デイジー・チェインソーの人形たち
下村アンダーソン
プロローグ
薄く蒼白い胸の中央に、まっすぐ縦に走った傷口を、骨ばった硬い指先がなぞっている――四歳だった私が祖父と共に見たのは、そういう人形だった。
自らの両手で孔を押し拡げようとしているようにも、あるいは祈りを捧げるべく組み合わせようとしているようにも、存在しない笛を吹いているようにさえ見えたのは、肩から手首にかけてが、ほとんど裸の胴体と一体化して、一見腕が無いような形に造られているからだろうか。鑑賞者の眼にはかえって多彩な表情の手が泛んでは消える、ギリシア彫刻のトルソ像のような効果があったのかもしれない。
よく見てごらん、と祖父が言ったので、私はぎゅっと握っていた彼の上着の裾を離して、よちよちと歩み寄った。部屋には蝋燭の炎のような淡い光が燈されていて、私たちをぼんやりと照らし出していた。斜めに伸びた私の影が、人形の膚を撫でた。
人形の少女――おそらく少女だ――は少しだけ首を傾げていて、長い髪が緩やかに流れ落ちながら、その輪郭を縁どっていた。余分な肉付きがなくほっそりとした頬。腰が急激に締まった華奢な胴体に乗っている頭は大きく、子供を模していることが判る。
眼を閉じ、微かに唇を開いた人形の貌から、感情と呼べるものを見出すのは難しかった。おそらくそのせいもあったろう、幼い私に様々な空想を許したのは。
腰から下は溶けたように消失していた。どうしてだろう、斬り落とされたでも、毀されたでもなく、溶けた、という認識があった。木製の椅子の上に、少女の上半身だけが乗せられている格好だ。顔の高さはほとんど同じくらいだったように記憶している。
人形の瞼を見つめながら、眼をつぶっているから眠っている、眠っているから夢を見ている、といういかにも安直な連想を、幼い私はした。人形の傷は、流血とも、痛みとも、死とも結びつかなかった――不思議なことに。
私はぽっかりと洞のように開いた胸部の孔を、黒々とした闇をじっと覗きこんで、
「空っぽ」
からっぽ、という響きが頭蓋の内側に反射し、増幅するようで、なんだか眩暈めいた感覚におそわれたのを覚えている。人形の膚のように思えたのは殻であり、これは内側に封じ込めた虚無を、胸の傷口から鑑賞させるために作られた器なのではないかという考えが、前触れもなく訪れ、すぐさま消えた。そう説明する言葉を、当時は持たなかったけれど。
「何も見えないのだね」
と祖父が問う。私は振り返って頷く。
そのとき暗がりから別の誰かの気配を感じ、私は愕いて飛び退った。慌てて駆け戻り、祖父の背中に隠れる。
影は人形の隣に立ち、椅子の背凭れに掌をあてがった。祖父が一歩ぶん横にずれ、私と影の間を遮った。なにも見えなくなった。
「まだ、ね。でもそのうち見えるようになる。逃げてもしょせん籠の鳥――虚ろな人形の孕んだ夢の住人なのだから」
女の声だというのは判ったが、それだけだった。どこまでも平淡な、定められた文章を読み上げているような声音だ。
だれ、と私は訊いた。相手も祖父も答えなかった。私は息を詰めた。
「魔法はじきに解けるよ、いかに強い護りであってもね。われらは待つことを知っている」
声の主を盗み見ようと、怖々と頭を突き出しかけたが、祖父の大きな手に阻まれた。私は黙って引っ込み、彼の背広に顔を埋めた。
「そう易々と、この子をくれてはやらんさ。いくらおまえが欲しがっても、私の孫は人形の群れにふさわしくない」
ふふ、と嘲るような調子の声がした。
「欲しがるのは私ではなく夢だ。空っぽな器の中身を満たさずにはいられなくなる。やがて人形の夢が、その子に成り代わる」
祖父が吐き捨てるように、
「今ここでおまえを始末してやろうか、出来損ない」
怖い怖い――と女の声。口ではそう言いながら、相手にはまるきり動じた様子がない。私はいっそう強く祖父に縋り付いた。あれは誰なの、なぜここに来たの、私たちはどうなるの、と様々な疑問が渦巻いたが、やはり言葉にはならない。
「おまえごときに魅入られるほど、この子は弱くない」
あはははははは、と笑い声が響いた。
「どうかな。ではもう少し猶予をあげよう。せいぜい楽しむといい――われらと同じ夢に囚われるまで。恐怖に満ち満ちた夢を育んで、私を喜ばせてくれるまで」
途端に、掴んでいたはずの上着の感触も、額を押し付けていたはずの背中の感触も消え、ゆっくりと眼を開くとただ、色を濃くした闇だけがあった。次いで足元の、床の硬さも消えた。ふわりとお腹の底を突き上げる落下感。
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