第3回

 驚いて立ち上がった。「はい、ジェフです」

 やってしまってから、自分でも頓珍漢だと思った。それに日本語。ところが相手の女性は流暢な発音で、

「やっぱジェフだ」

 まるで物怖じせずに近づいてきたブルテリアが、黒い鼻先をジェフに寄せる。反応して起きあがったジェフもゆったりと尾を振りながら、相手のにおいを嗅いだりしている。親しげに挨拶を交わしているような感じだ。

「あの……お知り合いでしょうか」

「犬同士はだいぶ前から。佳音ちゃんがよく、お店に連れてきてくれるんだ。あ、あたしは七道ミチル。佳音ちゃんの友達?」

「ヒチ――シチドウさん? 始めまして、よろしくお願いします」ちょっと言い違えてしまった。ハーフなのだろうか?

 七道、と滑らかに発声してから、彼女は快活に笑い、

「発音しにくいね。マスターにも言われる。七つの道で七道。ミチルでいいよ、佳音ちゃんもそう呼んでる」

 眼鏡の奥で、ちょっと悪戯気な碧い瞳が輝いている。パナマ帽の下に覗く髪も金色だ。小さく整った白い顔に、ほっそりとした鼻梁。撮影途中で抜け出して、お忍びで遊びに来ている女優さんのように見えた。

「長壁伊月です。長い壁に伊太利亜の月と書きます。佳音のクラスメイトです。ちなみにミチルっていうのは――チルチルミチルの? 同じ綴りですか」

 ぱっと思いついて訊いてはみたものの、正確な綴りが思い出せない。フランス風だろう、というイメージがあるだけだ。

「下の名前も普通に漢字だよ。未だ散らずで未散。パパがフランス人、ママが日本人で設定だけはリカちゃんと一緒なんだけど――ごめん、フランス語判んないんだよね。日本生まれ日本育ちだから、母語日本語。忘れる以前にぜんぜん知らないの。それで、こっちはキャロル」

 彼女がブルテリアに視線をやって言う。未散さん、と頭のなかで漢字を当ててみれば、この華やかな女性にふさわしい素敵な名前のように思えた。

 キャロルは小さくてつぶらな眼をした、穏やかそうな顔立ちの犬だ。左眼の周りにだけ黒い斑がある。ぴんと立った大きな耳の内側は、鮮やかなピンク色だった。

「ルイス・キャロルのキャロルですか」と、また思いつくままに私。今度はちゃんと綴りが思い泛んだ。Carroll。Carolだとクリスマス・キャロルのキャロルだ。もしかしてこちらが正解?

「アリスの作者だっけ? キャロル、あたしのじゃなくてバイトしてるお店の犬なんだ。名前付けたのはマスター、つまり店長なんだけど、たぶん違ったと思うな。あれ? でも作家から採ったって言ってたような――」

 軽く目を閉じて俯き、蟀谷に人差指を当てる。しばらく唸りつづけて、不意にぱっと顔を上げたかと思うと、

「ごめん、忘れちゃった」

 けろりとした口調だった。やや肩透かしだったけれど、そこは気にしない素振りで、

「なんてお店で働いてるんですか」

「スーベニア。ほんとはスーベニールなんとかってフランス語なんだけど、ほら、さっき申し上げた通り、わたくしフランス語が出来ないものでして」

 彼女はそこで言葉を切ってちろりと舌を覗かせ、「シルブプレ」

 それは「お願いします」ではなかっただろうか。

「おみやげ屋さんなんですか」と私。スーベニア、というのは確かそういう意味だ。

「それっぽいのも置いてはいるかな。いちおうコンセプトとしては、マスターがいろんな場所から収集してきた珍しいアイテムをご紹介って店なんだ。だからマスター、だいたい仕入れに出ちゃってて、あたしがずーっと店番。それでね、たまに帰ってきたときに、今度はどこ行ってたのって訊いても教えてくれないの。おまえは店の名前も読めないのかって、意味の判んないこと言うんだ。超意地悪」

