第7回

 夢は列車の振動から始まった。誰かが肩に凭れかかってくる感触があって、私にはそれが佳音だと判っていた。彼女と一緒に出掛けるところなのだ――でもどこへ?

 覚醒の直後にときどき、自分が何者でどこへ行こうとしているのかが不明瞭な、ふわりとした瞬間が訪れることがある。あの奇妙な感覚に囚われ、私は少しのあいだ呆然としていた。

 やがて微睡みが去り、意識にかかった靄が晴れはじめると、脳裡にその答えが泛んできた。

 人形の国。私たちは、人形の国へ行くのだ。

 私たちは二人掛けの椅子に隣り合って坐っている。列車の座席というより、雰囲気は洋館にでもありそうな長椅子に近く、背凭れにも肘掛けにも凝った装飾がなされている。車両の中央にある通路には、曼荼羅じみた模様の織り込まれた赤茶色の絨毯が敷いてある。同じ車内に私たち以外の乗客の気配はない。がらがらのようだ。

 佳音が小さく身じろぎをした。目を覚ましたらしかった。

「着いた?」と欠伸混じりの声。「今どこ」

 この列車にはアナウンスも掲示板もないことを、夢のなかの私たちは承知している。ちょうどトンネルにでも入ったところなのだろう、背の高い窓の向こうは濃密な暗闇に閉ざされている。ただふたつの影が、ぼうっと幽霊のように映っているばかりだ。

 佳音が私の左手を掴んで引き寄せた。彼女はふだん腕時計をしないのだ。

 左手首に嵌めてあった時計は、私の知っているものと違った。それでも自分の所有物に間違いないと確信しているから、夢の理屈というのは不思議だ。サルバドール・ダリの絵画のようにぐにゃぐにゃで、数字の配置まで出鱈目になっている。どうやってだか瞬時にそれを解読して、ふたり同時に「まだじゃん」とつぶやく。

 あーあ、と吐息して、佳音がまた私に体重を預ける。

「だいぶ暇だね。歌でも歌ってよ」

「下手なの知ってるくせに」

「どっこいどっこいでしょ。私だって超下手だし」

 何度もカラオケに行った記憶がある――ふたりで。どちらも音痴なのに、なぜそんなに頻繁にカラオケに行きたがったのだろう。私は洋楽のロック好きで流行りの曲はまるで知らないので、あまり趣味も合わないのだ。

 佳音が調子はずれな裏声、いい加減な英語で、「ロック・ウィズ・ユー」を歌いはじめた。有名な曲だから知っていてもおかしくはないけれど、洋楽を歌っているのは初めて聴いた。

 サビの部分だけ口ずさんだ彼女が、「なんだっけこれ」と首を傾げる。

「マイケル・ジャクソンでしょ」と私。「知らないで歌ってた?」

「マイケル・ジャクソンはさすがに知ってるよ。でもこれってマイケルの曲だったんだ」

 けろりとしている。私も小さく歌ってみたが、信じがたいほどの下手さが厭になってすぐさま口を噤んだ。

 規則正しい振動に身を任せていると、そのうちまた睡魔が纏わりつきてきた。佳音はさすがの寝つきのよさで、早くも眠りに戻っている。私も眼を閉じた。

 夢を見た。夢のなかの夢。

 ――鍵を差し込んで扉を開けると、私の部屋には裸体にバスタオルを一枚巻いただけの少女がいる。私よりずいぶん長身で、髪を燃えるような赤に染めている。半裸でも平然としていることから、夢のなかの私にとっては親しい友人なのだと察しがついた。

「おかえり」とだけ彼女は言い、私は「うん」と応じる。並んでベッドに腰掛けた。

「まだそんな恰好」

「楽だもん。待ってる間、いろいろヴィデオ観たよ。ありがとう。まだ観きれてないのもあるけど。もっとゆっくりしててもよかったのに」

 うん、とまた私は頷き、それきり黙り込んだ。彼女もしばらく黙っていたが、不意にこちらを向き、

「私さ、いちおうミュージシャン――って自分で言うのもなんだけど、何回もステージに立ってお客さん見てるから、相手がどんな感じでいるかって判るんだ。その場の空気っていうかテンションっていうか、波動みたいなものを感じるの。ちょっとした特殊能力だね」

 私は彼女を見返した。平静を保ったつもりだったけれど、きっとなにかしら顔には出ていたと思う。

「子供の頃の夢の話でしょって、一緒になって笑い飛ばしたほうが、友達としてはいいのかもね。でもさ、理由がなんだって、伊月がそんなふうなのに……笑ってる場合じゃないなって気がするんだ」

