「貴様ら、ここをどこだと思っている? 神聖な道場だ。痴話喧嘩がやりたいのであれば、とっとと出ていけ!」


 地の底から響いてくるような羽衣翔の怒声と、般若のような怒りの表情。それを直接向けられた二人はおろか、周囲の人間までもが恐怖に慄く。


「う、羽衣翔さん……。あの、すいません! でも、俺はこいつの……」

「黙れと言っている!」


 反論しようとした赤髪、改め大垣内武美に対し、頭から叩きつけるような大声を発する羽衣翔。武美はビクンと全身を跳ねさせると、金縛りにあったかのように固まり、顔面蒼白のまま口をパクパクとさせている。


「(怖ぇ~! 何だこのオバサン? 滅茶苦茶怖い! 体育の江川より怖ぇよ)」


 その隣で佳乃も、羽衣翔の怒りを目の当たりにして背筋が凍り付いた。佳乃の中でこれまで『怖い人第一位』だった高校の体育教師から、あっさりとその座を奪い取る程だ。


「おい、そこのお前」

「ひぇ? ア、アタシ?」


 そんなことを考えていると、突然怒りの矛先が自分に向き驚く佳乃。


「そいつの言葉を肯定する訳ではないが、ここは我々が命がけで戦っている神聖な場だ。遊び半分で来ているのならとっと帰れ」


 冷たく言い放たれた言葉に、隣の武美は「ほら、見たことか」と言わんばかりの挑発的な表情を佳乃に向ける。


「なん……だよ……」


 佳乃は微かに呟きを漏らすと周りを見渡す。

 その場にいるスタッフ、レスラーたち、一緒にテストを受けた受験者たち。その全てが佳乃に対し冷たく、蔑むような視線を送っている。明らかに異物を見るような、ここはお前のいる場所ではないと告げるように。

 

 どうしてこんな目に遭わなければならない。確かにこの場に間違えて来てしまったのは自分の責任だ。自分がこの場にいるべき人間ではないこともわかっている。それでも……。


「アタシだって……」


 佳乃がボソリと呟いた声に、羽衣翔はピクリと片方の眉を吊り上げる。そして佳乃は、溜め込んできた感情を爆発させた。


「アタシだって、こんなところ来たくなかった! プロレスなんてやりたくない! アタシはアイドルになりたくて……。でも、全然上手くいかなくて……。『今は清純派の方がウケる』とか、『もう少し若い時に応募してくれれば』とか、知らねぇよ、クソ!」

「いや……お前、何言って……」


 当然叫び出し、訳のわからないことを言い始める佳乃に、武美は困惑するが、


「それでも、アタシはアタシなんだよ! だから、絶対諦めない! 誰になんて言われても、誰に笑われても!」

「お前……何が言いたいわけ?」

「そんなん、アタシにもわかんないよ!」

「えぇ……」


 最早言い争う気も削がれた武美には目もくれず、佳乃は続ける。


「だから! アンタたちは勝手にプロレスやってればいいでしょ? アタシはプロレスなんか知らないし興味もない! アンタたちプロレスラーのことも、別に凄いなんて思わない。帰れって言われなくても帰るわよ、こんなところ!」

 

 思いの丈を吐き捨てた佳乃はくるりと踵を返し出口に向かおうとするが、先ほどと同じように強引に肩を掴まれる。


「ちょっと、アンタ。いい加減に……」


 振り返った佳乃は言葉を失う。さっきのように肩を掴んだのは武美だと思っていた。しかし今、佳乃の肩を掴んでいるのは自分より一回り以上も大きなプロレスラー、羽衣翔未雷。