 そのとき「未散ちゃーん」と声がして、私たちは同時に視線をやった。佳音がこちらに駆け寄ってくる。

「キャロル! 散歩? よかったねえ、未散ちゃんと一緒で」

 首の下を撫でられて、キャロルは嬉しそうにしている。ジェフが羨ましげな眼で見ているので、代わりに私が手を伸ばして撫でてやった。

「佳音ちゃん、おはよ。この子がよく話してる伊月ちゃんでしょ?」

「そう。今度お店に連れてくよ。今日はふたりで美術館の人形展に行くんだ。未散ちゃんも行かない? ほんとは三人のはずだったのに、ひとりダウンしちゃって」

「せっかくだけど、きょうバイトだから」未散さんはアンティーク調の小振りな腕時計を覗き、「そろそろ戻ってお店開ける準備しないと。伊月ちゃんもまた」

 風が吹いた。淡い花のような香りを残して、未散さんはキャロルを連れて小走りで去って行った。

「どんなお店?」とジェフのリードと水鉄砲を渡しながら佳音に訊いてみる。

「服とかアクセとか雑貨とかいろいろ。小さい店だけどインテリアも凝っててお洒落だよ。店名が確かスーベニールなんとかってフランス語で――忘れちゃった。私も未散ちゃんもただスーベニアって呼んでる」

 未散さんとまったく同じ言い方をしたので、私は少し笑ってしまった。スマートフォンを出し、検索をかけてみる。確か綴りは――Souvenir。


1(旅行・場所・出来事などの思い出となるような)記念品、みやげ。

2 過去の出来事を思い出させるもの。

 

 所定のルートを踏破し、私たちは瀬那家の前まで戻ってきた。私からすれば耐えがたいほど暑いというわけではないが、気温はずいぶん上がったようだ。こちらを見上げたジェフも、だらりと長い舌を垂らしている。

 玄関に入るとずいぶんと涼しく感じた。「あっつ」とアディダスのスニーカーを脱ぎながら佳音がぼやき、

「伊月もちょっと上がんなよ。少し休憩してから行こう。何時からだっけ? 美術館」

 私もローファーを脱いだ。人形展のサイトを見たときの記憶を辿って、「一〇時」と答える。

 佳音がジェフの足を拭いてやっているあいだ、私は二階の部屋に通されて待った。拠点が私の部屋に移ってからはご無沙汰だけれど、小さいころには何度も訪れた部屋だ。印象は当時とほとんど変わっておらず、学習机や、修学旅行で買って来たらしいお土産物、一昔前に流行ったキャラクター「梨の天使らふらん」のマスコットなどが置いてある。

 ドアが開き、お盆にプリンをふたつ乗せた佳音が入ってきた。両手がふさがっているのに、と思う間もなく、器用に足だけでドアを閉める。

 布団の取り去られた炬燵に佳音がプリンを置く。彼女は私の向かいにぺたんと腰掛けた。

「こないだバケツプリンやったあと、もう一生プリンはいいと思ってたのに、また買っちゃった」

 三人ともプリンが好物なのだ。樽のようなバケツ、紙パックの牛乳三本、カラメルソースなどを買い込んだ帰り道は、一種の狂騒状態にあったと思う。無限に食べられると全員が豪語し、奪い合いになるとさえ思い込んでいた――最初のうちは。

「あのサイズでちゃんと自立したの、ちょっと感動しちゃった。始まって二〇分くらいはおいしいおいしいって喜んでたのに、途中からお通夜みたいな雰囲気になったよね」

「あの絶望的な空気の中で緋色、超頑張ってた。ひとりで二リットルぐらい食べたんじゃない?」

 私たちが早々に根を上げたあとも、緋色だけは無残に形の崩れたプリンの山と格闘しつづけた。そうして残りのすべてを胃袋に収めてしまったのだ。最後の一口を放り込み、からん、とスプーンを置いてひっくり返った彼女の健啖ぶりに、私たちは深く感銘を受けたものだった。

「今になって気付いたんだけど、醤油かけると海胆の味になるっていうよね」

 佳音は「それだ」と手を打ち、「あのとき言ってくれれば、もっと食えた。うう、リットル単位の海胆」

 私たちは通常の大きさ、味のプリンを食べ終えた。ごみを片付け、また元の場所に坐った佳音が、

「いつも伊月んちだから落ち着かないや。自分の部屋なのに」

「滞在時間的にはむしろ私んちの住人に近いよね。下宿人? 家賃貰ってないから同居人か」

「払ってほしい? 軀で払うよ」

「肉体労働でもしてくれるの」

 クッションが飛んできた。受け止めてみればこれも梨の天使らふらんだ。好きなのだろうか――しばらくテレビでは見ていないけれど。

「でもさあ、抱え込むなら、緋色よりはまだ私のほうが楽だと思うよ。荷物少ないし。楽器も機材もCDもお酒も持ってないもん」

「佳音まであの調子になったら、いよいようちが倉庫になるよ。緋色があれだけ持ち込んできてるのって逆に凄いと思うの。ギターとか、初めのうちは怖くて指一本触れなかった」