「私――」と発しかけたが、うまく言葉にならない。それでもやっと、「見なければよかった」

 見なければ、行かなければ――。胸の内で黒々としたものが渦巻き、奔流となって全身を駆け巡った。視界のなかで彼女の姿が揺れ、ぼやけ、沈む。

 目が覚めた。ぱちん、とシャボン玉が弾けるような目覚め。夢の残滓はすぐさま消え去り、それきりだった。

 佳音はすでに起きていた。「もうちょい」と微笑しながらポケットに手を入れ、なにか紙切れを取り出す。人差指と中指で挟んで私の前に突き出し、

「伊月もほれ、招待状出してみて」

 言われるままにジーンズのポケットにそっと掌を差し込むと、確かに硬い厚紙の感触があった。折れ曲がらないようにゆっくりと引き出し、眺めてみる。

 表側に、シルエットだけの絵が描かれている。白を背景にした影絵だ。窓がちょうど目鼻を思わせる位置にある、お城の形をした建物。下弦の月。踊っている人形たち――。

 裏返した。招待状といっても文章はいっさいなく、ただ黒字で、送り主の名前が隅に書かれているだけだった。

 DAISY、とアルファベットが五文字。招待者の名は、デイジー。

 ぱっと窓の外が明るくなり、私は顔を上げた。途端に、招待状に描かれていたのと同じ形の建物の群れが視界を占領する。空は淡い青で、あちこちに針で点々と突いたように星々が散らばっては、硬質な輝きを放っている。

 列車が大きくカーブして窓の景色が変わった。途方もなく巨大な三日月が、これも絵の通りに下半分のアーチを描いて、夜空に泛んでいる。昼間のような明るさの源はこの月らしい。

「もうじき到着ですよ、お二方」

 不意に呼びかけられ、私たちは傍らを見やった。

 男性の声だが人間ではなかった。人形だ。頭部だけが白兎の。

 気取ったパーティドレスのような格好で、赤い蝶ネクタイまで締めている。驚くほど背が高くて手足が長い。シルクハットの隙間からぴょこんと兎の耳が覗いているのがなんともユーモラスで、私は最初、彼はコメディアンではないかと思った。

「長壁伊月さまと瀬那佳音さま、お二人のお出迎えとご案内にあがりました。私、ラナークと申します。このたびは遠路はるばるおいで頂き、誠にありがとうございます」

 そう言って彼は深々と頭を下げた。長い耳が私たちの視線の高さまで下りてきて、ぴくぴくと蠢いている。佳音は猛烈に触りたそうな顔をしていたが、さすがにまずいと思ったのか手は出さなかった。

「ありがとウサギ」と佳音が答えると、ラナークはまた直立した姿勢に戻った。やはり耳だけが小刻みに動いていて、佳音の視線はそこに釘付けになっている。

「あの、時計持ってますか」と訊いてみた。自分のダリ腕時計と見比べたかったのがひとつ、白兎ならば懐中時計を持っているに違いないという思い込みがひとつ。

「申し訳ありません、今は手許にないのです」ありありと悄気た様子だ。全身が張りを失って萎んでしまったかのようだ。

「しかしご依頼とあれば」

 言葉と同時に、垂れ下がっていた耳がぴんと天を突くように立ち上がる。彼は右手で握り拳を作って私たちの前に差し出した。ぽん、と爆発のジェスチャーをするように勢いよく開くと、掌にはまさしく私のイメージした通りの金色の懐中時計が乗っていた。

 ぴゅう、と佳音が口笛を吹く。私は左手を伸ばして時計を並べてみた。まずは自分の、ぐにゃぐにゃの文字盤を眺める。

 なんだか数字の配置が最初と違っているような気がした。さっき「十二の位置に八がある」と思ったのではなかったか。今そこにあるのは二だ。今度はラナークの懐中時計を見る。二だった。同じ配置のようだ。

「もうじきです」と彼は繰り返し、懐中時計を上着のポケットにしまった。

 急に激しい揺れに見舞われた。ラナークのひょろ長い軀がステップを踏むようによろける。列車が急停止した。

「なに? 着いたの?」

「いいえ。こんなところで止まるはずでは」

 失礼、と言いながら彼は窓を開け放ち、堂々と頭を突き出して見下ろした。私たちも一緒になって覗いた。

 微かに煙のにおいがした。車輪を廻しているらしい機械の上部、ずらりと筒を並べたような部分が、波打った形のまま静止しているのが見える。

 ラナークは窓を閉じた。私たちに向きなおり、

「申し訳ありません。早急に直させますので、どうかお待ちになってください。私はこれより機関室に」

「機関室?」と佳音が声を弾ませた。「見たい。一緒に行っちゃ駄目?」

「駄目ということはありませんが、正直に申し上げて、特別面白くもないかと。お飲物でも召し上がって、ごゆるりとされたほうが――」

「あの、たぶん気になってゆるりとできないと思うんで、見てもいいですか」私が言うと、佳音は深く頷いた。

「承知しました。ではこちらへ」

 ラナークの後にくっついて先頭の車両まで行った。扉をくぐるたびに数えてみたら、最初に私たちが乗っていたのは十三号車だった。大移動だ。そのあいだ他の乗客には出会わなかった。本当に私たちふたりしか招待されていないのだろうか。

 両開きの扉の前で立ち止まる。施された浮彫は下弦の月を象ったものだったが、内側にぎざぎざの線が走っているせいで牙の生えた口のようでもあった。ラナークは迷いなく、一本の牙の根元近くに指をすっと宛がって、とん、とん、ととん、と独特のリズムを刻んだ。

