第1回
「これがそうなの?」と私の肩越しにノートパソコンを覗き込みながら、瀬那佳音が問う。深夜零時の昂揚と、好奇心と、グラス一杯のカクテルが入り混じった熱っぽい吐息が、私の右耳をなぶる。
私はパソコンのほうを向いたまま、
「判んないよ、今でも夢だったんじゃないかって思うもん。ていうか佳音、さっきの話、百パーセント信じてるの?」
「信じてる信じてる。長壁伊月は絶対に嘘吐かないって、私の中では評判」
画面には、複数の角度から撮られた人形の写真がいくつか並んでいる。痩せて肋骨の浮いた軀が乱雑に投げ出されたようなもの。頭部と胴体だけのもの。背中を壁に齎せかけて座っているもの。いずれも衣装の類はいっさい着けておらず、蒼白い膚を表に晒している。そして全部が目を閉じ、夢見るような静けさを湛えている――。
トップページに戻ると、人形の一体を背景にして、素気ない白文字で展示会の予定が書かれていた。宵宮市美術館、七月三十一日まで。
「もうすぐ終わりだ」
やはり私の肩越しに、机の片隅にあるビートルズの卓上カレンダーへと視線をやりながら佳音が言った。今日は七月二十九日――時刻でいえばもう三十日だ。七月のカレンダーは『リボルバー』のジャケットがあしらわれている。
「で、伊月、これなの?」とますます身を乗り出して、佳音は繰り返した。私はかぶりを振り、
「作風もコンセプトも似てる気がするけど――絶対これだったって断言はできないかなあ」
「いやこれでしょ。これだって。これだと言え」
「行ってみればいいじゃん。伊月も現物見たら思い出すかも」
テレビの前に座り込んでいた杯緋色が、首だけこちらを向けて言う。BGM代わりに流していた、フレディ・マーキュリー追悼コンサートのヴィデオに見入っていたようでいて、いちおう私たちの話は聞いていたらしい。
テーブルには彼女の持ち込んできた色とりどりの瓶や缶が並び、この部屋に馥郁とした香りを立ち上らせている。中身は当然のようにアルコール飲料だが、私は家庭の事情で独り暮らしなので、大人にどやされる心配はない。
「もちろん行くよ。行くけど――なんか気になるっていうかさ、こういう話って超面白くない?」
佳音は昔から、この手のゴシックロマンめいたものが大好きで、奇怪な写真集を買ってきて見せびらかしてみたり、おどろおどろしげな催しに私たちを引っ張って行ったりしたがる。市役所の出張所にあったというパンフレットスタンドから、この人形展のチラシを発掘してきたのも彼女だ。市の美術館でやっている展示なのだから、役所に案内が置いてあったところで不思議ではないのだが、チラシからはどうにも浮き世離れした雰囲気が漂っていて、私は首を傾げたものだった。ネットで検索してみると、確かに人形展の予定はあった。パソコンとチラシを交互に眺めているうちに幼少期の記憶がぼんやりと甦り、それらしく語ってやると佳音は有頂天になった――。
「超面白いね」といい加減に応じて、緋色はまたヴィデオに視線を戻した。彼女はもう少し現実的なのか、もしかするとあまり興味がないのかもしれない。歓声に続いて、「アンダー・プレッシャー」のイントロが聞えてくる。ヴォーカルはフレディ・マーキュリーとオリジナルを歌った、そして最近星に帰ってしまったデヴィッド・ボウイと、アニー・レノックス。
「はあ、ボウイ」と緋色はつぶやき、自分のグラスを持ち上げかけて、すぐに下ろす。空だったことに気づいたらしく、今度は酒瓶の列に手を伸ばした。
「ふたりは何かいる?」
「セックス・オン・ザ・ビーチ!」と佳音。返事が妙に元気だ。
「お酒はいいや、カルピスとかで」と私。
「ブラッディ・メアリーだって。よろしく、バーテン」
「了解」と緋色が右手に握った瓶を持ち上げて応じる。
