第2回
翌朝、いち早く目を覚ましたのは佳音だった。今日のうちに人形展に行こう、と寝ぼけ眼の私をせっつく。私が起き上がったときにはすでに、彼女の使った寝具はきちんと畳まれて、壁際に並べてあった。こういうところ、妙に律儀だ。
「行きますよ、行く行く」
「よろしい。私、一回帰って支度するから。あとジェフの散歩、暑くなる前に行かないと」
ジェフというのは佳音の愛犬だ。お母さんに無理を言って飼うのを許してもらった犬なので、彼女自身が責任を持って面倒を見つづけている。
「あ、ジェフ、私も久しぶりに会いたいな」
「じゃあ酔い覚ましに軽く散歩してから行くってことで。緋色、起きろ!」
返事はない。マットレスの上で小山のように盛り上がった毛布の内側から、なんだか呪詛めいた呻きが発されているばかりだ。どこでも熟睡できてお日様と同時に活動を開始する佳音とは対極的に、緋色は極端な夜型で朝に弱い。私はどちらかというと緋色寄りだが、朝起きられないというほどではない――頑張れば。
うっかり足を踏んだりしないようそっと歩み寄って屈み、少しだけ覗いている赤い頭部に耳を寄せた。緋色のメッセージ、というより怨念を受け取った私は顔を上げ、
「緋色が無理だって言ってるよ」
「聞えなかった。何時ならいいの」
「二日酔いしたんだって。今日は一日駄目っぽい」
「呑兵衛はアルコールに耐性があるんじゃないの? 水のシャワーでも浴びたら治るよ」
毛布がもぞもぞと蠢いたかと思うと、ゆっくりと緋色が這い出してきた。ちらりと顔色を窺っただけで、可哀相なくらい蒼白になっているのが判る。
「シャワー、貸して」
昨日の美声はどこへやら、という感じの声だ。緋色は軀を起こしたが、立っているのがやっとという有様で、足取りはふらふらと蜉蝣のように頼りない。タオルを受け取った彼女が暗黒舞踏のような怪しげな動作でバスルームに向かっていくのを、私たちは固唾をのんで見守った。
やがてシャワーの水音が聞えてきた。ひとまずは安心したが、それでもしばらくは、転んで頭を打ったりしないかと浴室のほうに耳をそばだてていた。
「ありゃ駄目だ」とぽつり、佳音がつぶやく。「だね」と私も応じる。
ありがたいことに私たちには症状が出ていなかったが、不安になってきたので冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを二本出す。一本を佳音に渡すと、ふたりですぐさま口を切ってラッパ飲みした。
「どうする? 明日にする?」
「明日は私が駄目なんだ。でもあれで引っ張ってくのは気の毒っていうか、人権侵害だよね。電車なんか乗せてみなよ、絶対げろ吐いて悲惨なことになるよ」
あれこれ話しているうちに緋色がお風呂から出てきた。バスタオルを一枚巻いただけの、しどけない格好だ。私の寝間着では、身長が違いすぎるのでかえって窮屈だろう。
さっきよりは幾分か足取りがまともな感じがする。とはいえ暗黒舞踏じみていることに変わりはなく、外を歩ける調子には程遠い。顔色もほんの少しだけよくなっているように見えたけれど、錯覚かもしれない。
「お風呂ありがと」
緋色はそれきり黙ったまま、また寝床に直行して潜り込んでしまった。
「せめてベッドで寝れば」と声をかけたが、こくりこくりと頭部が上下するだけで動こうとしない。「人形展は? 行かなくていい?」
「ごめん、ふたりで行ってきて」とようやく佳音にも聞えるであろう声量で答えが返ってきた。
佳音はあっさりと頷き、水の残りを勢いよく飲み干した。空になったボトルをごみ箱に放る。
「じゃ、支度しに帰るね。緋色、死ぬなよ」と言いながら、立ち上がってソファに置いてあった自分のバックパックを背負った。