「信用されてるんだよ。伊月なら勝手に売り払ったりはしないって。そのうち着替えからなにからぜーんぶまとめて移住して来るんじゃない」

「真面目な話、着替えは持ってきてほしいかな。緋色いま、あのまんま裸で寝てるの」

 途端に佳音は破顔し、

「部屋では裸族だ。パンクはワイルドだね」 

 ひとしきり笑い転げてから、彼女はあれ? という顔をして口を噤み、

「パンクの人ってどういうの。パンカー?」

「パンクス」

「なるほど。パンクス。私だけロックのことってぜんぜん知らない。今だから言うけど、クラス替えで緋色と一緒になったばっかりのとき、正直やばい奴だとしか思わなかった」

 大半の生徒たちからすれば、いまだに彼女は「やばい奴」のままなのではないかという気がする。出席日数からしてぎりぎりだし、私服通学だからといって、レザーライダースにスキニーデニムというライヴ会場そのままの格好で平然と登校してくる女子高生はなかなか珍しいと思う。

「付き合ってた男だか誰だかをぶん殴って、歯を二、三本折ったって話があったじゃん? こいつには近づかないようにしようと思ってたら、伊月が普通に喋ってる。社交性が零に等しいことで有名な長壁伊月が私以外の、それも超デンジャラスな奴と口をきいてる。どうしようかと思った」

「そんな話あった?」

「あったんだよ、あとで本人に訊いてみな。正当な理由あっての鉄拳制裁だったらしいから」

 私が問い返す前に、学習机の上の時計――これもらふらんだ――をわざとらしく振り返り、佳音は立ち上がって、

「さあて、そろそろ行こうか」

 にやにやしている。蛇の生殺しといったところだ。

 これ以上詰め寄っても教えてはくれまい。佳音に続いて部屋を出ながら、私はスマートフォンを鞄から抜き出していた。

「訊くの早」と呟いて佳音が立ち止まる。前がふさがったので私も止まり、一階へと降りる階段の途中で、立ったまま電話を架けた。

「どうしたの」と緋色は出てきた。どう話したものかまるで考えていなかったので、

「えっとその、調子は良くなったのかなって」

「だいぶ。帰ってくるまで居ていい? 鍵持って行っちゃったんだから、それしかないか。あとご飯貰ったよ、ごちそうさま」 

「うん、ちゃんと食べられたんだったらよかった。こっちは今から人形展に出掛けるところだから、もうちょっとかかる。寝ててもいいし、本とか漫画とかDVDとか見てても」

 佳音が肘でこちらをつつく。本題に入れと急かしているのだ。

「ほんと? じゃあ『ラスト・ワルツ』ってある? ザ・バンドの」

「ある。どこだろ、テーブルの横のラックの――」

 さっきより強い肘鉄が来た。幸いにして私の呻き声は、「あった!」という歓声に掻き消された。

「あの――あのさ――ちょっと訊きたいんだけど、その――緋色って」

「なに」

「付き合ってる人とかいるの?」

 背後で佳音が噴き出した。同時に「はあ?」と緋色の大声。

「いないけど、なんで急に?」

 佳音は壁に手をついてへたり込んでいる。必死に笑いを堪えているらしい彼女を横目に見やりながら、

「えっと、今じゃなくて――昔付き合ってた人? となんかあったって聞いて――ちょっと大変だったみたいだから、私」

 もはやなにを問い質そうとしているのか判らない。スマートフォンを握る手が汗ばんで滑り、余計にあたふたする。緋色は緋色で、電話の向こうで激昂している。

「付き合ってた奴って誰のこと? 誰になにを吹き込まれたの? 佳音? いるんでしょ? 代わって」

「はいはい」と指先で涙を拭って、佳音が私の手からスマートフォンをさらう。あまりに声が大きすぎて筒抜けになっていたようで、電話を取っていく動作は物凄くスムーズだった。そしてまだ呼吸が落ち着いていない。そこまで笑わなくてもいいと思う。