「せめてアルコール度数控えめで」と言ってみたが、たぶん聞いていない。
緋色というのは本名だ。歳の離れたお兄さんの影響で、ロックと格闘技とアルコールにどっぷり浸かって育ったという。長身と身体能力の高さを買われて、運動部からの勧誘が引ききりないと聞くが、どこにも興味を示さない。その代わり、学校外の人たちと組んだロックバンドのギターヴォーカルとして、音楽活動に明け暮れている。
また彼女は「ステージ映えするから」というだけの理由で、夏休みに突入した途端に自慢の長髪を真っ赤に染めてしまうような豪胆さの持ち主でもある。休み明けにちゃんと戻すのだろうか――たぶん戻さないだろう、と私と佳音は密かに思っている。
今夜ここにいる瀬那佳音、杯緋色、そして私こと長壁伊月の三人は、宵宮高等学校二年二組のクラスメイトであり、つまりは女子高生だ。とっくに日付は変わったが、佳音も緋色も帰宅する気配はまるでない。夏休みとはいえ、女子高生がこんな時間まで集まって、しかも飲酒をしているというのは、まあ確かによくない。よくはないが、絶対にやってはいけないほど悪いことでもない、というのが三人の共通見解だった。
よろしくない遊びの本拠地と化しているのは、私のアパートだ。高校生の身分で独り暮らしなのは、離婚調停中の両親に意見を求められた私が「どちらの側にも付かない」と宣言したことによる。一人娘の私を絶対に相手のところにはやりたくないと主張しあっていたふたりが、あいだを取った結果ということらしい。
淋しいと感じたことはない。感じる間もなく溜まり場になってしまった、というのがたぶん正しい。
佳音が立ち上がり、テーブルから緋色の作ったカクテルを運んできた。どちらも緋色の頭髪を思わせる、強い赤色をしている。私は差し出されたブラッディ・メアリーを受け取り、香りを確かめた。グラスは程よく冷えていて、机に置くと氷が軽やかな音を立てた。
「ありがと。緋色、いつもうちにお酒持ってきちゃうけど、お兄さん怒らないの?」
「気づいてないんじゃない? 冗談じゃなくうちに百リットルあるよ。気に入ったやつは手を付けられないうちにここに避難させとくんだ」
私のグラスの隣に佳音のカクテルが並ぶ。彼女は背凭れのない回転椅子を引き寄せて、私のそばに坐った。この部屋にパソコンデスク用の椅子がひとつしかないのを不便がって、勝手に粗大ごみ置き場で拾ってきたものである。
「さっきの話だけどさ、四歳じゃあ、幼稚園にも入ってないよね。虚ろな人形が孕んだ夢だっけ? そんなんよく覚えてたね」
喋りながら、レバーを操作してしきりに椅子を上げ下げしている。ぷすん、ぷすんというガスが抜けるような音。元が廃品なので、そろそろ壊れるのではないかという気がする。
「フレーズはそれで間違いなかったと思うんだけど、本当にその場で聞いたものだったかが微妙。後で本とかで読んで、記憶とごちゃ混ぜになっちゃうことってあるじゃん」
「あるかもだけど――」
佳音が何か言いかけたところに、あのさ、と緋色の声が割り入る。
「子供だからこそ逆に完璧に覚えてるってことない? 私はあるよ、似たような経験」
「三つ子の魂なんとか。で、アル中かつ喧嘩名人かつパンクになってしまったわけだ」佳音が茶化したが、緋色は真顔のまま、
「否定しない。私の場合はね、音だったんだよ。音楽。よちよち歩きの赤ん坊のころにさ、親に連れられて行った店で流れてた曲にびびっときて、その場で覚えたの。頭から終わりまで全部。でも曲名も歌手もなーんにも判んないから、調べる方法もなくて。それでもずっと忘れずにいて、小学一年のときに婆ちゃんに小遣い貰って、レコ屋で店員に今から歌う曲が入ってるCDくださいって頼んだ」