玄関まで佳音を見送り終えると、私は再び、複雑な立体を成した毛布のそばに屈みこみ、
「じゃあ出掛けるよ。いい?」
こくり。
「水は冷蔵庫。あと冷凍ご飯と、昨日の残りもあるから、お腹がすいたら適当に食べてて。ひとりで大丈夫? 吐かない?」
「吐きはしないよ」と再び人語を発した。「ひとんちで下着まで脱ぎ散らかしたうえにゲロってたんじゃ、完全に人として駄目でしょ」
「別に駄目ってことは。その格好で風邪ひかない?」
「ひかないよ。寝るときは基本裸だし。昨日は久しぶりに服着たままで寝た」
嘘っぽい。ともかく軽口を叩けるくらいにはなったのだから、置いて行っても大丈夫ということだろう。私もシャワーを浴び、身支度を整えて、鍵をかけて部屋を出た。
――瀬那家の呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いて佳音が迎えてくれた。同時に、奥から黒と茶色と白が入り乱れた塊が飛び出してくる。
「ジェフ、伊月におはようは?」
ジェフはゆったりと尾を振りつつ、飼い主の足元をじゃれるように廻りはじめた。大人のバーニーズマウンテンドッグだから、私たちふたりぶん――は少し大袈裟にしても、並外れた巨体であるには違いない。会うたびに驚いて、ぼうっと見つめてしまう。
手慣れた動作であやしながら、佳音はジェフの首輪に手にしていたリードを繋ぐ。「行くよ」という佳音の号令に応じ、その斜め後ろにぴったりとつき従うようにして表に出てきた。
空は薄曇りだが、雲の隙間からときおり太陽が覗くたびに暑くなりそうな予感をひしひしと感じさせる。夏の散歩は必ず朝か夕方で、なるべく日陰の多いコースを選ぶのだそうだ。
住宅街を抜け、背の高い建物と街路樹に挟まれた道を辿って公園へと向かう。歩道から車止めをすり抜ける。大きな木陰に入った途端に風が私たちの前髪を揺らした。夏の匂いがした。
「ジェフ、これで運動になってるのかな」
女二人が無駄話をしながらだから、必然的に歩むペースは遅い。ジェフは完璧に私たちと歩調を合わせてくれているので、彼の周りだけ物凄くゆっくり時間が流れているように見える。
「多少はなってるんじゃない? はしゃぐのはお客が来たときだけで、普段は一日中寝てばっかりいるんだよ。でぶになっちゃう」
太ったかどうかは判らないが、私の見る限り、拾ったときのおそらく二十倍くらいには成長していると思う。下校途中に、子犬だったジェフを段ボール箱から救出したのは、当時小学生だった私たちふたりだ。
白、黒、茶の三色で塗り分けられたような特徴的な毛色から、すぐさまバーニーズマウンテンドッグかその血筋だと私には見当がついた。かなりの大型犬だと告げると、日頃から「でっかい犬を飼いたい」と言いつづけていた佳音は途端に眼を輝かせた。服に泥がつくのも気に留めずに、抱き上げた子犬をぎゅっと胸元に引き寄せた。手放す気配が完全に消え失せてしまったのが判った。こうなるともう譲らない。
「伊月んちは無理なんでしょ。うちで飼うしかないじゃん。お母さん説得するから、ちょっと手伝って」
そして私は瀬那一家の家族会議に同席し、佳音に指示された通り、チワワとトイプードルとミニュチュアダックスフントの特徴をいいとこ取りしたような、「理想の小型愛玩犬」の説明をしたのだった。これが効いたらしく、子犬はめでたく瀬那家に引き取られる運びとなった。ぐんぐん育って最初の数か月で佳音の体重をも追い越してしまったので、完全に嘘だったとばれたはずだが、「動物博士の伊月にも間違うことがある」ということになっている――らしい。佳音のお母さん、ごめんなさい。