「しばかれて歯を折った可哀相な奴の話。してやって」

 電話が戻ってきた。そっと耳元に持っていくと、緋色は長々と吐息して、

「言っておくけど、付き合ってたとかじゃないから。ずっと前に組んでたバンドのベース。今後の方針のことで相談があるからって――まあ、ひとりで出てった私も馬鹿だったんだけど、飲まされたコーラになんか盛られたんだね。べろべろに酔っちゃって、家に連れ込まれて」

「……どうなったの?」

「すんでのところで我に返って、ぶちのめして逃げてきた。最初の頭突き、加減しなかったから鼻っ柱折ったかもしんない。ざまあ見ろ」

「それは正当防衛なんじゃ」

「ちょっとやりすぎた。過剰防衛って言うんだっけ? 一発目で戦闘力奪ってたのに、こっちは臨戦態勢に入って頭が冴えてきてるから、なにされそうになったか全部思い出して。こいつ許さん、殺す、と」

 正当な怒りだと思う。自分が同じ立場だったらと考えると恐ろしい。

「そしたら次の日、ギターとドラムから連絡が来た。一緒に頭下げに来るのかと思ったら、おまえは首だって。おかしくない? そりゃ怪我させたのは悪いけど、自業自得でしょ? 乙女の純情をなんだと思ってんだ。そんなバンドこっちが願い下げだって辞めてやった」

 そういうわけ、と強い口調で緋色は言い、

「納得した?」

「した。無事で本当によかったね」

「うん。あのタイミングで目覚めなかったらやばかったね。動物的勘っていうのかな、これ危ないって直感して軀が反応するんだと思う。そのおかげで、何度も喧嘩に勝ってきた」

 でもね、と彼女は言い足し、

「周りにどう思われてるか知らないけど、理由もなく暴力を振るったりはしない主義なの。格闘家の端くれとしては当然じゃない?」

「当然だと思います」

「そして付き合ってる人はいない。判った?」

「判った」

「そして『ライトスタッフ』も観たい」

「ごめん、そっちはうちにない」

 電話が切れた。笑いの発作は去ったらしいが、佳音はまだにやついている。

「『付き合ってる人とかいるの?』って、凄い攻め方」

「だって」――どう切り出していいのか判らなかったのだ、本当に。

「面白がっていい話じゃないし、そのベースの奴はできる限りグロテスクに死んでほしいけど――正直、初めて聞いたとき、こいつ凄いなって思っちゃった」

 頷いた。私たちはふたりして階段を降りた。

 玄関ではジェフが寝転んで、靴脱ぎの真正面を占拠していた。頭部を逸らして私たちのほうを見やったが、動く気配はない。

「ジェフ、どいて。私たち出掛けるの」

 跨ぎ越すのもちょっとどうかな、と感じる堂々たる体躯である。普段は素直に言うことを聞いてくれるのにと思う。

「ほら、ジェフ」

 佳音の靴下の爪先が、彼の横腹のちょうど色の変わり目あたりをつつく。やはり動かない。彼女が首輪を掴んで引っ張っても、頑として同じ場所に留まっている。

「どいてって言ってるの、馬鹿」

 とうとう佳音が鋭く叱り付けた。「いつもはいい子なのに、どうしたんだろ」と私。

「私たち、これから人形展に行くの。後で遊んであげるから――」

 途端に、ジェフがびくりと軀を震わせ、跳ね起きた。機敏さに驚いた。

 ようやくどいてくれるのかと思ったらそうではなかった。ジェフは玄関を飛び下り、ドアの前に立ち塞がったのだ。ここは通さないぞ、という意思表示にしか見えなかった。

 佳音は大きく溜息をついた。靴脱ぎから自分のスニーカーと私のローファーを持ち上げ、踵を返す。「もう知らない。伊月ごめんね、あっちから出よう」

 ジェフは再び玄関を上がって、佳音に追いすがった。前に廻りこんで進路を塞ごうとするのを、彼女は巧みに脚で妨害し、

「どうしちゃったの? 私の言うことが聞けないの? おとなしく留守番してて」

 佳音の後姿が居間へと消え、すぐにからからと音がした。縁側へと続く硝子戸を開け放ったのだ。

「伊月、行こう」

 ジェフは居間のドアの前に佇み、それ以上は私たちの邪魔をしようとしなかった。

 前を行き過ぎるとき、私は思わず彼の顔を見降ろした。ジェフは一瞬だけ私と視線を合わせ、すぐに俯いた。

 悲しげな眼だった――今まで一度も見たことがないくらいに。

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