第105話 いちばん好きな色
――ボーン!
鐘が鳴った。
間近で響いたその音に、ぼくは心臓を蹴飛ばされて目を開けた。暗い視界に大きな振り子時計が映る。くすんだ金の文字盤。行儀よくてっぺんを指す二つの針。
それは何の変哲もない古びた時計だった。かつてあんなにもぼくを怯えさせた奇妙な気配はすっかり鳴りを潜め、暗がりの中で静かにその時を止めていた。
先生は、と振り向いたぼくは、すぐに目当ての姿を見つけてほっとした。ぼくのすぐ後ろ、居間の床で白髪の紳士が膝をかかえて座り込んでいた。
「先生」
声をかけると、先生はゆっくりと顔をあげた。長い夢から覚めたように瞬きを繰り返していた瞳が、やがてぼくに焦点を定める。
「やあ……」
何かを言いかけたところで、先生は小さなくしゃみをした。つられてぼくもくしゅんと鼻を鳴らし、二人そろって「お大事に」と声をかけ合い――それから、同時に噴き出した。
「ばかに寒いじゃないか、ここは」
ぼくが差し出した手につかまって立ち上がった先生は、服を払って室内を見わたした。
闇の濃さから察するに、おそらく時刻は夜明け間近。白い布をかぶった家具に囲まれた居間はしんと静まり返っていて、そして怖ろしく寒かった。
「とにかく外に出よう。こんなところにいたら風邪をひく」
腕をさする先生は、舞台に立っていた時のままの燕尾服姿だった。見慣れたその黒い服を前にして、ぼくはこみ上げてくる衝動を懸命に抑えていた。くすぐったいような、恥ずかしいような、ともすれば踊りだしてしまいそうな、そんな温かい泉みたいな衝動を。
「きみも、そんな薄着じゃ……」
とがめるように言いかけて、先生は口をつぐんだ。グラウベンの家を出るとき身にまとっていた黒い外套は、父のもとへ置いてきた。父の宝物であろう手帳とともに。いつか先生がぼくの肩にかけてくれた大きな外套は、今頃ぼくたちの大事な人を温めてくれているだろう。
黙ってぼくの顔を見下ろす先生を、ぼくも見つめ返した。ぼくの目に、もうあの光は映らなかったが、そんなことはちっとも気にならなかった。ぼくの側に先生がいる。背の高い白髪の幻術師が。それこそが、ぼくにとって何より大事なことだった。
「先生」
言葉をさがすように沈黙していた先生に、ぼくは先に声をかけた。話したいことは山のようにあったが、最初に言いたいことは決まっていた。
「おかえりなさい」
うまく言えた自信はまるでない。なにしろその時のぼくは、泣きたいのか笑いたいのか、自分でもよくわからない感情の手綱をとるのに必死だったから。ひどくおかしな顔をしていたであろうぼくを、先生はじっと見つめ、それから「ただいま」と返してくれた。
「ただいま、ルカ君」
そう言って、先生はぼくの肩に手をおいた。いつかの夕暮れの停車場で、ぼくを助けてくれた時のように。
「――幽霊が出たと騒ぎになるんじゃないかな」
胸の前で白い布をかき合わせ、先生がぼやいた。
「こんなところを誰かに見られたら」
「見られないように急ぎましょうよ」
同じく白い布にくるまったぼくは、早足のまま言葉を返した。
「ぼくもうお腹もぺこぺこで」
「子どもは元気だ」
感心したように、あるいは寒さに閉口したように、先生は首をすくめた。
氷室のような部屋から脱出したぼくと先生は、グレンシャムの村へ向かっていた。あいにくクレイ館には暖をとる薪も飢えを満たす食料も残されていなかったので。寒さしのぎに家具から剥ぎとった布をかぶり、冬眠中にうっかり目覚めた熊のごとく湖畔の道をのそのそ歩くぼくたちは、たしかに間抜けな幽霊に見えなくもなかっただろう。
「ヘレンさん、びっくりするでしょうね」
「まあ、質問攻めにはされるだろうな。その対応はルカ君、きみに任せた」
「ぼくに任せて先生は何をなさるんです」
「きっと床で伸びてるよ。真っ先にヘレンから一発食らって」
不穏な未来を口にしたところで、先生はふと立ち止まった。
「先生」
振り向いたぼくも、先生の視線の先を追って足を止めた。群青の空の
綺麗ですね、というぼくの声に、そうだね、と先生の声が返ってくる。それだけのことが、たまらなく嬉しかった。
「あれを」
布の間から腕を出して、先生が空を指さす。深い青と輝く朱金の混ざり合う、透きとおるような紫の空を。
「ごらん、ルカ君。あれはね、きみとオリヴァの色で」
それはたぶん、瞳の色のことだけじゃなくて。かつて先生の目に見えていた、ぼくと父がまとっていた――
「わたしのいちばん好きな色だ」
琥珀色の双眸をやわらかく細めて、先生はとっておきの秘密をぼくに教えてくれた。
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