第4回

 宵宮市美術館は、どこか時代がかった造りの横長の建物だ。昭和六〇年代に一度改築しているらしいが、印象としてはだいぶ古めかしい。綺麗に刈り込まれた生垣を廻って会場に辿りついた私たちがまず目にしたのは、夏休み期間とはいえ平日の昼間とは思えない人だかりだった。

 日差しはちょっと信じがたいほどに強まっている。ここに並ぶのかと思うと気持ちが萎えかけたが、

「これたぶん、岡麻又郎展の列だよ」と佳音が掲示を見つけて指差した。デフォルメの効いた淡い色使いの動物たちの絵の横に、太字でその名前が躍っている。

 地元出身の、それなりに知名度のある絵本作家だ。人気アイドルグループ「フリースタイル」のリーダー、成瀬くんが愛読書として挙げたかどで話題になっている、というニュースを見た覚えがあった。

「そうすると別館のほうかな」

 私たちは行列を避け、別館の入口へと向かった。果たしてこちらはがらがらだった。

 自動ドアをくぐる。薄茶色を基調としたホール。照明が穏やかな灯りを床に投げかけていた。窓口で「人形展はここですか」と確かめてから、ふたりで入場の手続きを済ませた。

 地下へと続く一列のみのエスカレーターに乗る。下るにつれ仄暗くなり、空気もひんやりとした。展示の性質上、温度や湿度の都合だろうと漠然と思ったが、半袖の腕に感じる薄ら寒さは去らない。

 エスカレーターが途切れた。一歩踏み出した足裏に、微かに柔らかな感触が伝わった。視線を落としてみれば、絨毯のようなものが敷いてある。佳音と隣り合い、ふたりして狭い通路を歩む。

「ここ、こんなだっけ」私がつぶやくと、

「来たことないから判んない。あっちの本館は――小学生のときだっけ? 課外授業かなんかで連れて来られたんだったような」

「そうだったね。あのころから感想文、私の見て書いてたよね」

「参考にしただけだし。丸写しだとばれるもん」

 天井には私たちを誘導するかのように、ぽつり、ぽつりと灯りが燈されていたが、光量はたいしたことがなく、なんだか洞窟の中を進んでいるような気がしはじめた。そう長い距離でもあるまいに、しきりに通路が曲がりくねっているのも不思議だった。

 ――やがてぽっかりと開いた空間に行き当たった。

 展示の入口と思しき場所に案内人の女性が立っている。痩身に黒の上下。薄暗いうえに俯きがちなので、顔立ちは見て取れなかった。ここで改めてチケットの提示が必要なのだろうと思い、佳音に「チケット出して」と言う。

 私はずっと掌に収めっぱなしだったが、彼女はどこかにしまい込んでいたらしく、隅のほうに寄りながら「ちょっと待って」とポケットを弄りだした。

 とりあえず私だけで近づいてチケットを見せると、案内人は小さく頷いた。何気なく彼女の顔を見やって、どきりとする。右眼だけが泣き腫らしたように赤く、上の瞼が重たげに被さっているのだった。

「二名様ですか」と問われた。抑揚の欠けた声音だった。佳音がようやくチケットを探り当てて、「そうです」と歩み寄ってきた。

「こっちにお客さんって、珍しい」と、案内人は他人事のような調子で言った。そう口に出したくなるほど閑散としているのだろうか。

「他にお客、いないんですか」と佳音。「私たちだけ?」

「今なら貸し切りみたいなもの」

 佳音がこちらにピースサインを突きだした。私も同じようにして、彼女と指先を触れ合わせる。

 一瞬の後、指先の感触が離れた。佳音は腕組みして、

「みたいなものってなんですか」

「それはほら」案内人は人差指を頬に当て、視線を泳がせた。考え事をするときのよくある癖だ、顔の左半面だけを見たなら。左眼は僅かに上を向いていた。奥まった赤い右眼は虚ろなままだ。瞬きもしない。

「――人形たちがいるから」

 佳音は笑みを泛べた。答えが気に入ったようだった。

「もし作品について質問したら、答えてくれますか」

「判る範囲でね」と彼女。「でも私より、できれば人形たちに訊いて。じっと見ていれば、自分からいろんなことを教えてくれる。饒舌な子も無口な子もいるけれどね」

「ありがとうございました。会いに行ってきます」

 小さく頭を下げ、佳音はトンネル状になっている入口に身を辷り込ませた。私も会釈してから後に続いた。

「あの人、作者だ」案内人の姿が見えなくなるなり、佳音が私の耳元に唇を寄せてきて、そう囁いた。

「なんでそう?」小声で問い返す。外見の特異さに気圧された部分も少なからずあったにしろ、私の胸中にも、彼女が単なる案内役ではないかもしれない、という感覚は生じていた。しかし作者? そこまでの確信は抱けない。

