第8回

 仄かな薔薇の香りに包まれて目を覚ました。頬を押し付けている枕のせいだと、覚醒直後のぼんやりした頭が判断する。ごろりと俯せになって顔を埋めてみればやはりその通りで、香りはベッド全体に広がってもいるようだった。

 なぜ即座に薔薇の香と判断できたかというと単純に嗅ぎ慣れているからで、そういう香水を愛用する友人と私はしょっちゅう一緒にいるのだった。

 緋色の匂いだ。彼女の残り香がまだある。

 私は起き上がり、脱いだパジャマを洗濯籠に投げ入れた。歯磨きをしながら、胸の内に纏わりついた不思議な感覚を反芻する。

 長い夢を見たような気がする。中身はまるで思い出せなかったが。

 朝の支度を終えてカーテンを開く。外は薄曇りだった。

 どうしようかな、と思う。テレビはあまり見ないし、夜に備えて体力を温存しておきたいから、外出するのもあまり得策ではない。やはり勉強か。

 まだ夏休みはたっぷり残っている。宿題に頭を悩ませるのは後でもいい。真っ当な高校生ならそう判断するに違いないと、頭では判っている。夏の日の女子高生がエネルギーを費やすべきことはたくさんあるはず――なのだが。

 温和しく机に向かって、古文の問題集を広げる。三人で遊ぶようになってから三人とも成績が向上した。得意科目がうまくばらけており、互いに教え合えるのが効いているのだ。夏休みの宿題もそれぞれが自分の守備範囲を担当している。私が国語と生物、佳音が数学、緋色が英語と技術系科目だ。自主研究レポートは三人の連名。

 ペンを走らせながら、昨日のことを思い出そうとしてみて、やめる。人形展に行った後のことがどうにも曖昧なのだ。私も酔っていたのだろうか。記憶をなくすほど飲んだつもりはないのだが――。

 問題集を進めたり、音楽を聴いたり、本を読んだりしながら、だらだらと夕方まで過ごした。そろそろ出掛ける頃合いだ。

 緋色のバンドが出演するライヴイベントに誘われている。佳音と合流し、軽く夕食を取り、それからライヴハウスへ向かうつもりだった。

 ところがいつも待ち合わせに使っている店「フェアリーアイランド」の前に彼女の姿はなかった。約束の時間を過ぎても現れない。コンパに行くらしい大学生の集団や、客引きをしている飲み屋の店員、通行人などのあいだを縫ってきょろきょろしていると、「伊月ちゃん」と背後から声をかけられた。

 振り返ると未散さんが手を振っていた。こんにちは、と応じる。

 初対面のときと違って眼鏡も帽子もないので、その顔立ちがはっきりと見て取れた。ハーフという認識がなかったら、外目にはやはり白人女性としか思えない。肩の力の抜けた格好なのに、凄まじく洗練されて見えるのが羨ましい。

 それにしてもなぜ彼女がここに? ブルテリアのキャロルを連れていないので、散歩というわけではなさそうだ。

「佳音ちゃんから聞いてなかった? 行けないからって、チケットあたしにくれたの。バイト早あがりして来ちゃった」

 そういえば佳音は駄目だと言っていた――気もする。いよいよ記憶力が怪しい。

 未散さんと連れ立ち、近くの卵料理専門店に入った。彼女が好物だというオムライスを注文したので、私も真似て同じものを頼む。

「緋色のことはご存知だったんですか」

 会ったことあるよ、と未散さんがあっさり答えたので愕いた。お店で? と重ねて問うと、彼女はかぶりを振り、

「佳音ちゃんが紹介してくれた――っていうのはちょっと違うな。正確に言うと、引き合せてくれようとしたのね。でも当日待ち合わせ場所に行ってみたら、佳音ちゃんいなくて、緋色ちゃんだけ先にいたの。その時点ではお互い顔知らないから、ふたりで並んで、ずーっと佳音ちゃんのこと待ってた」