ちなみにジェフと命名したのも私だ。ちょうどそのころアルバムを買って聴いた、ジェフ・バックリィの歌声が印象深かったので。
――名前の由来を改めて聞いた佳音は、
「バックリィか。緋色に違うこと教えちゃった。ジェフなんとかってミュージシャンから採ったらしいよって言ったら、ジェフ・ベック? そうそう、たぶんそれって」
「まあ、ぱっと思いつくのはベックのほうかも。有名だから」
「どっちも知らない。ほかにジェフなにがいるの」
私は指を折りながら、思いついた順に、
「リン、ポカーロ、ダウンズ、ハンネマン、テイト、ルーミス、スコット・ソート、パーカー……」
「判んない。で、ジェフさ、緋色のこと気に入ってるみたいなんだよね。こないだうちに来たとき、すごい勢いで突進してって、こう鼻先でぐいぐいって」佳音がジェフの仕種を真似て、顔を上下させる。犬は飼い主に似るというけれど、確かにそんな気がする。
「そしたら緋色、きゃあ、とか言って逃げちゃって。きゃあ、だって。そういう声出すんだと思って笑っちゃった。緋色ってさ、意外とビビりだと思わない?」
「そうかなあ。天下無敵みたいな顔してるけど」
きゃあ、などと悲鳴を上げているところが想像できない。教室でごきぶりが出て大騒ぎになったときにも、眉ひとつ動かさずに退治していたし。
「単に犬が苦手っていうんじゃなくて、怖がり。私が誘ったサイコキラー展にも、ゾンビ名作映画上映会にも来なかったし。物理的に殴る蹴るで撃退できるもの以外には弱いんじゃないかと思うんだよね」
「それはバンド練があるからって言ってなかった? たまたまだよ」
「いや、私は口実と見た。ほかにどんな集まりやったっけ私たち。超くだらないことでも緋色って来てると思うよ」
そうだったろうか。私は少しだけ考え、
「直近だと、夏休みの宿題の分担とか」
「それは来るでしょ。欠席して余りものを押し付けられたらたまったもんじゃない」
佳音が冗談めかして言う。
「あとはモンティ・パイソンのベストセレクション、ラピュタ上映会、バケツプリンを作ろうの会、ワイン飲み比べ、文系に化学の試験を課すなの会とか」
「全部いたでしょ? でも『ハンニバル』一挙放送とか、『毒蜘蛛人間の怪』のときはいなかった。ほれ見ろ、信憑性が増してきた」
最後のは私も観た覚えがないのだが、黙っていた。
公園をぐるりと半周ほどしたところに、木製のベンチがあった。
「坐らない?」と私が問うと、佳音は「ん」と頷きかけたが、
「その前にちょっと、お手洗い。ジェフと待ってて」
私は佳音からリードを受け取り、端の輪を左の手首までくぐらせて握る。
「あとこれ、水かけてやると喜ぶから」と佳音はバックパックから水鉄砲を取り出した。近くにちょうど水道がある。
私は言われた通り水を入れた。蛇口をひねった直後の温い水が冷えるのを待ってから、半透明のタンクをいっぱいにする。不意打ちするのもどうかと思い、寝そべったジェフの眼前でちらつかせながら、
「いい? 撃つよ? 撃つからね」
ジェフは動じた様子もなく、ごろんと転がって大きなお腹を見せている。遠慮がちに、足の先のほうから水をかけていった。どうやら気持ちがいいらしく、手を止めると催促するように私を見上げる。左半身が終わると、こんどはこっち、と言うように軀を裏返した。
水を追加しに行こうとしたとき、少し離れたところから背の高い白人女性がじっとこちらを見つめているのに気づいた。帽子をかぶって眼鏡をかけているから細かな表情は読み取れないが、若い女性だ。足元に小柄なブルテリアを連れている。バーニーズマウンテンドッグが物珍しいのだろうと思っていたら、
「ジェフ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます