第54話 はじめての休暇

 先生と過ごしたあの年の夏を、ぼくは人生最良の日々として記憶している。毎日やりたいこと、楽しいことがきりなくあって、一日一瞬が宝石のように輝いていた。


 毎朝にぎやかな鳥のさえずりで目を覚ますと、まずは顔を洗って朝食の支度をする。ここまではグラウベンの家にいたときと同じだ。お茶を淹れているあたりで先生が眠たそうな顔であらわれるところも。違う点といえば、近隣の牧場から届けられる卵がびっくりするほど新鮮で美味しいところだろうか。


 朝ごはんを終えて皿洗いを済ませたら、ぼくは先生に見送られて戸外へ飛び出す。スケッチブックを小脇にかかえ、ポケットに林檎をひとつねじこんで。行先はその日の空模様と気分次第だ。クレイ湖のほとりで水鳥をスケッチすることもあれば、館の裏手に広がる森をそぞろ歩き、名も知らぬ野花を書き写すのに夢中になる日もあった。


 村の教会が鳴らす昼の鐘を合図に、ぼくはスケッチを切り上げて館にもどる。昼食を用意してくれるのは村の奥方たちだ。初日にヘレンさんが言っていたとおり、村の人々が毎日交代で館の掃除や食事の世話をしに来てくれるのだが、皆お昼には我が家へと帰っていく。入れ違いで帰ってきたぼくを先生は「おかえり」と迎え、毎回嬉しい提案を持ちかけてくれるのだ。


「今日は天気がいいから外で食べようか」


 いいですね、とぼくは賛成して、それから先生と協力してテーブルを庭に運び出す。明るい陽射しと湖を吹き渡る風を頬に受けながら先生と食卓を囲むのは、最高に楽しいひとときだった。


 用意してもらった料理をバスケットにつめ、丘に登ってピクニックとしゃれこむ日もあった。湖にこぎだしたボートの上で昼食の包みを広げたこともある。これはこれで愉快だったが、ぼくがひと口かじっただけのサンドイッチを湖に落としてしまったのは、いま思い返しても残念でならない。


 昼食の後、たいてい先生は居間の長椅子か庭の木陰で昼寝をするのだが、たまにぼくに付き合って野山を散策したり、川辺に並んで釣り糸を垂らしたりもした。ダリルさんに自慢できるほど大きなますは釣れなかったものの、それでも毎回そこそこの釣果を上げたぼくらは、釣った魚を意気揚々と“緑の獅子”に持ち込むのだった。


「食材持参でやってくる客なんて、あんたらくらいだよ」


 などとヘレンさんはあきれていたが、客の顔を見るなり「待ってたよ、ルカ」とエプロンを放ってくるのもヘレンさんくらいだったろう。役得だらけの厨房の手伝いは大歓迎だったけど。


 毎晩のように“緑の獅子”で過ごすうち、ぼくにも顔見知りと呼べる人が増えていった。クルス医師の孫、とヘレンさんが紹介してくれたおかげか、村の人々はおおむね好意的にぼくを受け入れてくれた。クルス先生には世話になったなあ、と。


 口々にクルス医師とその息子、オリヴァ青年について語ってくれる人々も、オリヴァ青年が村を離れて以後のことには触れてこなかった。おそらくヘレンさんが事前に言い含めておいてくれたのだろう。あの子は何も知らないんだから、余計なことはくんじゃないよと。


 実際、オリヴァという青年のその後について、ぼくは何も知らなかった。グレンシャムを訪れた最初の夜に先生が語ってくれたこと以外は何も。


 あの夜以来、先生はぼくの父について沈黙を保っていたし、ぼくからも尋ねなかった。いずれ先生から話してくれると信じていたせいもある。だけどきっと、それ以上にぼくは怖れていたのだ。ぼくと先生との間の心地よい距離が、オリヴァという存在によって崩れてしまうことを。


 まだ、と。あの頃のぼくは自分に言い聞かせていた。焦ることはない。まだ時間はたっぷりあるのだからと。たぶん、誰もが覚えのあることじゃないだろうか。楽しい休暇が永遠につづくような錯覚に陥ることが。それがいずれ終わるものだと、心の底ではわかっていたとしても。


 あの夏は、ぼくが生まれて初めて手にした休暇だった。まばゆい陽光にいろどられた輝かしい日々。それは季節のうつろいとともに終わりを迎えた。いや、正確にはあの日に終わったのだ。


 あの日ぼくの身に起こったことについては、正直うまく伝えられる自信がない。なにしろ、あのときのぼくはひどく怯え、混乱していたものだから。だけど、なんとか頑張ってみよう。落ち着いて、順を追って話せば、きっとわかってもらえると思う。あの雨の日の出来事について。

 

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