第95話 冬を越えて

「坊やが生まれた年の春のことは、よく覚えていてよ」


 ゆったりとした口調でイザベラ女王は語り始めた。


「うんざりするような戦争からようやく解放された春でしたからね。あの年に生まれたことを、坊やは感謝するべきだと思うわ」


 恩着せがましい、という反発心が首をもたげると同時に、ぼくの胸は唐突に冷えた。ぼくが生まれた年。生まれた春。生まれた……ちょっと待て、と顔から血の気が引いていく。遅ればせながら、ようやくぼくは気づいたのだ。目の前のご婦人が、すでに世を去った人であることを。ということは、つまり、ぼくも――


「心配しなくていいのよ、坊や」


 ぼくの動揺を見透かしたように、イザベラ女王は言った。


「あなたはまだちゃんと息をしているわ。わたくしと違って。ああ、怖がらなくてもいいのよ。気味の悪い幽霊みたいにあなたを脅かす気もありませんからね。ああいうものとも違うのよ。わたくしたちは」


 たしかに、とぼくは思った。たしかに全然違う。夜の劇場でぼくを守ってくれた老ベルトランと、黒いヴェールで顔を隠したこの人は。


「……素敵な春だったわ」


 ふたたびイザベラ女王の声が追憶に沈む。先ほどから、この人は現在いま過去むかしを気まぐれに行き来しているようだった。まるで部屋から部屋を渡り歩くみたいに。


「風が暖かくて陽射しがやわらかくて……いつもと変わらない春だったはずなのに、殊更にそう感じられたのは、冬が長すぎたせいね。本当に、嫌な冬だったわ。朝から晩までじめじめして暗くて、凍えるように寒くて。おまけに、毎日のように届くのは誰が戦死しただの、どこが不利だのといったしらせばかり。いま思い返しても、あれほど気の滅入る日々はなかったわ」


 黒いヴェールに手をそえて嘆く女王陛下に、ぼくは何か言葉をかけるべきだったのかもしれない。たとえば、それはお気の毒でしたね、といったたぐいの。


 だけど、その時のぼくは、目の前のご婦人への同情心より反抗心が、厚意より恐怖の方がずっとまさっていた。誰かを気遣えるのは、気遣えるだけの余裕が自分にある時だけだと思う。少なくとも、ぼくはそうだ。もう少し年をとったら、ぼくもちょっとは変われるのかもしれないけど。それこそ、いつも余裕たっぷりの先生みたいに。


「アーサーが訪ねてきた晩も、ひどく寒かったわ」


 前触れもなく出てきた先生の名に、ぼくはどきりとした。たぶん、その頃はまだチェンバースと名乗っていた先生。ぼくの父の上官だった、若き大尉どの。


「あの子にはちょっとしたお遣いを頼んでいたのよ。それが急に戻ってきたものだから驚いたわ。まあ、本当に驚いたのは、あの子の様子にだったのですけどね。身なりもひどかったけれど、それ以上に目がねえ……あの子らしくもなく張りつめていて。あれでも上手く隠しているつもりだったのでしょうけど、わたくしにはわかりましたよ。この子ときたら、勝ち目のない賭けをしにきたのね、と」

「違いますよ」


 考えるより先に、ぼくの口が動いた。


「先生はそんなことしません」


 そう、先生はそんな人じゃない。ぼくの知っている先生は、綿密に、周到に計算をめぐらせて、だけどそれをちっとも表に出さず、軽やかに勝利をさらっていくような人だ。何度もチェスやカードの勝負を挑んで、その都度こてんぱんにされてきたぼくにはわかる。


 それとこれとは違うって? そうかもしれない。昔は先生もそこまで熟練の域には達していなかったんじゃないかって? その通りかもしれない。


 だけど、これだけは言える。ぼくの先生も、ぼくの父の友人だったチェンバース大尉どのも、決して最初から負けるつもりで事に当たるような人じゃないってことだ。


「……あらあら」


 ぼくの反論に返ってきたのは、相変わらずのくすくす笑いだった。


「坊やがそう思うのは勝手ですけどね、あまり生身の人間を偶像化するものではなくてよ。あとでより深く失望することになりますからね。まあ、その顔だと坊やはもう知っているようね。アーサーがわたくしに何を言いにきたのかは」

「……あなたは」


 ぼくは父の手帳を押さえながら、ぐっと両足を踏ん張った。なんとなく、ここが正念場だという気がした。


「断ったんですか。先生の頼みを」


 ぼくの父を、ぼくの父の仲間を助けてくれという先生の頼みを。


「いいえ?」


 いっそ楽しそうに、イザベラ女王はぼくの問いを否定した。


「そんなことはしていないわ。わたくしは、ただ選択肢を与えただけよ。選んだのは、あの子」


 ねえ坊や、とイザベラ女王はぼくの左手を指さした。ぼくの手の下にある父の手帳を。


「教えてあげるわ。あなたのお父様を見殺しにしたのは、あの子。アーサーよ」




 

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