第94話 白猫たちの行方

「そう怖い顔をするものではなくてよ、坊や」


 ぼくをなだめるように、イザベラ女王は呼びかけた。


「あなたに危害を加える気はないのですからね」


 どうだか、という気持ちが、多分そのまま顔に出てしまったのだろう。黒いヴェールの向こうから、笑いの気配がさざ波のように伝わってきた。


「あなたを見ていると、むかし飼っていた猫を思い出すわ。どこかからの贈り物だったかしら。白くて可愛らしい猫でね」


 坊やの次は猫ときたものだ。ぼくがどうしてあのご婦人を好きになれなかったのか、その原因の一端はあの人自身にあると思う。あの人がもうちょっとぼくをまともな人間として扱ってくれたら、ぼくだってそれこそ毛を逆立てた猫みたいな態度をとらなかったのに――なんて、畏れ多くも女王陛下に対して不敬が過ぎるというものかな。


「でも、わたくしにはまったくなついてくれなくてね。綺麗な毛並みを触らせてもくれなかったわ。いつだったか、寝ているところをなでようとしたら引っ掻かれてしまってね。あのときはたいそうな騒ぎになったものよ。わたくしに傷をつけたといって、お父様……時の国王陛下がずいぶんお怒りになってねえ」


 思い出にひたるように、イザベラ女王は口を閉ざした。しばらく待ってから、ぼくは続きをうながした。


「どうなったんですか」


 おや、というようにイザベラ女王は首をかしげた。


「それで、どうなったんですか。その猫は」

「さあ。翌日には姿が見えなくなっていたわ。きっと侍従がんでしょう。その後すぐに、今度は犬がきたわ。しっかりしつけのされた、強くて大きくて忠実な犬がね。あれは良かったわ。やっぱり飼うなら猫より犬のほうがいいわよね。坊やもそう思わない?」


 猫も犬も飼ったことのないぼくは、ただ黙って首を横にふった。答えのわからない問いを投げかけられたぼくにわかることと言えば、その白猫とは気が合いそうだなということくらいだった。


「お聞きしてもいいですか」


 しなやかな猫の残像を頭からいったん追い払い、ぼくはイザベラ女王に訊ねた。


「先生はどこですか」


 返ってきたのは、含み笑いの気配だった。


「……あなたは」


 椅子のひじ掛けに頬杖をつき、イザベラ女王はほうと息を吐いた。


「明けても暮れてもそればかりねえ。よくもまあ、そこまで手懐けられたものだこと。忠実なのは結構だけど、少しつまらないわね。ひとつの旋律しかさえずらない小鳥のようだわ」

「だったら」


 ぼくはぐっと両足を踏ん張り、目の前のご婦人をにらみつけた。


「ぼくも片づければいいんじゃないですか」


 念のために言っておくと、ぼくはそこまで喧嘩っ早い性分じゃない……と思う。いくらヘレンさんの愛弟子を自認しているぼくでも、誰彼かまわず突っかかるような真似は慎んでいるつもりだ。


 だけど、どういうわけか、あのご婦人と対峙しているときのぼくは、むやみやたらと好戦的になってしまうのだ。


 今なら、その理由もわかるような気がする。ぼくはきっと、あの人が怖ろしかったんだろう。あの黒々とした闇をまとったチェンバース卿より、ずっと。


 物腰やわらかなあのご婦人の、底知れない暗さが、ぼくは怖かった。黒いヴェールの向こう側にあるものを、想像するだに怖ろしかった。だからこそ、ぼくはああも反抗的な態度をとっていたのだろう。身のうちの恐怖に負けないように。自分を奮い立たせるために。


「そういう言い方をするものではなくてよ、坊や」


 まあ、そんなぼくの虚勢も、あのご婦人の前では薄紙のようにはかないものだったけど。


「交渉事はね、先に感情的になった方が負けなの。素直さが美徳になるのは、坊やくらいの年齢としまでね。その点、アーサーはすばらしく優秀だったわ。あのときまではね……」


 追憶のもやが、イザベラ女王のまわりにうっすらと漂いはじめる。今度は先を急かさず、ぼくは辛抱強くその先を待った。


「ねえ坊や、少しだけ年寄りのおしゃべりに付き合う気はないかしら? あなたもきっと知りたいはずよ。だって、あなたのお父様にも関わることですもの」


 いつかと似たようなその問いに、ぼくはうなずいて応えた。先生のお下がりの外套の上から、父が遺した手帳を握りしめながら。



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