エピローグ
エピローグ
ここまで聞いてくれてありがとう。ぼくと先生の話はここでひとまず終わりだ。あれからもう何年たつのかな。ぼくはいちおう大人と呼ばれる
“緑の獅子”亭にたどり着いた先生は、不吉な予言のとおりヘレンさんにこてんぱんにやっつけられ――どうせまたろくでもないことにルカを巻き込んだんだろう!――王都から迎えに来てくれたダリルさんに徹底的に締め上げられた。
二人の総攻撃を受ける先生をさすがに見かねて、ぼくは及ばずながら先生の援護にまわったのだが、結果は見事なまでの惨敗。いつ果てるとも知れないダリルさんのお説教を拝聴しながら、負け戦には加わるものじゃないなあと思ったことは、先生には内緒だ。
先生がちょっとの間この世界から消えていた事実については、これまた煙のように皆の記憶から消え失せてしまったらしく、ぼくと先生のグラウベンでの暮らしは驚くほどすんなりと再開した。
ただ、元どおりになった生活にも、いくつかの変化はあった。もっとも大きな変化は、先生が舞台に立たなくなったことだろう。
「ペテンが効かなくなったか」
とは、悪ぶったダリルさんの言だが、“鍵”を返した先生が、あの見事な幻術を披露できなくなったのは当然の結果だろう。だけど、あの先生がそこですごすご引き下がるはずもない。なんと先生はとある幻術師に弟子入りし、一から奇術を学び始めたのだ。
「人間いくつになっても新しい学びはあるものだ」
などとご年配の方のような感想を口にしながら、先生は目を見張るような速さで腕をあげ、それからいくらもしないうちに再び王都の劇場を湧かせることになった。あいつは昔から無駄に器用で、とは、先生の再出発の舞台に豪華な花を贈ったダリルさんの賛辞はたまた負け惜しみだ。
大きな変化の二つ目は、ぼくがグラウベンの家を出て王立美術学院に入学したことだろう。いつか先生が申し出てくれた援助を、ぼくは悩んだ末にありがたく受けることにしたのだ。
王都でのあの年の冬と、それにつづく春を、先生は幻術の稽古に、ぼくは試験勉強に費やし、先生は悠々と、ぼくはぎりぎりどうにかこうにか、それぞれの目的を達成することができた。骨休めと銘打ったその年のグレンシャム訪問にはダリルさんやキャリガン夫妻も一緒に来てくれて、おかげで素晴らしく愉快な夏を過ごすことができた。ダリルさんの六度目だか七度目だかの挑戦の結末は……うん、また次の機会に。
王立美術学院での厳しくも楽しい数年間、その後のさらに厳しい下積み時代を経て、ぼくの絵に最初の買い手がついたとき、ぼくが誰よりも先に
ぼくが
ときおり先生の家に泊めてもらい、夜中にふと目が覚めて居間をのぞくと、先生が長椅子に身を沈めていることがある。じっと痛みに耐えているように。いなくなった誰かを想うように。そんなとき、ぼくはあえて声はかけない。翌朝に卵の両面を念入りに焼き、普段より丁寧にお茶を淹れるだけだ。先生も、特に何も語らない。ぼくの先生はそういう人だ。
さて、ここまで話したからには、もう充分すぎるほどわかってくれただろうね。風景画専門と見なされていたぼくが、なぜ人物画に手を出し始めたのかってことは。ずっと温めていた夢を、ついに実現させる時がきたというわけだ。
折しも今宵は、かの高名な幻術師アーサー・シグマルディが、半年に及ぶ全国興行を終えて帰還する夜だ。凱旋公演が行われるパルモント劇場では、ひと月も前にチケットが完売したらしい。これはあくまで噂だけど、劇場の貴賓席を真っ先に押さえたのは、社交界の大御所チェンバース卿だそうな。ぼくの席? もちろん、ぼくの席はとっくに予約済みさ。天井裏の、とびきりの特等席をね。
そういうわけだから、ぼくもそろそろ出かけないといけないんだ。絵の具が乾いたばかりの、この絵を持ってね。
じつのところ、ぼくは今ちょっとどころじゃなく緊張している。ぼくが何度も挑戦して失敗して、ようやく納得のいく出来栄えとなったこの絵を、先生は気に入ってくれるだろうか。もちろん喜んでくれるとは思うのだけど、先生のお眼鏡にかなうかどうかはまた別の問題なんだ。当たりがいいわりに、批評家としては容赦のない人だから。
いい絵だって? どうもありがとう。挫けかけた自信が少し回復したよ。
そう、ぼくはこれが描きたかった。ずっとこれが描きたかった。きっとこの先何度も、何枚も、ぼくはこの絵を、この色を描くだろう。黄昏の金を。当代一の幻術師の横顔を。
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