「絶対そうだよ。人形が饒舌とか無口とかさ、自分で作ったんじゃなきゃ言わないって」

「作風からの推測かも。いろいろ飾ってあったり、手を加えてあったりする人形は饒舌。そうじゃなくて、人形としての形だけに拘ったものは無口」

「だけど――ふつう人形のこと、あんなふうに自分のことみたいに喋る? ガイドさんってもう少し客観的に、これは何年の作品ですね、とか説明するもんじゃない?」

 佳音は私の答えを待たず、「まあいいや」と独り言つように発し、

「出口でまた直撃しよう。そのほうが手っ取り早い」

 最初に突き当った壁に、細やかな彫り込みの施された金色の額に収まった絵が、何枚か横並びに飾ってあった。どれも同じ作者の手によるものらしく似通った画風で、どうやら一続きの物語の体を成しているようだった。これも展示の一部なのだろう。私たちは足を止めて眺めはじめた。

 一枚目は、明らかに現実のものではない街の場面。建物――お城の形をした黒いシルエットは、もっとも高いところが頭のように見え、尖塔はちょうど左右の腕の位置から飛び出して、空を指している。窓の配置もなんとなく顔を意識させるようで、どうにも子供の落書きのようだ。そういうおかしな建物の影があちこちに並んでいる。

 背景の淡いブルーの空には、より色の薄い水色の光が溶けだして、画面の上部から中央にかけて緩やかにグラデーションしている。夜空に浮かぶブランコのように、巨大な三日月が下半分のアーチを描いて、その光が地上へと降りそそいでいるためだ。

 月明かりの下で、なにやら大袈裟な身振りをするように描かれているのは、大勢の人形たちだ。文字通り人型のものが多いが、ぬいぐるみに近い動物型のものもいる。色とりどりの衣装をまとい、ある者は手を打ち鳴らし、またある者は楽器を奏で、夜の宴に興じているようにも思える。

 すぐさま彼らが人形だと判ったのは、描写のされ方が違う二人組の存在があったことによる。頭身も服装も現実のものに近いふたりの少女が、画面の下部、もっとも手前に見える位置にいるのだ。この街にやって来たばかりらしく、不安げに互いの手を握り合い、おそらくは小さな囁きを交わしながら歩いている。

 人間の来訪者を、不思議の街に棲む人形たちが歓迎している――物語の大筋でいえばそのような場面なのだろう。

 二枚目は、小部屋での一場面を描いたもの。部屋の中央に置かれた木製の寝台の上で、すっぽりと厚い毛布にくるまれている誰かの周りを、人形たちが囲んでいるという絵だ。枕元にある棚と、革背表紙の古書らしい本が収められた書架の上に整列した人形たちは、いずれも無表情で虚空を見つめている――ようなのだが、その実すべての硝子の瞳が寝台に向けられているかにも思えて、静かな緊張を私に感じさせた。ジグソーパズルのピースにも似た模様が組み合わさってできている床や、窓枠の装飾や、古びた壁の色合い――寝台と人形たちの周囲に注意深く配置されているらしい小道具を描く筆遣いは、いずれも異様なほど細やかで、全体に神経質な印象が漂う。

 寝台は人形用に設えられたものらしく、ずいぶんと小さい。顔が隠れているのでどちらなのかは判らないが、横たわっているのは先ほど出てきた人間の少女のひとりであるようだ。手足が収まりきらず、外にはみ出しているのが見て取れる。

眺めているうちに、はみ出した手足のうちの一本、右足だけ様子が異なっているのに気づいた。色がはっきりと白く、また足首の関節が球体に代わっているのだ。

 三枚目の絵には、三人目の人間――少なくとも人形には属さないらしい人物が登場する。描き分け方でいえば明確に人間の少女たちに近いのだが、肩から鷲のような羽を生やし、また奇怪な仮面をかぶっていて、正体がよく判らない。少女を勾引かす悪漢? しかしその手足、軀つきは優美な肉食獣のようにしなやかで、仮面の下には美少年、あるいは女性の貌が隠されているのではないかと想像させるようだ――翼ある半人半獣のイメージから、ギュスターヴ・モローの描くスフィンクスやキマイラを連想したせいかもしれないが。上から下まで黒尽くめの、色彩を欠くこの幻獣めいた人物が、人間の少女の片割れの手を引き、どこかへ連れて行こうとしているという場面だった。

 城館の出入り口は跳ね橋になっていて、その上をふたりが駆けている。狭い門をいまにもくぐり抜け、表へ飛び出そうとする瞬間を切り取った絵のようだ。前の二枚よりも躍動感に溢れているが、線の精緻な印象は変わらない。少女の眼は愕いたようにかっと開かれて、仮面の人物を見据えている。

 仮面の人物は、人形たちとは敵対した存在であるらしく、刀や槍を手にした人形たちが、哀しみや憤怒の表情を泛べながら後を追いかけている。少女を取り戻そうとしているのか、あるいは怪人を殺してしまうつもりなのか。