 状況を想像して可笑しくなってしまった。衣装を着たままステージから降りてきてしまったような格好だったに違いない緋色と、ささやかな休暇を満喫中の女優、といった雰囲気を纏う未散さん――さぞかし注目を浴びたことだろう。

「遅いなあ、と思ってたら連絡が来た。ふたりに同じ文面で送ったらしいの、『その場でいちばん目立ってる人!』って。緋色ちゃんとあたし、同時に携帯見て、それからこう――あ、初めましてって」

 くすくす笑いの発作におそわれた。実際のところ佳音はそこに来ていて、あえて出て行かずにふたりの様子を観察していたのではないか。性格からしてありうる。そういう悪戯をしようと持ちかけられたら、私にも抗える自信はない。

「しかも緋色ちゃん、英語で話しかけてきたんだよ。英語も判んないってのに。ごめんなさい、フランス系なんで英語は勘弁してって言ったの。日本語で」

 オムライスは美味しかった。店を出る段になって、私が財布を捜してもたもたしているうちに、未散さんが手早くお会計を済ませてしまっていたことを知った。あとからお金を渡そうとしても受け取ってくれず、代わりに完璧なウィンクを私に寄越した。

 ――初めての来場客ではまず気づけないであろう、奥まった位置にある階段を、未散さんと共に下る。何度か足を運んだライヴハウスなので、さすがに迷いはない。狭いロッカールームでふたりぶんの荷物を預け、会場入り口のスタッフにチケットを見せてドリンク代を払う。

 時間に余裕があるぶん客入りは疎らだった。引換券代わりのバッヂを後方のバーカウンターで渡す。氷の浮いた飲み物をちびちびと舐めながら、私たちはステージの真正面で待った。

 開演前のBGMは延々とキング・クリムゾンで、私はちょっと愉快になってしまっていた。他のバンドも出るのだから、緋色の一存で採用されたわけはない――そうに決まっているのだけれど。

「今流れてる曲はなに?」と未散さんに問われた。「ムーンチャイルド」だった。

「キング・クリムゾンの曲です」クリムゾン、と強調すると、彼女は楽しげに微笑んで、「曲名をもう一度」

「ムーンチャイルド――あ」

 未散さんが私の顔を指さす。「ムーンチャイルドだね、伊月ちゃん」

 緋色のバンド、ルビー・チューズデイの出番は最後から二番目だった。BGMが消え、ステージが暗転すると、一斉に拍手や指笛の音が響く。

 まず袖の暗がりから出てきた長髪の男性がドラムセットの前に陣取り、しゃんしゃんばらばら――と軽やかな音を鳴らす。このドラマーは名を速水さんといい、バンドの実質的なリーダーは最年長の彼が務めている。次に現れたのは女性キーボーディスト、片桐さん。彼女は正式メンバーではないが、何度もサポートとして出演してくれているから、ここまではお馴染みの面々という感じだった。

 ベーシストが新顔だった。私たちと同じか、もしかすると少し年上くらいの、長身で細面の青年だ。黒のリッケンバッカーが発する、硬質で断片的な、しかし歌うような音色。

 そして中央に、最後に登場した緋色が立つ。本当に私たちの真ん前。

 彼女が誇らしげに構えているのは、チェリーレッドのES335だ。最初に見せてもらったときには、高校の入学祝いとしてお祖母ちゃんに買ってもらったと自慢していたが、その話は嘘だったとのちに判明する。本当は彼女が、凄絶なアルバイト生活の末に入手したものだということを、今の私は知っている。

 それは宝石のように美しいギターだった。ステージ上の緋色を見つめながら、生まれて初めてギターを格好いいと感じたときのことを私は思い出していた。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でマイケル・J・フォックス演じるマーティ・マクフライが、この姉妹機であるES345で「ジョニー・B・グッド」を演奏する、海のおさかなパーティーのシーンを。

 緋色と一瞬だけ目が合う。彼女が奏ではじめたのはなんとチャック・ベリー。まさしく「ジョニー・B・グッド」だと思ったあたりで――手が止まる。音が消失する。緋色の悪戯気な笑み。