続けてやおら歌いはじめたのは、マイケル・ジャクソンの「ロック・ウィズ・ユー」だった。ステージで披露するパンクロックの切れ味鋭いヴォーカルとは、まるで印象が違った。存外に器用らしく、少し鼻にかかったような、ソウルフルで甘い歌声だ。発音の見事さもあってさすがに上手い。
私たち観客二名は思わず拍手した。緋色は照れたような笑みを泛べる。
「この通りに歌ったんだよ。歌、当時からあんまり成長してないし。下手糞で通じないんじゃないかって心配したけど、ちゃんと『オフ・ザ・ウォール』が出てきた。買って帰って兄貴に見せたら、なんだそれ、俺が持ってるぞって。早く言えっての。そんでギター出してきて、歌ってみろ、店でやったみたいに、って伴奏しはじめた。それからかな、音楽やるようになったの」
「どういう小学生だ」と佳音。私はいい話だと思ったけれど。
「だから、伊月に子供のころの記憶があっても不思議じゃないでしょって話。四歳でしょ? 普通に自我は芽生えてるって」
「芽生えてた――んだとは、たぶん。自信ない」
「ま、非現実的な話ではあるしね。同じ立場だったらやっぱり、自分の記憶を疑っても仕方ないと思う」
佳音の手が伸びて私の肩を掴み、ぽんと押す。軽く勢いのついた椅子が回転し、彼女は緋色のほうに向きなおった。
「緋色は信じてるのか、信じてないのかどっちなの」
「信じてるといえば信じてるよ」
「素直に信じてるでいいじゃん。ねえ、作り話ではないんでしょ」
首だけ捻ってこちらを見返した佳音の、きろりとした猫のような瞳。
「自分の中では嘘じゃないけど、さっき言ったみたいに、夢とか小説とか映画の話が現実と区別できなくなっちゃった可能性もあるし。正直言うと佳音が面白がるから――」
「盛った?」
「それっぽく演出はした」
「だったら本当。ぜんぶ本当」
また佳音が椅子の上で廻る。今度は机の角に手をついて止まった。マウスに触れたか振動が伝わったかしたらしく、パソコンがスリープ状態から回復して、また人形たちの画像が現れた。佳音はカクテルを口元に運びながら、
「伊月のお祖父ちゃんって何者だったの? 魔法使い?」
「そんなわけないと思うけど――その一回しか会った記憶がないんだよね。すぐ死んじゃったから」
「例の謎の影と戦って?」
「まさか。病気でだよ」
「人形の夢を見たことは」
「私? ないよ、ぜんぜん」
「まだ魔法が効いてるのかも」
その後も佳音は私に話をせがみ続け、緋色は静かになってヴィデオの鑑賞を続けた。最後の曲が終わると、緋色は「スタジオが近いから」という、やはりそれだけの理由でこの部屋に置きっぱなしにしている練習用のSG(色はもちろん赤だ)を持ち出し、アンプには繋がずに小さく奏ではじめた。私の話の種が尽きるのとほぼ同時に佳音の興味はそちらに移り、「あれ歌ってみて」「これ弾いてみて」といった調子で面白がっていたが、そのうち全員揃って瞼が重くなってきた。
気がつけば佳音はソファで、緋色に至っては楽器を抱えて床に坐り込んだまま、すやすやと寝息を立てていた。今から起こして帰らせるのも酷に感じ、いつものことながら泊めることにする。
私は別に構わないのだが、このふたり、こんなに頻繁に外泊して大丈夫なのだろうかと思う。自宅にいる時間よりも、たぶんここにいる時間のほうが長い。家がかなりの放任主義だと、当人たちが口を揃えるのを聞いたことはあるにしろ。
ともかく私は来客用、といっても佳音と緋色しか使ったことのないマットレスとクッション、毛布を出して即席の寝床を拵え、ふたりを並べて寝かせた。そのあとで自分はベッドに潜り込んで眠った。夢は見なかった――その夜はなにも。
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