の間を挟んだ。

「つまんない身の上話をします。聞いてくれる?」

 頷いた。未散さんの表情がぱっと明るくなる。彼女はその笑顔を崩さないまま、

「パパがフランス人、ママが日本人って話はしたよね。でもあたし、パパのことはよく知らないんだ。小っちゃいころにフランスに帰っちゃったから。あたしはママとこっちに残ったんだけど、折り合い悪くなっちゃってね。学校も――楽しくはなかったな。なんとなく、想像はつくでしょ?」

 思考が空白になる。どうにか、こくりと頷いた。

「それでね、どこにも居場所がないって思い込んで、十五歳のときに家出したの。莫迦だね、お金もなんにもなかったのに。本当になんにもなかったけど、でも独りになりたかった。最初は東京に行ったの。まあ当然仕事も住むとこも見つかるわけがなし。こりゃ最終手段でソープかなって覚悟した。調べたらハーフって需要あるらしいね、びっくりしちった。――ごめん、これは教育上不適切な発言でした」

 私が息を詰めたのを察してか、未散さんは大袈裟に手を振り、

「実際には面接すら行ってないよ。ちょうどそういうタイミングで、マスターに会ったの。初対面でいきなり、おまえを雇う、住み込みの部屋も用意するって言い出すから、なんだこの爺ちゃん、呆けちゃってるのかなって思ったけど、あたしの救世主には間違いなかった。すっごくありがたく見えたんだよ、よぼよぼのお爺ちゃんでも」

 なにをどう言っていいのか判らなかったが、「マスターってお幾つぐらいの方なんですか」とようやく質問する。未散さんは視線を泳がせ、

「幾つかなあ――そういえば聞いたことないや。自分の話ってぜんぜんしない人なの。恩人の誕生日すら知らないって、ちょいやばいね。次はちゃんとお祝いしないと。そのときは、伊月ちゃんも佳音ちゃんも緋色ちゃんも、みんなに来てほしいな。ジェフもね。キャロルと仲良しだから」

「必ず来ます」と答えると、未散さんは私の手に自分の掌を重ねてくれた。

「ありがとね。あたし、今は生まれたのがこの世界でよかったなって思うんだよ。マスターがいてキャロルがいて、佳音ちゃんと出会えて、伊月ちゃんとも友達になれて。今日はとっても素敵な経験ができたしね。緋色ちゃんにも、ちゃんとありがとうって言いたいな」

 咽の底が熱くなった。緋色の友達でいることを、これほど誇らしいと思った瞬間はない。

「そしたら緋色、絶対喜びます。たぶんそういうときのために、音楽を演ってるんだと思うから」

「そっかあ。じゃあサインくださいって言う練習しとかないと」

「CD、やっぱりお返ししましょうか」

 傍らに置いた鞄を引き寄せる。彼女は頷き、私の差し出したCDを受け取ってくれた。棚にしまおうとして、ふと手を止める。

「聴いてみよっか。下にラジカセがあんだ、ポンコツだけど音は出るはず。ちょっと待ってて、持ってくる。イヤホンも」

 腰を浮かせた彼女に向け、

「未散さん」

「なあに?」

「私――未散さんと似てるんです。私の両親も今、離婚する話になってて。どっちとも会ってないんです、ずっと」

 未散さんは私のそばに屈みこんだ。頭にぽん、と温かい掌の感触。

「佳音ちゃんや緋色ちゃんがいて、よかったって思うでしょ?」

「はい」

 そして言い足す。

「未散さんも。私の世界に、いてくれてよかったです」

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