「――なにこれ。尻切れ蜻蛉じゃん」

 隣から、佳音の小さな、しかしむくれたような調子の声が聞えた。確かに絵はこの三枚で終わっており、物語の結末はまったく判らないままだった。彼女の視線が絵から離れて私のほうへ移った。やはり小声で、

「この三枚の絵を見てお話を作りましょう、配点は十点って設問だったとする」

「別に読み方は自由なのでは」

「そういう問題だったとする」ことさらに怖い顔をして言う。

「瀬那佳音さんの解答。人間の世界が厭になったふたりの女の子は、逃げ出して人形の国へ行きました。人間をやめて人形になるためです。一人目の女の子は、人形のベッドで眠っているあいだに軀が人形になってゆきました。ところが二人目の女の子は、人形になる前に怪鳥仮面にさらわれて人形の国から連れ出されてしまいました。人形たちは女の子を助けるべく後を追いかけました。ここからは想像だけど、怪鳥仮面は人形たちに倒され、無事に人形の国に帰った女の子は人形になることができました。おしまい」

 私が頷いただけで黙っていると、佳音は憮然とした表情になって、

「何点」

「えーと、八点ぐらい?」

「採点基準と総評を述べよ」

「まず最初の、人間の世界が厭で、人形になりたくてやってきたっていうのが、佳音らしくていいと思う。でもこのふたり、凄く不安そうな表情じゃない? 人形の国に来るのが楽しみで仕方がないって感じには見えないような」

「読み方は自由じゃなかったの。まあ、そこはほら、やっぱり初めて行く場所だから、多少はびびってても不思議じゃないでしょ。私たちだって、緋色のバンド観に最初にライヴハウス行ったときは、たぶんこんな感じだったと思うよ」

 一理あったので、その点については反駁しなかった。私は続けて、

「二枚目の女の子は、寝てる間に自動的に人形になったの?」

「そう。人形の改造手術を受けたってのも考えたし、そっちでもいいんだけど――たぶんね、人形の魔法濃度が高いところにずっといると人形になる。周りの連中は、場の魔力を保つために人形らしく振舞ってる。人形に囲まれたベッドはいちばん魔力が強いの」

 設定の詳細さに感心した。魔力の強い場所に留まりつづけると変身してしまう――ディズニー映画のピノキオのように。子供たちが驢馬になってしまう理由を、私はなぜか初めて観たときからそう思い込んでいるのだ。彼らが悪事を働いたから、ではなく。

「人形になったのは見えてる右足だけ?」

 佳音は「ん」と考え込んで、

「たぶん。なんで右足が先に人形になったのかは――まだ決めてない。こんだけ細かい絵だから、なんか理由があるんだとは思うけど」

 眉間に皺を寄せている。しばらく待ってみたが答えが出てこないので、

「三枚目の仮面の人、あれは佳音としては悪役なんだ?」

「怪鳥仮面」

「怪鳥仮面ね。人形たちが善玉、怪鳥仮面が悪玉で、女の子は悪い場所に連れ去られそうになってるって解釈?」

「少なくともこの絵の世界ではそうなんじゃない? 人形たちからすれば、女の子ふたりは歓迎すべき来訪者、怪鳥仮面は招かれざる客。女の子誘拐して、どうすんだろ。サーカスにでも売るのかな? とにかくそういう類の奴。怪鳥仮面は人形たちの宿敵なんだけど、さっきも言ったようにこの後ついにお縄になる。で、助けられた女の子は人形になってめでたしめでたし」

 そこまで言い終えると佳音は満足げに吐息し、

「あとで伊月の模範解答も教えてね。そろそろ次のを見よう」

 頷いた。偉そうに採点しておきながら――といっても問答の大部分は興味本位の質問を繰り返しただけだった気もするけれど――私自身、まだ物語を考え終えていなかったのだ。いますぐに聞かせて、とせがまれたら、どう切り抜けたものかと思っていた。

 軽やかな足取りで通路を歩む佳音の後頭部を眺めるようにして彼女に追従しながら、頭のなかにあるイメージを繋ぎ合わせてみた。読み方は自由、とさっき自分で言ったばかりなのに、実のところ私は、佳音の物語にまるきり同意できずにいる。あの不安げな少女たちは――望まぬうちに人形の国に迷い込んだのではないか。帰り道を求めて彷徨っていたのではないか。人形たちはその内面を見透かして、優しく愉快な玩具を演じたのではないか。心の隙間に取り入られてしまった少女は人形に変えられ、辛うじて免れたもうひとりの少女だけが、佳音言うところの「怪鳥仮面」に助け出されたのではないか。

 むろんこの物語がまるきり見当違いということもありうるし、そもそも絵に描かれただけの夢想と切り捨てて終わりにしてもいいはずなのだけれど。

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