楽器を抱えたまま近づいてきたベーシストと、二言三言、彼女は囁きを交わした。

 全員が元の立ち位置に戻った。照明がぱっとバンドを照らし出す。

 じゃらん、じゃらんと無造作に、ES335が掻き鳴らされる。残響が消えぬうちに、ギターノイズの高音が来る。その絶頂から一息に曲へと切り込んだ。ベースが、ドラムが、絶妙のタイミングで重なる。

 スタンドマイクに唇を寄せ、緋色が歌いはじめる。


  嵐で船が沈んだら

  君の手を取り水底をゆくよ

  次の頁へ続くから

  日誌はどうか捨てずにいてよ


 新曲だった。今回のために作ったのだろう。

 烈しくもどこか叙情的な空気を纏う曲だと感じた。演奏も複雑なのだが、いっさい危なげを感じさせない。新しいベーシストの力量を、私はそのとき実感したのである。音の隙間を悠然と泳ぎまわっているような、それでいて決して曲の邪魔をしない、そういうベースだった。

 拍手と歓声。緋色が照れたように笑う。

「こんばんは、ルビー・チューズデイです」と短く挨拶する。「あれ、このメンバーだと初めまして、かな」

 客席から温かな笑い声。

「今日は短い時間だけど、楽しんで行ってもらえると嬉しいです。よろしくお願いします」

 拍手が収まると、緋色は「オッケー」と小さくつぶやき、

「じゃあ次は……一緒に暴れようぜ」

ドラムのカウントから始まったのは、威勢のいいロックンロール。「ぬけがけ」という曲だ。ライヴでも何度となく演奏されている、盛り上げ役のナンバー。

 作曲者の速水さんが、ハードロック然とした豪快な叩きっぷりを披露する。そこにベースが絡みついて、重戦車ばりに迫力あるリズムが繰り出される。緋色もES335を唸らせながら、鋭い叫び声をあげる。

 間髪を入れずに「紅蓮」。タイトル通り燃え上がるようなイメージで作ったというイントロに、観客が色めき立つ。ギター、ベース、ドラムのバンドサウンドのみから成る曲なので、ここでの片桐さんはコーラスに徹している。CD音源よりテンポをさらに上げた、畳みかけるような演奏だ。

 曲が終わり、客席の狂騒が収まると、メンバーの紹介が挟まった。ベーシストは名を、佐久間彰仁くんといった。

 四曲目は彼のソロから始まった。こちらも新曲だ。太くしなやかな音色に、だだん、と緊迫したようなドラム、細かに刻まれる緋色のギターが乗る。歌が始まるとそれらは静まり、穏やかな曲調に変じる。


  金色の壁に爪を立てる音をさせて 

  ぴかぴかの部屋じゃ眠れないのかい

  出鱈目な歌はずっと呑み込んだままで 

  きらきらの明日を抱えているのかい

  窓の隙間から覗き込んだ瞳

  いま夜が隠してた鍵を盗んできたのさ 口笛を高く響かせて

  ただ君が祈ってた星を攫いに行くのさ この街を遠く追い越して

  連れ出すよ 朝が来る前に


 伴奏は片桐さんの鍵盤が主だ。緋色がときおり爪弾く、煌めくようなアルペジオが曲を彩る。

 溜め息が洩れた。これが緋色?

 裸まで知っているはずの友人のことを、本当はぜんぜん知らなかったのだと、このとき私は痛感した。莫迦話に興じ、愚痴を垂れながら宿題をやっつけ、意地を張ってバケツプリンを平らげた――そんな私たちの杯緋色が、今は最高にかっこいい。

 たった四曲。時間にして三〇分かそこらのステージが、私には永遠のようにも、一瞬のようにも思えた。

 未散さんの横顔を盗み見て、彼女の頬を伝う涙がライトに照らしだされた瞬間のことを、私は忘れないだろう。最後の残響が去り、緋色の姿がステージの袖に消えても、私の瞼の裏側にはずっと、彼女の赤い幻影が焼き付いていた。

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