第6回

「ここ?」とふたりして首をひねったのも無理はなく、教えられた店は一見、少し風変わりな民家に他ならなかった。重たげな黒い扉の横に小さく、「Glass Wilderness」と店名の掲示がなされているのを見出せなかったら、まず気づかなかっただろう。実際に一度は前を素通りし、手帳を見返して戻ってきたのだ。

「そういえば緋色に連絡しといたほうがいいかな? うちで待ってるんだもん」

 人形展のあとに遅い昼食をとってから来たので、もう午後四時を廻っている。夏の午後の日差しはまだまだ強烈で、私たちの歩みはやはり必然的にのろくなった。途中でチェーンの珈琲店などを見かけるたびに涼みたい誘惑にかられ、うち一回は負けた。アイスカフェラテの甘み。

「全裸で。たぶんだけど、起きてヴィデオ観てギター弾いて飲んでまた酔いつぶれて寝るっていう規則正しい感じでいると思うよ」

 安易に想像できたけれど、いちおうもう少し時間がかかると連絡を入れた。トートバッグにしまおうとした瞬間にスマートフォンが震えはじめる。「はいよ」という素気ない返事。

「頼もう」と佳音が扉を押し開けると、ぶら下がっていたベルが小さく音を立てた。ちりりん、と硬質で透明な音色だった。

 まず眼にした、というか正確には膚に触れてぎょっとしたのが、天井から吊り下がった糸だった。ちょうど蜘蛛の巣に引っかかったような感じで、右眼の瞼のあたりを撫でられたのである。

「ひあ」となんだか情けない声を出して、佳音の腕を掴んでしまった。

「なんか糸みたいな――」と言いかけて、絶句する。

 吊られた人形の結界。そう思った。

 天井には弧を描くように糸が張り渡され、そこに大量の人形たちがぶら下がっていた。手足の長いマリオネット。どれも人間ではありえない、軀じゅうの関節を複雑に折り曲げたポーズを取らされている。来訪者をいっせいに見下ろすよう目論んでの配置なのだろう、硝子細工の瞳の放つ鈍い光が、店内の薄闇の、あちらこちらに泛んでいる。

「これ、売り物なのかな」と上を向いたまま佳音が暢気なことを言い、「で、糸がどうしたって」

「このへんに触ったの」蟀谷を指さして訴える。佳音はまた天井を見上げ、

「遠いじゃん。緋色が本気でジャンプしたら届くかも、ぐらいの高さだよ。どのへん?」

 彼女は私に向きなおった。指先で私の額から瞼にかけてなぞり、最後に手櫛で前髪を整えてくれる。「くっついてはないみたい」

さっき私が立っていたあたりに、佳音はそっと手を伸ばした。空中を弄るように、ゆっくりと指先をひらひらさせる。「なにもないよ」

 私は憮然として、「でも触ったもん」

「物理的に触れる距離じゃないって。なんにも知らないお客が引っかかって、人形が落っこちてきちゃったら大惨事でしょ? そのへんはちゃんと考えてレイアウトしてあるはずだよ」

 言われてみればその通りだ。自分の髪の毛かなにかが触れたか、あるいはただの勘違い。そう考えるのが自然だ――と自分に言い聞かせる。

 しばらくふたりで人形を眺めた。店員がいないので、売り物なのかどうかは判らないままだ。私はそのうち首が疲れてきて止めたのだが、佳音は長らく鑑賞を続けていた。ときおり肩や首を廻しては、またすぐに上を向く。

 そのあいだ私は店内を見廻していた。背の高い窓が複数あるが、カーテンはすべてが閉じられている。開けることもあるのだろうか。外から見たら異様に違いない店内の光景ではあるが、もしかするとまた違った計算がなされていて、道行く人には思いのほか可愛らしい飾りが下がっているように見せかけるのかもしれない。

