第5回

 佳音と私の形をした薄い影が床を、折れ曲がって壁を這っている。照明の悪戯か、あるいは私自身の乱視のせいか、影が増幅してふたつみっつ重なりあって見える。近づいては遠のき、色濃くなり、薄れる。どちらが私でどちらが彼女なのか――眼が疲れ、なんだか咽まで渇いてきたような気がする。

「これ」と唐突に佳音が立ち止まったので、追突しかけて危うく踏みとどまった。首を傾けて覗いてみれば彼女の眼前には展示台があった。上に乗せられているのは、色とりどりの、小さな人形たち――。

「さっきの絵に出てきたのと――」

「同じっぽいね。絵が先か人形が先か、どっちにしろ世界観を共有してる。全員いるのかな?」

 またふたりで横並びになって、端から端まで眺め渡した。それから一体ずつ観察しては、何枚目の絵のどこに出てきた、と話し合う。楽器を弾いていた、顔を寄せ合って内緒話をしていた、本棚の上で静かに坐っていた、狂気に満ちた眼で剣を振りかざしていた――。

 ふたりで照合したところ、絵に登場していた人形たちは全員がここにいるようだった。いなかったのは少女ふたりと、怪鳥仮面だけだ。

 人形はみんな額縁の通路をくぐり抜けてやって来たみたいに現実味がなく、ふと気がつけば絵に飛び込んで元の世界へ帰ってしまうのではないかと思うほどだった。物体の重量感を感じさせない、物語の一部としての存在。最初からそういう意図をもって作られたのだろうか。

「可愛くない?」と佳音がなかの一体を指さす。

「あ……うん」

 その人形自体への好悪というより、一緒に飾られているほかの個体との明確な違いを見出せず、なぜそれを選んだのか判りかねての曖昧な返答だったのだが、彼女はありありと膨れて、

「私が可愛いと思うものって、なんかいまいち理解されないっていうか、逆にきもいとか言われるんだよね。なんで? らふらんだって可愛いのに、緋色なんか『キモ可愛い系?』とか言うし」

「それは独特の感性というか」

「どうせマイナーな性癖だし」

 可愛いのになあ、とまた佳音が独り言つ。下手に取り繕って余計に機嫌を損ねられても困るので、黙っていることにした。幸いにして彼女の関心は次の展示へと移ろったらしく、また気紛れな猫のように歩きはじめた。

 天井の明かりがますます絞られたようで、会場は狭いトンネル程度の明るさになった。思わず摺り足気味になる。展示会というのは普通、順路に沿って整然と作品が並んでいるものではないのだろうか。遊園地のアトラクション、というよりお化け屋敷のように、絵や人形と遭遇するタイミングや効果まで計算に入れたうえでの配置なのかもしれない。

「暗。見せる気あんの」と佳音がつぶやく。ポケットからスマートフォンを取り出して掲げ、あたりを照らし出した。

 左右する画面の光が、なにか白いものを舐めた。

 互いに顔を見合わせた。佳音の手が今度はゆっくりと、光を近づける。

 人形だった。その剥き出しの膚。

 小振りな木製の椅子の上に坐った人形は、片側の肘掛けに体重を預けるように傾いで、脚を反対側へだらりと伸ばしている。骨格の浮いた、痩せ細った軀。関節の位置にある球体。肩幅が狭いせいで相対的に大きく見える頭部と、色褪せたような髪。公式サイトに掲載されていた一体に違いなかった。

「どう? どう?」と途端に佳音がはしゃぎはじめる。「なにか思い出した?」

 似ている。記憶のなかに巣食っている人形はやはり、同じ作者の手によるものだ――そう私は直感したのである。

 ちらりと視線を送っただけで佳音には通じた。さすがに鋭い、と言っていいのだろうか。

「やっぱりそうだ。十二、三年ぶりの再会? うわあ」

「でもこの人形じゃない」

「判ってる。胸に孔が開いてて腕が無いんでしょ? それを捜そう」

 人形たちは薄闇のなかにぽつぽつと置いてあるようだった。賑やかに集めてあり、ひとつの集団として鑑賞することを想定されてもいたであろう先ほどの作品群とは正反対に、ひとつずつがばらばらで、誰とも寄り添うことのない孤独さを感じさせた。