 ガスの吹き出るような音と共に扉が開いた。

 途端にむっとするような高熱を膚に感じた。正面には横に広い窓と、その下に複雑な計器。部屋の隅ではパイプやら線やらが絡まって天井に伸びている。

 狭い機関室のなかを、三頭身ぐらいの小人の人形たちがわらわらと動き回っていた。みんな煤けたような服を着ている。パイプに付いたハンドルを廻したり、計器を覗き込んだりと忙しそうだ。

 運転席と思しき場所には、ずっと窓のほうを向いたままの人形がいた。上半身は裸で、他の小人たちより少しだけ大きい。リズミカルに肩を上下させているが、なにをしているのかは背後からでは判然としない。

 その隣に、薄着の、というよりどう見ても黒い下着しか身に着けていない女性の人形が、壁に凭れるようにして立っている。彼女だけは頭身が高く、びっくりするほどグラマラスな軀つきをしていた。手に鎖のようなものを持っていて、辿ってみればその先は、運転席の小人に巻かれた首輪に繋がっているのだった。

「アドリーナ、どういうわけなのだ」ラナークが女性を詰問する。「お客さまがお待ちなのだぞ」

「あたしの知ったことじゃないよ。本人に訊けば」

 鎖をじゃらじゃらさせながら、アドリーナが答えた。運転席の小人はまるで反応せず、肩を上下する同じ運動を繰り返している。

「私はおまえに質問しているのだ、アドリーナ。マルゴにはマルゴの仕事がある」

「だから知らないんだって。いつもと同じようにやってるでしょ?」

 あのさ、と佳音がラナークに呼びかける。

「そのマルゴって人形はなにしてるの」

「火に風を送っているのです。彼こそがこの列車の動力の源といっていいでしょう」

 佳音がマルゴの前に廻りこんだので、私も後に続いた。髭面の老人だった。パイプのようなものを咥え、顔を真っ赤にさせて吹いている。吸っては吐き、吸っては吐き。規則的なアクションの理由はこういうわけだったのだ。

「ちょっと休ませたほうがいいんじゃないの。疲れるでしょ、これ」

 不意にマルゴが口をパイプから離してこちらを向いた。眼を血走らせながら、

「おまえたち人間だな? どうりで重いわけだ! 吹いても吹いても進まん! これだから人間は厭なんだ!」

 とんでもない大音声だった。鼓膜がびりびりと震えるのを感じる。列車を動かす肺活量で怒鳴っているのだと気づき、私は戦慄した。

「失礼だぞ、マルゴ」とラナークが制すと、彼は口を噤んだ。私は完全に怖気づいてしまったのだが、佳音はきろりとマルコを睨みつけ、

「お荷物でごめんね。でも私たち招待客だし。あとそんなに太ってないんだけど。重いとか言われるとショックだから訂正して」

「人間というのは人形とは質量が違うんだ。太ってるとか痩せてるとかいう問題じゃない」さっきよりは幾分か抑え目の音量でマルゴが言う。それでも破鐘のような声だ。

 佳音はラナークのほうを見て、「なんか言ってよ。たいへんに傷ついた」

「私からお詫び申し上げます。人と話すのに慣れていない者ばかりでして」

 ラナークは声を張り上げ、

「おまえたち、仕事に戻れ。すぐに列車を動かすのだ」

 いつの間にか立ち止まって騒ぎを見物していた小人たちが、ぞろぞろと活動を再開する。マルゴもまた私たちに背中を向けた。

「アドリーナ、きちんと監督しろ」

「判ってるよ。ちゃんとやるからさ、もう行った行った」

 半ば追い払われるようにして、揃って機関室から出た。熱気に晒されていた反動で、客室はずいぶんと涼しかった。

「太ってないもん」椅子に腰を下ろした後も、佳音はご機嫌が麗しくない。

「伊月よりちびだけど。でも太ってはない」

「どう見ても太ってないよ。それに身長も二センチくらいしか違わないでしょ?」

「ふたりでいると気になるんだよ。たとえば一七〇オーバーの奴がまた別にいたら、まあ誤差だなってなるけど」

 やがて列車がごとり、と音を立てて動きはじめた。速度が増し、景色が滑るように流れていく――。

 巨大な城が近づいた。列車が速度を落とした。佳音が勝手に窓を開け、外に頭を突き出した。私も思わず顔を出した。水の冷たさを孕んだ風。私たちは橋の上にいる。しかし途中で途切れていて、このまま行くと人形の国を前にしてぽしゃん、という事態に陥ってしまう。

「前方に門」と佳音が実況するように声をあげた。面白がっているようだ。

扉がひとりでにこちら側に倒れてきて、線路に繋がった。跳ね橋だ。列車が吸い込まれるように門をくぐり抜ける。視界が暗くなった。ごうごうと音が反響する。

 頭を引っ込めて座席に戻った。気がつくとまたラナークが私たちの傍らにいる。彼は大袈裟に両腕を広げ、

「ようこそ、人形の国へ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る