「神崎……佳乃と言ったか? お前の言いたいことは……まぁわからんが、帰るというなら止めはしない」

「いや……止めてるし……」

「だが、今言った言葉を聞き過ごせる程、我々も優しくはない」


 佳乃は羽衣翔の手を払おうとするが、ビクともしないどころか、逆に力を込められる。


「い、痛い! ちょっと、離して……」

「お前は今、『プロレスなんか』と言った。そして『プロレスラーを凄いと思わない』と。だったら、その言葉の責任を取って貰おうか?」

「は?」


 肩に置かれたその手は、言外に「絶対に逃がさない」という強烈なメッセージを放つ。


「お前たち、全員リングに上がれ!」


 羽衣翔の声に、リングサイドにいた五人の若い女性たちが慌ててリングに上がる。


「神崎佳乃。お前にはこれからあの五人とプロレスで戦って貰う」

「え? いや、何言ってんの?」


 困惑する佳乃にまるで取り合わずに羽衣翔は


「安心しろ。五人同時ではなく一人づつだ」

「いや、そういうことを言ってるんじゃなくて……」

「五人のうち、一人でも倒すことができればお前の勝ちだ。その場合は、お前に対する非礼を全て詫びよう」

「ねぇ、話聞いて? お願い。ねぇってば!」


 ワザとなのか、本当に聞こえていなのか。羽衣翔の言葉は一向に止まらない。


「ただし、お前が五連敗した場合は、我々とプロレスに対する暴言に対し謝罪をして貰う。いいな?」

「よくない、全然よくない。ちょっと、何勝手に決めてんの!?」

「レフェリーは私がやる。準備しろ」

「……お~い」


 問答無用とはこのことか、という程の見事な無視っぷり。

 見ればスタッフたちはバタバタと慌てており、レスラーたちがテキパキと準備を進めて行く。帰ろうとしていた受験者たちも、何やら面白いものが始まるのかとその場に残り、一か所に集まり観戦を決め込むつもりだ。

 隣を見れば、武美が「ざまぁみろ」と言わんばかりの表情で、挑発的な視線を佳乃に投げている。


「ちょっと待って下さい!」

 

 声を上げたのは進行役をやっていた女性だった。小柄でスーツ姿に銀縁眼鏡。長い黒髪を後ろで一つに纏め、鋭く細い瞳を吊り上げている。マンガなどでよく見る『敏腕秘書』を思わせる姿。恐らくレスラーではなく裏方の人間なのだろう。


「入門テストを受けに来たとは言え、相手は素人の方です。そんな人を相手にプロレスラーが寄ってたかって。もし怪我でもさせたらどうするつもりですか!?」

「(まともな人いたぁ!! そうだ、もっと言え!)」

 

 思わぬ助け船に喜ぶ佳乃だったが、


「いいじゃないか。私も是非見てみたいよ」


 その船を沈めてきたのはこの団体の最高経営責任者、社長である二反田だった。


「え? オジサン……何言って……?」

 唖然とする佳乃に構わず二反田は

「彼女たちも新人とはいえプロのレスラーだ。そこまで無茶はしないだろう。それに、羽衣翔さんも、ちゃんとその辺は考えがあってのことだろう?」


 何か含んだような笑みを向ける二反田に、羽衣翔は不機嫌そうに視線を逸らす。


「それに、神崎君の言葉は我々プロレスリング・クレスタ全体に対する挑戦状だ。これを受けない手はないだろう?」

「いやいやいや。アタシ、挑戦状なんて出してないし!」


 必死で止めようとする佳乃の前に羽衣翔が立ち塞がり、佳乃は息を吞む。


「どうした? 逃げるのか? お前が『凄いと思わない』と言った相手から。そんな大したことのない相手から逃げるお前は、一体何者なんだ?」


 あからさまに挑発してくる羽衣翔に、佳乃の身体がカッと熱くなる。

『こんな危険なことをする必要はない。恥をかいても逃げろ』と理性が呼びかけてくる。それでも佳乃は、もう一方から聞こえてきた本能の声に従った。


「わかったよ……やってやるよ! ここで逃げ出す程、アタシは落ちぶれちゃいないんだ!」


 その啖呵に羽衣翔は口の端を吊り上げるとリングへ向かう。


「あの……! それで……」

 背中にかかる声に羽衣翔が振り返ると、佳乃は急にモジモジと身を捩らせる。

「どうした? やっぱり怖気づいて……」



「ねぇ。プロレスってどうすればいいの? ルールわかんないんだけど」



「…………」


 その場にいた全員が凍り付く中、二反田が盛大に噴き出す音だけが響いた。

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