「作者の人、さっきのお姉さん、多才なんだねえ。絵も描けて、可愛いのも作れて、こういうちょっとグロいのも作れて」

「あの人が作者と決まったわけじゃ」

「訊いてみればはっきりするよ。絶対あの人」

 ――部屋を一周した。そのあいだは、ふたりともずっと黙っていた。

 最初に観た一体の目の前に来て、私はようやく口を開いた。

「ない」

 私が祖父と見た、その記憶に合致する人形は、見つからなかったのだ。

「そんなわけない」とすぐさま佳音が主張し、注意深くもう一回りしたが結果は同じだった。やはり同じ人形の前に戻ってきて、あとは出口を示す緑色のサインがぼんやりと燈っているのが見えるばかりだ。

「出たら再入場できないよね? もっかい最初からぜんぶ調べてくる。伊月はここで、なんかほかに見覚えがあるやつがないか観てて」

 返事をする前に彼女が通路を逆走していってしまったので、私はぼうっと人形を眺めながら待つしかなかった。深い眠りに沈んでいるようでも、浅い微睡のなかに揺蕩っているようでもある人形たちの貌を見つめていると、記憶の襞を引っ掻かれるような感じはする。佳音はいまどのあたりにいるだろう――最初の絵の前あたりだろうか?

 軽く眼を閉じ、三枚の絵を順番に脳裡に甦らせてみて、ふと気づいた。眼を開いて、再び眼前の人形を見つめる。

二枚目の、ベッドに横たわっていた少女の脚。あの白い膚の色は、ここにいる人形たちに似ている。

 まるで作風が違うから関係ないものとばかり思っていた。少女の片割れは、毛布の下でこんな姿になっていたのではないか。佳音が「可愛い」と評した人形たちとは掛け離れた、眠れる屍のような姿に。

 私は顔を上げた。佳音が戻ってきたのだ。明白に落胆しきった表情だった。

「やっぱりいなかった」

「そうしたら他人の――他人形の? 空似……だったのかなあ」

 佳音は答えない。

「どうする? 帰る?」

 見つけるまで帰らないと言い張られるのを半ば覚悟していたのだが、彼女は黙って出口へ向かった。捜しつくしたという自負があるのだろうか? 迷いない足取りだった。

 会場を出て見渡してみれば、入口がすぐ隣にあった。思った通り同じような場所をぐるぐると迂回させられていただけのようだ。案内人の女性もまったく変わらない場所に立っていて、私たちに気づいて目礼してきた。佳音はまっすぐに彼女に詰め寄り、

「お姉さんが作者なんですよね。私たち、判っちゃったんだから」

 ぽかんとしてしまった。確かに直撃と言ったにしろ、これほど真正面から問い詰めるとは思っていなかったのだ。そして私「たち」はやめてほしい。私にはそこまで自信がありません。

「どうしてそうだと?」と案内人は微笑している。明確に否定されなかったからだろう、佳音は完全に肯定と受け取った口調で、

「逆に違う理由がなにひとつ思いつきません。勘と言われれば勘だけど、絶対そうだって思ってます。お姉さんの言葉を借りるなら、人形たちが教えてくれたんです」

「まあ――そう思いたければ、どうぞご自由に。あなたたちの想像を膨らませる手助けをするのも、私がここに立っている意味のひとつだしね」

 この人もこの人で、煙に巻くような言い方しかしないのはなぜだろう。

「じゃあそう思います。友達が昔、あなたの人形のひとつを観たことがあるって話をしてくれました。でもここには置いてなかった。どこに行ったんでしょう」

「どんな人形?」

 佳音は私に肘鉄を食らわせながら、「ほら、裂け目ちゃん」

 彼女のなかではそういう名前なのかと思う。私はおずおずと、

「四歳かそのくらいの頃に観た記憶がぼんやりあるだけなので、違うかもしれませんけど、感じは最後の部屋にあったものにとても似ていました。上半身しかなくて、腕も軀と一緒になっていて、指先でこう――」

 胸元に手をやり、シャツをはだけるような動作をしてみせる。

「そう、なるほど」とあっさり頷かれたので、私は愕き、

「本当にあるんですか」

「あなたが話してくれたものと同じだって確約はできないけれど、事情があってこの展示会に出されていない作品は確かに。その子は、いまはあるお店にいる」

「名前と場所を教えてください。えっと、やっぱりこれに書いて」佳音が慌ただしくバックパックを軀の前に廻して、なかから手帳とボールペンを取り出す。案内人は素直に受け取り、開かれたメモ用の頁にさらさらと書きつけて返してくれた。

「お姉さんは普段、ここにいるんですか」と、手帳と案内人の貌を交互に見ながら佳音が問う。彼女はまた謎めいた笑みを泛べて、

「さあ、どうかな」

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