 来客用らしい椅子や、壁際には扉付きの書架もあった。ちらりと覗いてみたが、背表紙の金箔押しは古ぼけて暗がりに紛れ、タイトルまでは識別できなかった。

 奥に下りの階段があった。床にぽっと穴が開いていて、近づいてみれば階段があるのに気づく、という不親切といえば不親切な作りだった。

 佳音が私に近づいてきた。頷きあって地下へと降りた。

 地下の部屋は手狭で、壁も剥き出しのままだった。そのせいか一階よりも涼しい――いや、寒々しい。あちこちに雑然と積み上がった箱や、工具らしきものが詰め込まれた棚が立ちはだかるようで、視界はより小ぢんまりとして感じられる。店としては未完成のスペースのようだった。

 いちばん奥まったところに、私たちはひとつの影を見出した。

 歩み寄った。朧な影が輪郭をなし、その正体が知れた途端、私は立ち竦んだ。

 壁際に置かれた椅子の上に置かれた、白い剥き出しの上半身。僅かに首を傾げ、垂れ下がった長い髪が貌を隠している。肩から先は曲線を描くような滑らかさで、二本の腕が胴体に取り込まれている。

 そして胸元に走った傷口。そっと添えられた、骨ばった硬い指先。

 しばらく自分の呼吸音だけを聞いていた。眼を逸らすことができなかった。

 十三年前に祖父と見た人形がそこにいた。なんの疑いようもなく。

佳音が隣に立っていた。首だけこちらを向け、私の反応を窺っている。ただこくりこくりと頷いただけだったが、それで充分だったようだ。「おひさ、元気してた? 私たち、君に会いに来たんだよ。裂け目ちゃん」と小声で語りかける。

 彼女が口を噤んだ。静寂。

 その一瞬を楽しむように佳音は微笑し、人形に顔を寄せた――胸の傷口、黒々とした裂け目に。

「うわ」と彼女が声をあげた。しばらく同じ姿勢を保っていたが、やがて顔を上げ、「すごい、どういう仕組みなんだろ」

 佳音は私の肩を叩いて、

「伊月も見てみなよ。びっくりしたあ」

 胸がざわめいた。背中を押されるようにしながら、私も傷口を覗き込んだ。

 こつ、こつ、こつ、と足音がして、私はぱっと飛び退った。私たちが下りてきた階段に、いつの間にか人影が泛びあがっている。やがてこちらへと歩み寄ってきたのは、美術館の案内人の女性だった。

「お邪魔してます。この人形、すごいですね。どうなってるんですか」と佳音が挨拶もそこそこに問いかける。

「魔法」と案内人は言い、「とても強い、ね」

「やっぱり秘密ってことですか」と佳音。

 案内人は答えず、唇の端を小さく湾曲させて、

「見たの? なにが見えた?」

 佳音は昂奮した調子で、

「私自身です。鏡に映ってるっていうか――ピンホール? あんな感じで逆さになってるんです。それだけならまだ判るんですけど――どう見ても人形の姿で」

「そう」と案内人は含み笑いし、「愉しんでくれた?」

「びっくりしました。すごく面白いです」

 案内人は満足げに眼を細めた。心の底から喜んでいるようだった。

「あなたは? 見たの?」と今度は私に向けて言う。彼女が屈みこむようにして私に顔を近づけた。その白い膚。

 右眼。爛爛たる赤に縁どられた瞳孔の、深く孔が穿たれたような黒さ。

「……なにも見えませんでした」

 ようやくそれだけ絞り出した。心臓が早鐘を打っている。

 え? という困惑した表情で佳音が私を見やった。私は構わず、強く声を張って、

「勝手に入ってきてすみませんでした。私たち、これで失礼します。さようなら」

 佳音の腕をむりやり引っ張って、階段を駆け上がった。え、ちょっと、と彼女が不満げに声を洩らしたが、私は足を止めなかった。

 階段を上りきると、階下から唐突に笑い声が聞えてきた。案内人が笑っているのだ。あはははははは、という高らかな哄笑だった。

 振り返りもせずに扉を押し開けて、外へ転がり出た。

 すっかり息があがっている。胸から喉にかけて、締め付けるように痛みが走った。吐きそうなほどだ。

 夏の太陽はいつの間にか雲に覆われ、その姿を隠していた。このまま夕闇が訪れるのだろうという、確信めいた予感におそわれた。

 

 ――そして私は夢を見るようになった。人形の夢を。

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