第56話 古屋敷の冒険

 ぼくと先生が暮らしていたクレイ館は、ざっくり分けると三つの建物で構成されていた。中央の母屋と、その左右の別棟とで。ぼくらが使っていたのは西棟の一階部分だけだったが、それでもグラウベンの家の倍はあったのだから、館全体の広さたるや、これはもう大変なものだった。


「掃除が大変ですね」


 いつだったか、そんな感想をもらしたぼくに、先生は「きみも所帯じみてきたねえ」と感心したような口ぶりで返したものだ。ぼくがそうなったのも、たいがい先生のせいなんだけど。幻術師としては一流の腕前を誇る先生でも、家事全般にかけては素人以下だったから。ああ、これは断じて悪口じゃない。


 さて、かくも広大な屋敷の探検にのりだしたぼくは、まず渡り廊下を抜けて母屋へ向かった。ばたばたと鎧窓をたたく雨音を聞きながら暗い廊下を進み、いくつかの扉をくぐると、がらんとした空間がぼくを出迎えた。


 おそらく母屋の玄関ホールだろう。広々とした吹き抜けと大きな階段は、園遊会の日に訪ねたチェンバース邸とよく似ていたが、豪奢な絨毯や絵画や瑞々しい花々で飾られていたチェンバース邸とは異なり、床も壁も裸のままのそのホールはいかにも寒々しく、見捨てられた廃城めいた雰囲気をただよわせていた。


 ぼくは薄暗い玄関ホールをぶらぶらと半周し、ホールを抜けた先にあった客間や、さらにその先につづく舞踏会でも開けそうな――実際、かつては頻繁に開かれていたのだろう――大広間や、二十人くらいはいっぺんに着席できそうな食堂を見てまわった。


 どの部屋も天井が高く、どっしりと重厚な、あるいは優美な造りだったが、そこに華をそえていたであろう調度の数々はどこかに仕舞い込まれ、残された家具もみな埃よけの白い布に覆われていた。


 長らく閉め切っていた屋敷特有のよどんだ空気のなか、暗がりにうずくまる白い布のかたまりは、ぼくにある光景を想像させた。そう、それはさながら墓地に点々と横たわる墓石の――


 ――ボーン!


 突如鳴り響いた鐘の音に、ぼくは飛び上がった。口から心臓が出るとは、まさにあのことだ。ばくばくする胸を押さえながら、ぼくはあたりを見わたした。目に入る光景は先ほどと同じ、がらんどうの空間と白い布のかたまり。耳を打つのはざあっという雨の音。


 おかしなところ、変わったところは何もない。だけど、そこは明らかに先ほどとは違う場所であるように、ぼくには思えた。たとえるなら、鏡の向こうの世界にひきずりこまれたような。目に映る景色はまるで同じなのに、決定的な何かが違う……何を言っているのかわからないって? まったくだ。そのときのぼくも何が起きているのかまるでわからず、ただ全身をさいなむ違和感を持て余すばかりだった。


 帰ろう、とぼくは思った。冒険はもうたくさんだ。一刻も早く明るいところ、安全な世界へ帰りたかった。ぼくはそろりときびすを返し、来た道をもどりはじめた。


 駆けださなかったのは、ぼくが豪胆だからなんかじゃない。むしろ逆だ。走ることは認めてしまうことだった。走って逃げなければならないほど嫌なもの、怖ろしいものがそこにある、ということを。それをぼくは認めたくなかったのだ。


 食堂と大広間を抜け、ふたたび客間に出たところで、視界の端に背の高い白いものが映った。ほかの家具と同じく布で覆われたそれは、形からして振り子時計のようだった。


 ああこれが、とぼくはその時計とおぼしきものに歩み寄った。よくもおどかしてくれたな、という多少の腹立ちとともに、ぼくはその布を引きはがし――まぎれもない恐怖に凍りついた。


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